Wishes

増田朋美

第一章 聡美さん、歯医者に行く。

その日も暑い日だった。なんだか暑いというか、それよりも体力を奪われてしまうような、そんな日だった。暑さに体力を吸い取られて、もう人間何もやれなくなってしまうような、そんな日だった。

そんな日であっても、水穂さんのような病人の世話をすることは、いつでもしなければならない。それが恒常的に行われるせいで、いろんな事件の原因であってしまうのであるが、、、。でも、しなければならないことである。この暑さのせいで、水穂さんの世話を積極的にしてくれる利用者は少なく、杉ちゃんが毎日毎日やってきて、水穂さんの世話をしているのだった。その日も、お昼のパスタを一生懸命食べさせていた。のであるが、

「ほら!食べてよ!頑張って完食しようよ!」

と、杉ちゃんが苛立って言うほど、水穂さんは食べ物を受け付けなかった。

「お願いしますよ。頼むから食べて。食べないとさ、栄養が取れないで、動けなくなっちまうぞ。」

と、杉ちゃんが言って、口元へパスタを絡ませた箸を持っていき、ほら食べろとなんとか口に入れるのであるが、水穂さんはそれを食べることはできず、咳き込んで吐いてしまった。それと同時に、赤い内容物も出る。

「あーあ、またやるう。もうなんでこうなっちまうのかなあ。そりゃね、たしかに、暑いから辛いのはわかるけどさ。でも、ちゃんと食べて、頑張って明日に繋げなきゃ。それはしなきゃいけないことだぜ。」

杉ちゃんは、水穂さんの背中を擦って、中身を出しやすくしてあげた。

「只今戻りました。」

用事があってでかけていたジョチさんが、四畳半に戻ってきた。

「はあ、全く暑いですね。ほんと、これでは、体がとろけてしまいそうです。ほんと、こんな暑い日がいつまで続くのかなって感じですね。全く、困りますねえ。」

と、ジョチさんは、手ぬぐいで汗を拭きながらはいってきて、すぐに表情を変えて、

「また、やったんですか。」

と嫌そうな顔をしていった。

「はい、事実そのとおり。またやりましたよ。ほんと、なんとかして、ご飯を完食してもらいたいものだなあ。もうさ、ご飯を食べてくれたら、涙を流して喜ぶよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうですねえ。それが現実になってしまいそうなくらいの暑さですね。」

と、ジョチさんは、やれやれという顔で言った。それと同時に、水穂さんが激しく咳き込んだ。それと同時に、赤く生臭い液体が、水穂さんの口から噴き出した。

「馬鹿たれ!こんな時に畳の張替え屋を用立てたら、畳屋に文句言われちゃう!」

「とにかく、薬を飲んで寝てもらいましょう。」

ジョチさんが、薬のはいった水のみを水穂さんに渡した。水穂さんは中身にすがりつくように飲み込んで、二人に、

「ごめんなさい。」

と言った。

「謝ってすむ問題じゃないんだよ。それよりも、こういうことにならない様に、ご飯を食べて体力つけてさ、しっかりしてくれ。お前さんのやることはそれなの。他のことはしなくていいから、ご飯を食べるという気持ちになってくれ。」

杉ちゃんに言われて水穂さんは、もう一度、

「ごめんなさい。」

と小さい声で言った。ジョチさんが、調子が悪いのであれば、はやく休みましょうと言って、布団に寝かせてやり、掛ふとんをかけてやった。どうして、こんなことまで、してやらなくちゃならないんだろうなと思うのであるが。

「謝る前に、ご飯を食べてください。それが目下の急務ですよ。水穂さん。」

ジョチさんがそう言うが、水穂さんは返事をしなかった。薬に眠気をもたらす成分がはいっていたためである。

「あーあ、やれやれ。まあ、僕達も、こうなることがずっと続いていくんだろうね。なんか、この現実から逃げたいと思いたくなっちゃうほどの暑さだなあ。」

杉ちゃんは大きなため息をついた。

「でも、水穂さんは、製鉄所の人気者であることは間違いありません。彼に、焼き芋をもらった事によって、立ち直った利用者は何人もいます。それが、重大な役目なのを、本人が気がついていない事が問題です。」

ジョチさんは管理人らしく言った。

「只今戻りました。水穂さん、今日学校で。」

そう言いながら一人の女性がはいってきた。名前を、植松聡美といった。長年、引きこもりをしていたが、今年の春から、通信制の高校に通いだしたのである。それを促したのは、紛れもなく水穂さんだった。水穂さんが、勉強することで、居場所を見つける事ができるのではないかと提案したためだ。ちなみに、彼女は、毎日学校に通うとなると、また拒食症が再発するおそれがあるので、週に一回だけ学校に通っていた。今日は夏休みが終わって、始業式の日だったのだ。

「水穂さん。」

と、聡美さんは、四畳半にやってきたが、布団で眠ってしまっている水穂さんを見て、とても残念な顔をした。

「ごめんねえ。大事な始業式の日だったのに、水穂さん、さっき発作を起こして眠ってしまったよ。」

杉ちゃんがそう言うと、聡美さんは涙をこぼした。

「どうしたんです?それほど、水穂さんに聞いてほしい事があったんですか?担任教師に叱られでもしましたか?」

と、ジョチさんがそう言うと、

「いえ、そういうことじゃありません。だって、羨ましいですよ。同じ、拒食症なのに、水穂さんは、杉ちゃんたちに食べさせてもらっているんですから。私も、たしかに家族に食べろということはありましたけど、水穂さんみたいに、薬を飲ませて、どうのということはありませんでした。私のときは、叩き合いのようでしたよ。だから余計に食べ物を食べなくなったのかも?」

と、彼女、植松聡美さんは言った。

「そうですか。確かに、拒食症に陥ると、異様な姿に家族も食べさせなければと焦りますものね。それでは叩き合いになっても仕方ありません。そこは、ちゃんと事実として、把握して置かなければなりませんよね。」

と、ジョチさんがそう言った。確かにそれは、そのとおりにしなければならない事実でもあった。

「あたしは、毎日毎日、食べ吐きをしたせいで、ご覧の通り歯が全部抜けてしまいました。入れ歯を作ってもらったんですけど、年寄みたいで、悲しいんです。先日、入れ歯を落として割ってしまいまして、親にひどく叱られて。それで、また落ち込む様になって。」

そう泣き出してしまう彼女に、水穂さんだったら、そうですね、それはお辛いですねということが出来るはずだった。杉ちゃんやジョチさんは、そのような事ができる人間ではなかった。

「そうかも知れないけどさ、それなら、もっと腕のいい歯医者に行ってさ、ちゃんと、入れ歯を作り直してもらってきたらどうだ?お前さんは、まだ35だ。モーツァルトが生きていた頃なら、寿命が切れる年代かもしれないが、この世の中ではまだまだ生きていける年齢だよ。そのためには、食べることが必要だし、歯がなければ、食べられるわけがない。それなら、ちゃんと腕のいい歯医者に行ってだな、入れ歯を作り直してきてもらえ。それも、年寄が使うような入れ歯ではなく、ちゃんとこれからも使えるような入れ歯だ。」

杉ちゃんに言われて、彼女は、

「そうなんですけど、入れ歯を作ってくださいなんて、言えるわけが。」

と言った。

「ですが、杉ちゃんの言う通り、歯がないということは、拒食症の回復を遅らせてしまうことにもなりかねません。だったら、入れ歯を作ってもらわないとだめです。」

ジョチさんも、杉ちゃんの話に同調した。

「ごめんなさい私、わがままですよね。でも年寄みたいで、歯医者さんといえば男性ばかりだし、それで笑われることも多くて。」

そこも日本の医療界の問題かもしれなかった。確かに、医療関係者は男性ばかりだ。女性医師も居ることには居るが、一握りしかいない。

「じゃあ、そういうことなら、女性医師が居る歯医者を探してだな。入れ歯を作ってもらうんだな。」

杉ちゃんに言われて、聡美さんは、

「でもどうやって、見つけたらいいでしょう。」

と小さい声でいうと、

「口コミサイトを見るとか、精神保健福祉センターなどに聞いてみたらどうでしょう?」

と、ジョチさんが言った。

「そういう心の問題を扱っているところであったら、拒食症で苦しんでいる方のための歯医者さんとか、紹介してくれるのではないでしょうか?」

「ほら、早速かけてみろよ。」

杉ちゃんに言われて、聡美さんは、スマートフォンを取った。そして、富士市内にある精神保健福祉センターの番号を回した。

「あの、私、植松聡美というものですが。」

応答したのは女性だった。

「はい、なにか精神関係の相談事ですか?」

「ええ、そうなんです。10年近く拒食症を患っていましたが、それで、食べ物を食べては吐くのを繰り返したせいで、歯が全部抜けてしまいまして。それで、入れ歯を作ってもらうしか無いと言われましたが、そういう病気に理解がある歯医者さんと言うのを紹介していただけないでしょうか?」

聡美さんは、とても恥ずかしそうに言った。そうやって成文化出来るというのは、回復している一つの目安になるが、そういう事ができるというのだから、聡美さんはかなり良い状態なのだろう。それなら、より歯を作ってもらったほうがいい。

「そうですねえ。富士市内で、拒食症とか、そういうものに理解がある歯医者さんは、、、。」

応答した人は、なにか考えるように言った。

「富士市横割にある、北條歯科というところがあるんだけど、そこへ言ったらどうかしら?」

「北條歯科ですか?どこにあるんですか?」

聡美さんがそうきくと、

「はい、富士駅から歩いて、数分でいけますよ。富士駅から歩いて5分も無いと思います。行けばわかるところです。子供の患者さんが多いので、わかりやすいように青い屋根の建物になっています。」

いかにも事務的な言い方で、受付の人は答えた。

「わかりました。青い屋根ですね。そうすればすぐに分かるんですね。」

聡美さんがそう言うと、

「はい。青い屋根です。それですぐに見つかりますよ。頑張って、よい入れ歯を作ってくださるように、交渉してくださいね。」

と、応答した人は、そう言った。聡美さんは、

「ありがとうございます!本当に助かりました。」

と、嬉しそうに言って、電話を切った。

「北條歯科というところが、理解があるところだそうです。駅前の青い屋根の建物が目印だそうです。」

と聡美さんは言った。すぐに、スマートフォンで北條歯科の場所を調べて見ると、インターネットで治療の予約ができるということだった。聡美さんは、すぐに北條歯科にメールを送り、翌日に治療をしてもらうことになった。

翌日、聡美さんは、富士山エコトピアのバス停から、富士駅行のバスに乗り、富士駅南口で降りた。そして、青い屋根を探してみると、鮮やかな青い屋根の建物が見えた。小さな看板があって、「北條歯科、小児歯科医院」と書いてある。聡美さんは、急いでその建物の中にはいった。

確かに歯医者なのであるが、いかにも普通の家に近いような建物である。子供の患者さんが多いというが、たしかに、子供さんが多く来ている。それを慰めるためであろうか、大きなテディベアが置いてあった。

「植松さん、くまさんの部屋にお入りください。」

受付に言われて聡美さんは、くまさんの絵が書かれたドアを開けた。それは診察室であったが、おそらく子供さんが多いために、そのような言い方を避けたのだろう。

「はじめまして。」

と、白衣を着た女性が、やってきた。

「はじめまして、歯科医の北條美子です。」

と、彼女は言った。

「はじめまして、植松聡美です。」

聡美さんも自己紹介した。

「えーと、今回は、入れ歯のご相談だそうですね。ちょっと拝見させていただいていいですか?」

北條美子先生がそう言うので、聡美さんは口を開けた。確かに、歯はとうの昔に抜けてしまっていて、一本も生えていなかった。

「そうですね。確かに、入れ歯にしないと行けませんね。ですが、入れ歯というと、どうしても年寄りみたいな気持ちになってしまいますよね?」

と、美子先生は言った。

「はい。それはどうしても、避けたいことで。」

と聡美さんがいうと、

「じゃあ、インプラントをしてみませんか?それなら、入れ歯のイメージとは違って、年寄みたいだと言われることは無いと思うわ。それに前あった歯にできるだけ近づけることもできますよ。どうでしょう?」

と、美子先生が言った。

「いえ、それはお金がかかりすぎるので、私はちょっとそれは。」

と、聡美さんが言うと、

「でも、これからもあなたは生きていかなければならないわけですし、これからも食べていかなきゃいけないでしょう。それに、入れ歯は年寄りみたいという偏見を払拭するんだったら、インプラントしか無いわよ。ちゃんとご自身のことを考えて。これからもあなたは生きていかなきゃならないのよ。」

と美子先生はちょっときつく言った。その言い方がちょっときつかったので、聡美さんは少し怖くなってしまった。

「じゃあ、今から契約書を持ってくるわ。インプラントに当たって、注意点とかそういう事を、説明するから。」

美子先生がそう言うと、

「ちょっとまってください。私まだ契約するとは!」

聡美さんがそう急いでそう言うと、

「でも、インプラントをするしか、治す方法は無いわよ。あなたは、それで、そうしなければ食事もできないでしょうし、それ以外に選択肢は無いと思いますが。」

と美子先生は当然のように言った。

「ちょっとまってください。そうかも知れないですけれど、私まだ、家族に相談していません。相談をして、もう一度お返事します。今日は、先生にそう言われたことを家族に話して、もう一度こちらへ来ますから、今日は帰らせてください。」

と、聡美さんは困った顔をして、帰り支度を始めた。

「わかったわ。でも、そういうことであれば、インプラントするしか方法は無いんですから、できるだけ早く、意思を決めて、早く契約書を持ってきてください。それでは、よろしくおねがいします。」

美子先生は、冷たい態度でそういったので、聡美さんは、とりあえず今日は帰りますと言った。看護師が、彼女の後ろにあったドアを開けてくれなかったら、彼女はへやを出られなくなってしまう可能性があった。この診察室は個室制になっているけれど、それは返って怖いような、そんな気がしてしまうのだった。

「ありがとうございます。」

そう言って、逃げ帰るように、聡美さんは、急いでくまさんの部屋を出た。なんだかドアに書いてあるくまさんのイラストが、自分を睨みつけるような感じに見えてしまった。その日は薬も何も出ず、診察料だけ払って帰ったが、それが大量にとられてしまわないが、不安で仕方なくなるほど、聡美さんは怖いと思った。急いで、富士駅へ歩いて行き、バスの時間を調べたら、30分近く待たなければならなかったので、タクシーで帰った。

製鉄所に帰ってみると、その日は水穂さんも発作を起こすことはなかったようで、聡美さんが四畳半に入ると、

「おかえりなさい。」

という声で、出迎えてもらえた。

「おかえり。で、入れ歯は作ってもらえたの?」

杉ちゃんにそう聞かれて、聡美さんは、

「それが、北條美子という先生に、インプラントを強引に進められて、すぐに契約させられそうになったので、急いで逃げ帰ってきました。」

と、正直に答えた。

「はあ、変なやつだなあ。よほど金が欲しかったんだろうか?」

杉ちゃんがわざととぼけると、

「こ、怖かったですよ。すごく強引に、インプラントに持っていかれそうになって、私、どうしたらいいか。」

と、聡美さんは泣きそうになって言った。

「泣いちゃいけないよ。まあ、そういう悪質な歯医者だったくらいに軽く考えておけばいいんだ。それではどうせ、大したことないんだから。それよりも、精神保健センターも当てにならないんだったら、しょうがない、口コミサイトで調べるんだな。」

「杉ちゃんそういう事言う前に、彼女には、怖かったねと言ってあげるべきなのでは?」

水穂さんが優しくそう言うと、杉ちゃんは、

「お前さんは本当に優しいんだなあ。他人に優しいのはいいけどさ、少しは自分にも優しくなろうよ。昨日みたいに、ご飯を食べないで、咳き込んでしまうのは辞めておけよ。」

と呆れた顔で言った。

「そうかも知れませんが、今は、聡美さんが怖い思いをしたということを、和らげてあげることを、優先するほうが。」

水穂さんにそう言われて杉ちゃんはそうだねえといった。

「そういう悪質な歯医者で、ほんと、怖かったと思いますよ。これからは、他の歯医者さんを探すことになると思いますが、もう少し、慎重に動いたほうがいいかもしれませんね。これからは、お気をつけて探してください。」

水穂さんにそう言われて、聡美さんは、

「ごめんなさい、水穂さん。」

と、小さい声で言った。

「大丈夫ですよ。仕方ないですもの、そういうことは、予め確認する事ができないことですから、やってみなければわからないことです。それに、評判の悪い歯医者だったことも、意外にあることです。」

「全くだ。次は、別の方法で歯医者さんを探すんだな。まあ、色んな情報が溢れている社会だけど、一番確実なのは人にきくのが一番だよ。それを、しっかり考えて動くことが大事だ。それは、頑張ってね。」

水穂さんと杉ちゃんに励まされ、聡美さんは、

「はい、ありがとうございます。また同じかもしれませんが、何回も当たってみることも大事ですよね。」

と、勇気づけられた様に言った。

「じゃあ、頑張って見つけてください。今度こそ、良い歯医者さんが見つかることを祈ります。」

水穂さんが優しく言ってくれたおかげで、聡美さんは、次のステップへ動くことができた。またスマートフォンを開いて、口コミサイトを探し当て、歯医者さんを見つけるという行動に出ることができた。人間と言うものは、自分の行動をときに慰めてもらわないと、動けないこともあるものなのだ。

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