産女
「……えっ!?
お母さんが小さくそう叫んだ時、私はその言葉の意味を上手く理解できなかった。
「どうして……え? えぇ、いいけど……ちょっと、ねぇっ!? どういうことなのっ!? 詳しい話を……っ!!」
病院に連れられていけば、分かると思っていた。
お通夜が終われば、分かると思っていた。
お葬式が終われば、分かると思っていた。
……でも結局、全てが終わって一週間が過ぎた今でも、私はあの言葉の意味が理解できずにいる。
15歳年上の
順風満帆だったはずだ。繭梨ちゃんが死んでしまう理由なんて、どこにもなかったはずなのに。
お通夜の時も、お葬式の時も、棺の蓋はピッチリ閉ざされていて、死に顔を見ることはできなかった。祭壇に二人分の名前が並んでいたから、きっとお腹の中の子供もろとも、だったのだろう。
「お母さんも、詳しい話は全然聞けていないのよ。旦那さんのお
繭梨ちゃんのお葬式が終わって一週間。
初七日の法事がたまたま土曜日で家族と一緒に出席していた私は、その帰り道、お母さんと一緒に、初めて訪れた病院の、見慣れない病室に立っていた。
「繭梨ちゃんが亡くなったって電話をもらった時にね、繭梨ちゃんのお母さんから、入院していた時の荷物を、遺族代表として受け取ってきてもらえないかって言われていたのよ」
「どうして、お母さんが?」
「繭梨ちゃんの周りの人は本当にショックが大きいみたいで。まともに動ける人も、まともに物が考えらえる人も、まだいないみたいなのよ」
繭梨ちゃんが最期を過ごしたのは、大きな総合病院の産科病棟だったらしい。小さな個室は仮初めの主を失ってガランとしていたけれど、空室ではないことを示すかのように私物が置かれたままになっていた。どれもこれも私には見覚えがないけれど、多分、繭梨ちゃんの私物、なのだろう。
「……繭梨ちゃんの荷物、これで全部なの?」
そう思いながら病室を見回して、私はふと違和感を覚えてお母さんを呼び止めた。小さなキャビネットの扉を開けて中に入れられたままになっていたタオル類を取り出していたお母さんは『え?』と疑問の声を上げながら私を振り返る。
「そうなんじゃないの? ここが病室だったわけだし」
「変じゃない?」
「何が?」
「だって繭梨ちゃんがいたのに、絵の道具が何もないよ」
絶対変だ、と私は言い募る。
私の記憶の中にいる繭梨ちゃんは、いつだって絵の道具と一緒にいた。仕事として描く時はデジタルで描いていたみたいだったけど、アナログイラストも大好きで、繭梨ちゃんがいる場所には常に何かしらの画材が転がっていた。うちに遊びに来ている時でも鞄の中にはいつもメモ帳とボールペンが入っていて、少しでも何か待ち時間ができようものならせっせと落書きを量産していた。
昔、どうしてそこまでして描くのかと質問したことがある。繭梨ちゃんの答えは『別に、描かなきゃいけなくて描いているわけじゃないの』だった。
『ヒトはさ、息をしなくちゃ生きていけないでしょ? 私はね、どうやら描かなきゃ生きていけない人種らしいのよ。みんなにとっての『息をすること』が、私にとっての『絵を描くこと』なのよ』
繭梨ちゃんは、そう言って笑っていた。繭梨ちゃんの表情の中で、私が一番好きな顔だった。
「絶対おかしいじゃん、こんなの」
だというのにこの部屋には、メモ用紙の一枚、ボールペンの一本、ノートパソコンの一台もない。絵が描ける道具が何もない。こんな部屋じゃ、繭梨ちゃんは息をすることができない。
「あぁ……、それね」
私がそう訴えると、お母さんは何かをこらえるように眉をひそめた。
そして、にわかには信じられないようなことを口にする。
「繭梨ちゃん、絵のお仕事を辞めたみたいなのよ」
「……え?」
「『結婚したからには子供を産め。絵なんて子供が育ってからいくらでも描けばいいだろう。この10年は子供を産み、育てることが何より優先だ』って、向こうのご両親に言われていたみたいで」
……私は、バカになったのかもしれない。
お母さんが口にしている言葉はちゃんとした日本語であるはずなのに、全然頭に入ってこないし、意味が理解できない。
「3ヶ月くらい前に、お母さん、ここにお見舞いに来た時にその話を聞いて。そんな酷いことをって思わず怒っちゃったんだけど、繭梨ちゃんは『歳も歳ですし、向こうのご両親の言うことの方が正しいって分かってますから』って。入院しなきゃ体が持たないくらいガリガリに痩せちゃた繭梨ちゃんがそう言って笑うのが、すごく痛々しくて……」
……
繭梨ちゃんは、向こうのご両親に言われたから、絵をやめた? ……ううん、そんなことでやめられるはずがない。たとえやめようと思ったって、やめられるものじゃない。
何か、きっともっと決定的なことがあったから……
「間が悪いことに、繭梨ちゃん、妊娠が分かった頃に妊婦貧血の立ち眩みが酷かったらしくて、変な風に転んで右手を怪我しちゃってたらしいの。それでしばらく絵を描くことができなくて、その頃に来ていた大きなお仕事の話も流れちゃったらしくて……。それも、絵をやめるきっかけになっちゃったみたいなのよ」
急に、意味が分かる言葉が耳に飛び込んできた。同時にザッと全身の血が下がる。
──きっと、その全部が、原因なんだ。
「お……お母、さん」
呼吸を奪われて、箱に押し込められて、心の自由も、体の自由も奪われて。
そんな、そんな繭梨ちゃんが、生きていられるわけが……
「も、しかして、……繭梨ちゃん、は……」
喉が干上がって声が出ない。かすれて、震える声は、私自身の耳にさえ届かない。
「
あんたはここで待っててね、と。お母さんは凍り付いて動けない私をその場に置いて病室の外へ行ってしまった。お母さん、と呼び止めたつもりだったのに、さっき以上に干上がってしまった喉ではもう呻き声を上げることしかできない。
結果、私は繭梨ちゃんが最期を過ごした小さな牢獄に一人取り残された。
カーテンが引かれた窓辺。寝具が残されたままのベッド。点滴を吊るすためのスタンドがその狭間にポツンと取り残されている。
──もしかして、繭梨ちゃんは
体調が悪くて入院している、という話だけは聞いていた。だけど私は、ついぞここにいる繭梨ちゃんを見舞うことはなかった。色々タイミングが合わなかったからだけど、それでも、私がここに来れていたら、何かが変わったかもしれないのに。
──ここの窓から、自分で、飛び降りて……
まだ明るい時間帯であるはずなのに、フッと部屋が暗くなったような気がした。同時にズズッ、ズズッと、何か水っぽくて重たい物を引きずっているような音が聞こえてくる。
「苦しい」
ポツリ、と。
水滴を落とすかのように、その声は響いた。
「苦しくて」
「幸せで」
「「息ができない」」
まったく同じ声で、二種類の言葉が聞こえた。
すぐ目の前から響いた声に目を
「「この子の名前は
「みんなにたくさん望まれて生まれてくるから」
「私の夢も希望も全部奪い取って生まれてくるから」
「「だから、この子の名前は望」」
痩せて皮と骨ばかりになった体。ボサボサで、所々抜け落ちた髪。くぼんだ眼窩。お腹だけがポッコリと丸い。
まるで地獄絵図に描かれた餓鬼みたいな姿。枯れ木のような腕がゆったりとお腹をさすっている。
私が知っている姿とはあまりに違う。
……だけど、だけど。
「ま……ゆ、り…ちゃ………」
微かに知っている面影が残る顔は、半分が幸せそうに笑っていて、半分が絶望しきって表情を失っていた。まるで縦半分に割った仮面をつけているかのように、左右で全く表情が違う。
その顔が。それぞれの感情を浮かべる両の瞳が。
ゆっくりと上がって、私を見た。
「百花ちゃん。私、幸せなの」
「百花ちゃん。私、苦しいの」
「子供を産む女はね、世界で一番幸せなんですって」
「20年来の夢が叶う目前ですべてを奪われたのに、どうしてまだのうのうと息をしていられるのかしら」
同じ口から、同じ声で、まったくベクトルの違う言葉が、紡がれる。
「「ねぇ、百花ちゃん。だからこの子を、早く私の体から出してあげなくちゃ」」
まったくベクトルの違う、まったく同じ言葉が、紡がれる。
同時に、繭梨ちゃんは大きく口を開いてけたたましい叫び声を上げた。
「ルァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
笑っているのか、泣いているのか。
怒っているのか、喜んでいるのか。
それさえも分からない、だけど大きな感情だけは
私は両耳を必死に押さえると体を折った。それでも耐え切れなくて思わず閉じてしまった瞼の裏に、何かの影が躍る。
その瞬間。
ドンッ、と。重い音が響いた。
「出ろ」
抵抗する瞼を、力づくで開く。
「出ろ」
躍る影は、繭梨ちゃんの腕で。
「出ろ」
拳を力いっぱい振り下ろしていて。
「出ろ」
その拳が振り下ろされる先には、大きく張り出した繭梨ちゃんのお腹があって。
「出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ」
繭梨ちゃんは、夢を叶えるためにいつだって大切にしていた右手で、子供が宿る自分自身のお腹を、何度も何度も殴りつけていた。
「出てけっ!! 私の中から出てけっ!! さっさと出ていけぇぇぇぇええええっ!!」
ダンッ、と。ひとつ振り下ろされるたびに、ベコリと繭梨ちゃんのお腹がへこむ。手も、お腹も、そしてそのもっと奥にも激痛が走っているはずなのに、血走った両の目をカッと見開いて拳を振り下ろす繭梨ちゃんは、拳も絶叫も止めようとはしなかった。
「あ……あ、ぁ……っ!!」
私は今度こそ立っていられなかった。膝から力が抜けて、ズルズルと床に座り込む。
目をそらしたいのに。耳をふさぎたいのに。
それさえ許されない、あまりに深すぎる慟哭。
「や、めて……っ!!」
──それ以上深い慟哭で、私の中を
──それ以上深い慟哭で、繭梨ちゃんを傷つけないで。
抉って、壊して、グチャグチャにされる。
「アアアアアアアアアアアアアッ!!」
……そんな慟哭が、不意に種類を変えた。
ベッドに座っていたはずである影がグラリと揺れる。その影が窓辺に向かって倒れ込むのを見た私は思わず目を見開いた。そんな私の視界の中を、紐状の何かが舞う。
「アアアアアアアアアアアアッ!!」
ズルリ、と。
重い水音と、どす黒い赤と、鼻を突く鉄サビの臭いと、微かに響いた異質な声を残して、繭梨ちゃんは窓の向こうに姿を消した。己の足の間から伸びた、血の色をした紐に喉を締められて、窓の向こうに引きずり倒される形で。
「い、……ま」
かすれた声が、自分の喉から零れていた。ドッ、ドッ、ドッ、と、今更自分の心臓の音が耳に戻ってくる。
「こ、え……」
最後に。
繭梨ちゃんの姿が窓の向こうに消えてしまう前に。狂ってしまった繭梨ちゃんの声とは違う、小さな無垢な声が聞こえた気がした。
──おかあさん
ズズッ、ズズッ、という重い水音が、またどこからともなく聞こえてくる。
──はなればなれはイヤだよ、おかあさん
鼻を突く鉄臭が強くなる。陰った日差しは返ってこない。
……あぁ、この水音がやたら重たく響くのは。
──いままでずっといっしょだったから
さっき微かに響いただけであったはずの声が、続きを連れて再び私の耳に響く。鼓動の音がうるさい。息が、うまく、できない。
「百花ちゃん」
再び聞こえた声に、私はゆっくりと、だけど確かに顔を上げた。上げるしか、選択肢がなかった。
主が消えたはずのベッドには、真っ赤に血濡れた人影。頭部はひしゃげていたけれど、私が知っている面影がまだ残っている。抜け落ちてボサボサだった髪は滴る血にまみれて所々固まり、枯れ木のように痩せた体はどこかいびつに歪んでいる。
丸かったお腹が、平たくなっていた。下腹部から下の体は、服も、体も、真っ赤な液体に浸したかのように染まっている。
その、腕の中に、何かがいた。
「あ…あ、……ぁ………っ!!」
この水音がやたら重たく聞こえたのは。
これがただの水ではなくて。ただの血でも、なくて。
今まで子を
死んで親子になった母子に見つかってしまった私は、凍り付いたように母子を見つめ返すことしかできない。
そんな私の先で、母子は笑っていた。血で真っ赤に染まった姿で、恐らく死んだ時の姿そのままで、本当に幸せそうに。
私に気付くことなく母親だけを見つめて幸せそうに笑う赤子が無垢な声を上げる。
「のぞみ、これでずっと、おかあさんといっしょだね」
腕に抱く赤子と繋がった紐で首を締め上げられたまま、腕の中の赤子を視界から締め出し私だけを見つめた繭梨ちゃんが、感情の抜け落ちた声を上げる。
「助けて、百花ちゃん」
……その声に、私は何かを答えることができたのだろうか。
何と声を上げたのか理解するよりも前に、私はフツリと己の意識が切れる音を聞いた。
「……っと……! ……いう…」
微かに響く声に目を開くと、片頬に冷たくてかたい床の感触があった。明るい日差しが床で反射して酷く眩しい。
どうして私は、制服を着たまま床に転がっているんだろう。今日は学校に行く用事なんてなかったはずなのに……
「ふざけないでっ!! どういうことなのっ!? もう他家のこととはいえ、そんなのあまりにも酷すぎるわよっ!!」
ぼんやりしたまま体を起こし、床に座り込んだままの態勢で部屋の中を見回す。
どこかの病室……みたいだった。空室ではないけれど、ここ数日はここに主はいない。そんな空気が漂う部屋。
……あれ? どうして私、こんな場所に……?
そんなことをぼんやり考えていたら、ガラッと勢いよく病室の扉が開かれた。入ってきたお母さんは床に座り込んだ私を見ると一瞬驚いたように動きを止める。だけどすぐに意識はスマホの向こう側に向けられたらしく、視線はスマホがある方へ流された。
「ガツンと一言言ってやらなきゃ気が済まないわっ!! ええ、もちろん私も行くわよっ!! すぐに行くからっ!!」
酷く興奮したお母さんは勢い良く言い切ると通話を切った。ズカズカと力強く床を蹴って進むお母さんに思わず身をすくませると、ハッと我に返ったお母さんは私の前でそっと膝をついて肩に手を添えてくれる。
「どうしたの? 百花。こんな所に座り込んだりして……」
「あ……」
添えられた手の熱に、体がほっと解れたのが分かった。私は一体、何をそんなに緊張していたんだろう。
……いや、これは、緊張なんかじゃなくて……
「調子悪くなっちゃった? 貧血、とか?」
何かを思い出しそうになった。だけど、それを遮るかのようにズキッと鋭い痛みが頭の中を走る。思わず息を詰めるとそれが答えだと思ったのか、お母さんは心配そうに眉尻を下げた。
「お、母さん、は」
酷く声がかすれる。いっそ不自然なほどに。
そんな喉を空唾を飲み込んでなだめて、私はようやく普段に近い声を出すことができた。
「お母さんは、どうしたの?」
「え?」
「何か、すごく怒ってたけど……」
「そうなのよっ!! 酷い話ったらありゃしないわっ!!」
途端にお母さんの眉が跳ね上がる。下がったり上がったりと忙しないけれど、それがなんだかとても自然で、私はなぜかホッと息をついた。
だけどそんな安堵は次の言葉を聞いた瞬間に吹き飛ばされていく。
「向こうのお
「お見合い?」
「繭梨ちゃんの旦那さんのお見合いよっ!!」
「はぁ?」
何を言っているんだろう。さすがにお母さんの聞き間違いじゃないか。
そう思ったのが顔に出ていたのだろう。お母さんは私が何か言うよりも早く、私の肩をきつく握って首を横に振った。
「『子供を作れる時間を無駄にしちゃいけない。子供を産める嫁がいなくなったのなら、早く次を見つけなさい』って、向こうの両親が片っ端から縁談を持ってきてるらしいの。信じられるっ!? まだ繭梨ちゃんが亡くなって一週間よっ!? 素直に受ける旦那さんも旦那さんよっ!!」
……その言葉を聞いた瞬間。
ズズッと、記憶のどこかにある音が、耳の奥でうごめいたような気がした。
「繭梨ちゃんが結婚して一年を過ぎたくらいから、若い女を見繕っては何かと旦那さんに会わせようとしていたらしいのよ。嫁が子供を産みそうな気配がないから、不倫させてでも子供を作らせようなんてどんな考え方してたら思いつくのよって思わないっ!? 旦那さんはそれを嫌って実家に寄り付こうとしなかったらしいんだけど、繭梨ちゃんが亡くなったことはさすがに向こうのお家にも黙っていられないでしょう? 旦那さんも、繭梨ちゃんが亡くなって心が折れちゃったのか、抵抗する気力もないみたいだし……。だからってこんなにやりたい放題されちゃ、繭梨ちゃんの遺族として黙っていられないわよっ!!」
「なっ……なんで、そこまでして……」
「私にも分からないし、理解したくもないわ。……自分の子供もその嫁も、孫を産ませるための機械なんかじゃないっていうのに」
今度こそ、私は言葉を失った。
『機械』
……じゃあ、あの、纏わりつくような水音は。深く心を抉る慟哭は。
一体、どこに向ければいいのか。誰が受け止めてくれるのか。どう変化させていけばいいのか。
「いくらもう他家とはいえ、こんな扱いいくらなんでも酷すぎるわ。繭梨ちゃんの家が抗議に行くっていうから、私も一緒に行くことにしたの。……でも、百花の調子が悪いなら」
「大丈夫」
私は何かを考えるよりも早く、お母さんの言葉を遮っていた。
そうしないと、得体の知れない何かが、込み上げてきてしまいそうな気がして。
「私は、大丈夫。……一人で、バスで、帰る」
「本当に? 無理言ってない? 今からでも繭梨ちゃんのお母さんに連絡して……」
「ううん。行ってあげて」
知らないはずなのに。忘れているはずなのに。
記憶の向こうから
その恐怖を振り切るために、……その恐怖以上に溢れる悲しみと怒りに。
私は、お母さんを送り出す言葉を口にしていた。
「絶対、行ってきて」
込み上げる吐き気を手の甲で口元をこすって誤魔化して、真っ直ぐにお母さんを見上げる。そんな私の様子で何かを察したのか、お母さんは強く頷くとバタバタと病室を出ていった。病室の中に、主を失った私物と、私だけが残される。
廊下が静かになってから、私はカタカタと笑っている膝を誤魔化しながら、何とか病室を脱出した。どうして自分がここにいるのかは何となく思い出したけど、自分が何に震えているのか、自分があの部屋で何を見たのかは、まったく思い出せなかった。『思い出したい』と思うことさえできない。……だけど。
私はなかなか動いてくれない足を何とか動かしてエレベーターに乗ると、フラフラと売店に向かった。明るくて広い店内には、食べ物や雑誌以外に文房具や日用品も並べられている。
祈る思いで文房具コーナーを覗いた私は、目的の物を見つけてほっと息をついた。お財布の中身だけが心配だったけど、帰りのバス代が残るくらいには中身も入っていて、そのことにも思わず安堵の息が零れる。
買い求めた品物を胸に抱えて、もう一度あの病室に戻る。……本音を言うと、もう足を踏み入れたくはない。
でも、こうせずにはいられない。
そっとドアを開いて、遠慮するように中に入る。
どこかほの暗さのある病室。カーテンが引かれた窓辺と、ベッドと、その狭間に取り残された点滴のスタンド。
私はその隙間に入り込むと、サイドテーブルの上にそっと買ってきた品物を乗せた。それから少し考えてもう一度手を伸ばし、外袋を外してペラペラと中身をめくり、真っ白なページの上にカチカチと芯を繰り出したシャーペンを乗せた状態にして置き直した。
真新しいスケッチブックとシャープペンシル。カーテン越しの柔らかい光に照らされて、パッとそこだけ部屋が明るくなったような気がした。
「繭梨ちゃん」
やっと繭梨ちゃんらしい品が置かれた部屋。だけどスケッチブックもシャープペンシルも、ひどくこの部屋には似合わなくて。
そのことが、喉を締めあげられているのかと錯覚するくらい、苦しくて、やるせなかった。
「……ごめんね、繭梨ちゃん」
私は小さく呟くと身を翻した。直感が激しく警鐘を鳴らしている。
私はもう、ここにはいられない。
一度関わってしまったから、次に関わったら今度こそ逃げられない。
ズズッ、ズズッ、と、重い水音が聞こえたような気がして、私のお腹がズキッと痛んだような気もした。
それでも私はもう、後ろを振り返ることはできなかった。
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