稲荷

 ポツリ、ポツリと不意を突くように振り始めた雨は、あっと思うよりも早く本降りになった。


「わっ、わわっ!!」


 今日の天気予報には晴マークしか並んでいなかったから傘の持ち合わせもない。慌てて周囲を見回してみたけれど、運が悪いことに学校帰りの住宅街の中には軒先を借りられそうな建物もなかった。


 仕方なく走り始めた私は、逃げ込めそうな場所を求めて周囲に視線を巡らせる。


 その時、ふと目を吸い寄せられた細道があった。先を確かめずに飛び込んでみれば、どん詰まりに古びたトタン屋根の軒が突き出た建物が見える。


 私はそこに何があるのかもよく確かめず、とにかく雨から逃れようとその軒先に飛び込んだ。


「……うわー」


 ぐっしょり濡れてしまった制服に顔をしかめながら振り返ると、土砂降りであるにもかかわらず頭上には抜けるような青空が広がっている。『お天気雨』とか『狐の嫁入り』とか言われるような天気だ。


日和ひよりだねぇ、お嬢さん」


 何てはた迷惑な、とさらに眉をしかめた瞬間、傍らから声が聞こえた。反射的に視線を投げれば、私と反対側の端に立って空を眺めている人影が目に飛び込んできた。


「悪いねぇ。あんたには迷惑になっちまったかもしれんが、今日のこの時間は晴天に雨が降らにゃならん理由があんのさ。ちょいと耐えておくれよ」


 くたびれたスーツに身を包んだ女性だった。横顔は若く見えるのに、肩下で切り揃えられた髪は老婆のように灰色と白が入り乱れている。


 女性はトタン屋根を支える錆が浮いた鉄柱に背中を預けて、今時中々お目にかかれない、一目で年代物だと分かる長煙管ナガキセルで煙草をふかしていた。雨の重さに負けた煙が女性の体に纏わり付くように下へ下へと落ちていく。


「……」


 しばらくその女性を観察していた私は、無言で視線をそらすと女性の真似をして鉄柱に背中を預けて立った。女性と同じように路地の先に視線を向けると、両側に迫る家に切り取られるようにして路地の先の景色が見える。


 トタタタタッと、お囃子拍子を紡ぐかのようにトタン屋根に当たる雨粒が軽快な音を奏でていた。雨の音にかき消されて、他に余計な音は聞こえてこない。


 ふと、そんな中で。


 路地の先に見える道路をゾロゾロと進む、人影が見えた。


「……!」


 最初に見えたのは、黒い着物姿で背中に唐草模様の風呂敷包を背負った男の人だった。その後ろを、二人一組で大荷物を運ぶ、これまた黒い着物に身を包んだ男の人が続く。


 ピョコリ、ピョコリと踊るように進む一行の傍らには、大きく広げられた真っ赤な蛇目傘。雨で煙った景色の中、パッと咲く傘の紅はひときわ目に鮮やかだ。


「……嫁入り行列?」

「隣町の稲荷の娘が、ここを挟んで反対側の町の稲荷に嫁ぐのさ」


 こんな町中で? と思わず首を傾げたら、間を開けて隣に立つ女性が教えてくれた。思わず視線を女性に向けると、女性は相変わらず真っ直ぐ路地の先を……雨の中を行く花嫁行列を見つめている。


「生まれは貧乏だけど、器量もいいし、愛嬌もある。賢いし、働き者さね。跡取りの神田の坊ちゃんもいい嫁を見つけたもんだねぇ」


『隣町』『神田の坊ちゃん』、それに『稲荷』。


 ということは、あの行列が向かう先は隣町にある神田稲荷明神様なのだろうか。神田稲荷明神はこの辺りで一番大きなお稲荷様だから、確かに稲荷狐からしてみたら『坊ちゃん』という表現になるのかもしれない。しかし祀られている神様にも、嫁取りとか、跡取りとか、そういうものがあるものなのか。


 ふーん、と感心していると、立派な駕籠が路地の前を横切った。女性は『生まれは貧乏』と言っていたのに随分立派な駕籠だ。日本史の資料集で見た『大名家の奥方が乗った駕籠』とかいうやつに雰囲気がよく似ている。


「あれ」


 そんなことを思っていたら、ピタリと駕籠が路地の前で止まった。どうしたんだろう? と首を傾げると、スルリと駕籠の小窓が開く。


 中から顔をのぞかせたのは、切れ長の瞳も涼やかな美少女だった。華やかな化粧に角隠しを乗せた少女は、一瞬何かを探すように視線を巡らせる。


 その視線が、こちらに向いた。ピタリと動きを止めた少女は、わずかに目を潤ませると小窓からゆっくりと顔を消す。そして数秒後には同じ速度で小窓の中に帰ってきた。


 こちらに向けて頭を下げたのだと、数秒考えてから分かった。駕籠の中の少女は、狭い駕籠の中で精一杯、深々と頭を下げていたのだ。


 どうして私に? と首を傾げたけれど、今度は考え込むまでもなかった。


 彼女は、私に頭を下げたのではない。私の隣に立つ、彼女に頭を下げたのだ。


 隣の女性に視線を向ければ、変わらず女性は真っ直ぐに視線を前へ向けていた。だけどその表情は先程までよりも柔らかくほころんでいて、目にはうっすらと涙が浮かんでいる。


 ヒラリ、と。女性は軽く少女に向かって手を振った。もうお行きよ、とでも言うかのように。


 コクリ、と。少女は答えるように頷いた。最後にハクハクと微かに唇が動いたような気がしたけれど、私には何と言ったのかまでは分からない。


 スッ、と小窓が閉められ、行列は再び動き出した。駕籠が行き過ぎた後には黒留袖に身を包んだ年かさの女性や黒紋服に身を包んだ男性が続き、やがて再び風呂敷包みを背負った人足がピョコリピョコリと姿を現す。


「……参列しなくて、良かったんですか?」


 その全てを見送って、また雨がトタン屋根を叩く音しか聞こえなくなってから、私は静かに女性に声をかけた。視線は前に向けたままで、両側に並び立つ家々に切り取られた先には、雨で煙って灰色になった景色だけが見えている。


「知り合い、だったんじゃ?」

「姪っ子だよ。妹の娘」


 私と同じように前だけを見た女性はフーッと深く息をついた。たなびく紫煙がまた足元に溜まっていく。縦に裂けた瞳孔にどんな世界が映っているのかは、私には分からなかった。


「アタシは一族の恥さらしでね。あそこに混じっちゃ、あの子の迷惑になる」

「当人は、慕っているみたいでしたけど」

「……まぁ、あの子の実家いえはアタシのトコよりも寂れた稲荷だったからね。アタシが稼いだ金で、援助をしてたのさ。だから律儀に恩義を感じてくれてんのさね」


 くたびれたスーツに履き古したパンプス。きっと長煙管をしまって髪を暗くして、瞳も人を模してしまえば、ごくごく普通の『働くオネエサン』の出来上がり、なんだろう。


「今のご時世、カミサマも上手く立ち回らなきゃオマンマ食い上げよぉ。ウチみたいな零細が稲荷一本で食っていけるかいね。……でも、こんな生き方を選択するのは、稲荷にとっちゃあ『恥』なのさ。こんな狐はハレの場にはいない方がいい」


 トンッと靴底で柱を蹴って背中を離した女性は、ようやく視線を路地の先から私に向けた。その顔に、母を思わせるような慈愛のある笑みを浮かべながら。


「あの子が幸せになってくれるんなら、それだけでいいのさね」


 トタッ、トタタタタッ……と、雨が最後の雫を残して消えていく。


 それと時を合わせるようにして、女性も忽然と姿を消していた。


 スッと柔らかく差し込んだ光が、トタン屋根の軒先にも差し込んでくる。朱色の鳥居がその光を淡く弾く様は、雨の中を踊る蛇目傘のように鮮やかだった。小さなおやしろきざはしを覆うように立てられた小さな鳥居の群れの先には、長年の風雨にさらされて灰色がかってしまった白狐の置物。珍しいことにその白狐の口には一本の長煙管がくわえられている。


 トタンの屋根に守られながら、路地のどん詰まりに鎮座する、小さな小さなお稲荷様。名前が書かれた神額がないから、何という名前のお稲荷様なのかは分からない。


 ただ今でも大切に祀られているらしく、立てられた榊は青々と瑞々しい葉を茂らせていた。


 ──食っていけないんじゃなくて……食わしていってやれない、だったんじゃないかな……?


 私はゴソゴソとポケットを漁って非常用に持っている小銭入れを取り出すと、中からなけなしの100円玉を取り出した。小さなお賽銭箱に100円玉を落とし込み、手を打ち鳴らしてから頭を下げる。


 特に何かを祈りたかったわけではなくて、ちょっとしたご祝儀のつもりで。


 しばらく頭を下げてから、私はさっきまでの雨が嘘のように晴れ渡った空の下へ歩きだす。パタパタと屋根の軒から雫が降り注ぐ町は、何だか洗い清められたように清々しかった。


 ──狐の嫁入りに雨が降るのは、花嫁のく道を清めるためなのか。


 表通りまで戻った私は、振り返ってどん詰まりのお稲荷さんを振り返る。屋根が込み入った先にお社があるのに、なぜか鳥居の先にいる長煙管を咥えた白狐が陽の光を浴びて誇らしげな顔をしているのが分かった。


 ──もしくは、花嫁や親族の涙を隠すために降るのか。


 もう一度お稲荷様に頭を下げて、私は雨上がりの町を進む。


 あのお稲荷さんにはきっと、夫婦円満や良縁成就の御神徳があるに違いない。


 そんなことを、思いながら。

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