ぬらりひょん

 お茶の入った湯飲みをお盆に乗せて運ぶ機会なんて、最近の現役女子高生には中々ないんじゃないだろうか。


 案外難しくてカタカタと湯飲みが音を立ててしまう。それでも何とか中身をこぼすことなく縁側まで運び、くつろいでいた老人にお茶を差し出すと、老人は嬉しそうに湯飲みを受け取ってくれた。


「最近の家は、中々勝手が分からんくてな。上がり込めても茶を飲むこともままならんかったのよ。やれ、嬉しいなぁ」


 大きなハゲ頭と上品な着物。シワに埋もれた瞳をさらに埋もれさせて、老人に似たは美味しそうにお茶をすする。……家族以外にお茶を出すのって初めてだったんだけど、ちゃんと美味しく淹れられただろうか。


「最近は、そもそも上がり込むこと自体が難しいんじゃないですか? いくらあなたがその道のプロでも」

「おや。お嬢ちゃん、ワシを知っておるのかい?」

「知らなかったら、お茶なんて出さずに警察に通報してますよ」

「ほっほっほっ! 知っていて逃げ出さないとは、肝が据わったお嬢ちゃんだ!」


 老人は、そんな私の存在が心底愉快だったのだろう。腹の底から楽しそうに笑った老人は、懐から煙管キセルを取り出すと口にくわえながら口を開いた。


「なぁに。ヒトの子が考える『せきゅりてぃ』とやらはワシらには通じん。ワシがくつろごうと思えば、家の方がワシのことを迎え入れる」


 そんなもんなのか、と少し驚いた私は、自分の湯飲みを両手で握りしめながらちょこんと老人の隣に腰を下ろした。


 ポカポカと日当たりのいい縁側。今時珍しい分類に入るのであろう、時を経た古い日本家屋。


 いつもと変わらない私の家だけど、その景色の中に見慣れない老人がいて、その姿がなぜかひどく周囲の景色に馴染んで見える。まるで、老人を見慣れないと思う私の方が異分子なのではないかと思わせるくらいに。


「……ああ、だが先日、ワシが望んだにもかかわらず、くつろげなんだ家があったな」


 その言葉に私は改めて老人に視線を向けた。この家の住人である私に断りもしないで煙管をふかし始めた老人は、何やら不愉快そうな顔をしている。


「あなたが、望んだのに?」

「先客がおったのよ」

「先客……って」


 私は思わずまじまじと老人を見つめた。


 老人の正体に、私はうっすらと心当たりがある。


 この老人は、今時とても珍しい存在だ。同類同士でバッティングすることなんてほぼないだろう。……いや、もしかして彼らが快適にくつろげる家の方が希少で、無意識の内にそんな家に老人達が集まってしまうという可能性も、なくはない、……のかも。


「まぁ、相手はヒトの子であったが」


 疑問が顔に出ているのを読んだのか、老人は勿体ぶらずに教えてくれた。相変わらず不愉快そうな顔をしていたから、教えてくれたというよりは言わなきゃやってられなかったのかもしれない。


「ヒトの子なのに、先客?」


 家の住人を先客とは言わない。老人の言う『先客』ならば、住人が招き入れた正客でもないはずだ。


 住人に招かれざる客。それが老人の正体であり、老人が言う『客』だ。


「おお、ヒトの子の先客であったわ。招かれてもおらぬのに堂々と居間に居座り、悠々と煙草をふかし、菓子まで食らっておった」

「随分と図太いですね」

「おお、図太い図太い」


 空き巣かな、と思いながら相槌を打つ。


 この辺りは昔ながらの日本家屋が残っている、町と田舎の境界線だ。古い家はどうしても防犯が甘くなりがちだし、老人の独居や高齢の老夫婦だけが住んでいる家も多いと聞く。その割に敷地面積だけは広いせいでパッと見るとお金がありそうな家に見えるから、空き巣に目を付けられやすい地域なのかもしれない。


 うちももっと気を付けた方がいいのかな、なんて思っていた。


 そんな緩んだ心にスッと刃物を差し入れるかのように、老人は続く言葉を口にする。


「なんせ、金品を奪うどころか、住人の命まで奪った上でくつろいでおったのだから」

「……え?」


 間抜けな声は、ぬくぬくと午後の日差しが降り注ぐ中にゆるく溶けて消えていく。


 何てことないと言わんばかりに紡がれた言葉。信じられない思いで老人を見つめれば、老人は先程と特に変わらない表情で煙管をふかしている。『自分より先に居座っていたこと』や『招かれていないこと』や『居間に堂々と居座っていたこと』と、『住人の命を奪ったこと』が、まるで同じレベルの不快度であるかのように。……人が殺されていたことを、それくらいの不快さでとらえているかのように。


「さすがにあんな血なまぐさい空気の中ではワシもくつろげん。早々に出ていこうと思っておったのに、そやつはワシに気付いた瞬間、包丁を振りかぶってきたのよ」

「包丁……」

「ベットリ血に濡れておったで、あれが住人をあやめた刃だろうなぁ」

「え……」

「ヒトのぬらりひょんは随分と礼儀がなっておらん。ワシらはちょいとだけくつろぐモノ。せいぜい拝借していいのは茶と煙草だけと相場が決まっておるのに」


 老人は……本物のぬらりひょんは、不愉快をぶつけるかのように鼻を鳴らすとお盆の上に湯飲みを返した。私が渡した湯飲みはいつの間にか空になっていて、老人の手の中にあった煙管は懐の中に消えている。


「今時のヒトの子は、妖怪ワシらよりもよほど恐ろしい。くわばら、くわばら」


 御馳走さん、と最後に残して、老人は廊下の向こうへ去っていった。その場で煙のように消えてしまわないのが、いかにも思えてしまった。


 私は凍り付いたまま、温かい日差しが降り注ぐ縁側に取り残される。


 ──住人の命と金品を奪い、その家でくつろいでいた『ヒトの子のぬらりひょん』というのは。


「……それは、『ぬらりひょん』っていう怪事じゃない」


 かすれた声で呟いた時、日はわずかに傾き始めていた。


「『居直り強盗』っていう、悪事だよ」


 古来、ヒトは未知の現象にあやかしとしての名を与えることで恐怖を減じてきた。


 今の世の中は、名のある事象の方が恐ろしい。


「……あー」


 私は震えそうになる手を伸ばして、自分の手の中にある湯飲みを老人が使っていた湯飲みの横に並べた。カタタッと、湯呑とお盆が触れ合う音が、二重にブレて聞こえた。


「どこの家でのことだったのか、訊いておくべきだった」


 名のある事象の恐ろしさを紛らわすためには、ぬらりひょんが不快を吐き出していったように、思いを吐き出さないとやっていられなかった。

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