垢嘗

「どうもぉ、アカナメハウスクリーニングですぅ」

「あらぁ、いつもお世話になります~」


 階下から聞こえてきた声に、私は読んでいた雑誌から顔を上げた。正確に言うならば、気になったのは声というより気配だったんだけども。


「やっぱりどうしてもねぇ。毎日頑張ってるつもりなんですけども」

「やっぱりねぇ、半年に一回くらい専門家を頼ってもらうのが、お風呂を綺麗に保つコツなんですよぉ」


 私はソロリと部屋を出ると、階段の上から伸び上がって下の様子を探る。ちょうどお母さんが業者さんらしき人を連れて廊下をよぎった所だった。一瞬しか業者さんの姿は見えなかったけど、ちょっと髪の長い、背は低めで小太りな男の人のように見えた。


 ──でも、あれって……


 首を傾げながら、ソロリソロリと足音を忍ばせて階段を降りる。


 お母さん達が行き過ぎた先を見遣れば、ちょうどお母さんが業者さんをお風呂場に通した所だった。『それじゃあお願いしますね』と声をかけたお母さんは廊下を引き返してこっちにやってくる。


「ねえ、お母さん」

「うわっ!? ビックリしたぁ、どうしたのよ百花ももか

「あの人、いつものハウスクリーニングの業者さん?」


 何年か前から、半年に一回くらいのスパンで水回り専門のハウスクリーニング業者にお風呂掃除を頼んでいることは知っていた。何でもその業者さんの掃除能力が半端ないらしく、『一度やってもらったらやみつき』であるらしい。年末と、お盆を過ぎた頃に一度ずつ、その業者さんを呼んで普段の掃除では歯が立たない汚れを綺麗にしてもらっているのだとか。


「そうよ。顔を合わせたらご挨拶してね。あと、掃除をしている間は特殊な薬剤を使っているらしいから、お風呂の周辺には近付かないでって言われたわ」

「毎回、同じ人が来るの?」

「そうね。同じ方だと思うわ。アカナメさん……? あら? アカナベさん、だったかしら?」


 業者さんが来ていることは知っていたし、その業者さんの凄さも知ってはいたけれど、業者さんそのものを見かけるのは今回が初めてだった。毎回たまたま私が外に出ていて、帰ってきた時には業者さんは作業を終えて撤収した後だった、というだけなんだけども。


「ふーん……。分かった。大人しくしてる」

「はい、よろしくね」


 私が軽く答えると、お母さんはさらに廊下を進んで居間に消えていった。


 お母さんの姿が廊下から消えたのを確かめてから数秒。静かに呼吸を数えていた私は、階段を降りていった時よりも足音をひそめてお風呂場に近付いていく。


 廊下に面した扉を開くと、中は脱衣所を兼ねた洗面所。さらに中の扉を開くとお風呂場だ。ソロリと洗面所の扉を開くと、お風呂の扉の向こうにぼんやりとうごめく影が映っている。どうやらはお風呂の扉も閉め切って中で作業をしているらしい。


 ──多分、私の予想が正しいなら、業者さんの正体は……


「うぇっぷ」


 そっと洗面所の中に忍び込み、中の音に聞き耳を立てる。


 その瞬間、苦しそうな……食べ放題で食べまくった人がさらに胃袋に物を詰め込もうとしているかのような、そんな呻き声が聞こえた。


「ちょっ……もう……。掃除に手を抜きすぎでしょ、今のヒトの子って。今日、もう、無理……マジで、限界」


 さらにピチャピチャペロペロと何かを舐めるような音が続く。樹脂製の磨りガラスのドアに映る姿には、何やら口元から伸びる長い影が映っていた。


「『俺達が出ないように掃除を頑張りましょうね』って話だったじゃん。『俺達が食べに来るから掃除サボっても大丈夫』って話じゃないじゃん」


 ──舌をあんなに出したままぼやき続けるって、ある意味すごく器用なんじゃ……


 扉一枚隔てた先で私が聞き耳を立てていることにも気付かず、業者さんの掃除……いや、食事と愚痴は続く。


 いわく、『最近はヒトの栄養状態が上がって垢も栄養過多気味だ』とか、『ヒトの世界が忙しなさすぎて依頼件数が爆上がりだ』とか、『おかげでこっちはメタボ一直線かつ常に胸焼け気味だ』とか。


「最初はいい案だと思ったんだけどなぁ……。堂々とタダ飯食えて、金まで稼げるなんて……」


 ……それだけぼやきながらも各家での仕事はキッチリ片していくのだろうから、この怪異、かなり義理堅いというか、職人気質というか。……なんというか、そういう感じなのではないだろうか。


 ──垢嘗アカナメ全体がこうなのかな? それとも、この妖怪ひとだけの性格?


 業者さんが思った以上にきっちりしただったと分かった私は、そっとその場を離れることにした。


 洗面所に口が開かれたまま置かれていた業者さんの鞄の中には『河童堂謹製』と銘打たれた胃袋の袋が見えたから、妖異の世界も今時は大変なのだろう、きっと。

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