火車
お向かいの家に住んでいたおじいさんが、亡くなったという。
若い頃に奥さんを亡くしたおじいさんは、奥さんとの間に子供はなく、結局新しい奥さんをもらうこともなくて、最後まで大きな家に一人で暮らしていたらしい。
「でもねぇ、結構な歳まで派手に遊んでいたって噂なのよ。籍を入れた相手は亡くなった奥さんだけだったらしいんだけど、金に飽かせて囲った妾が何人もいたとか、家に迎えていない子供が何人もいるとか、ヤクザと繋がりがあったとか」
そんな人だったからなのか、おじいさんは死ぬ時も一人だった。病院のベッドで、医者に看取られて亡くなったらしい。血縁上の親戚にあたる人間に片っ端から連絡が行き、認知だけされていた血縁上の子供に当たる人間が葬式だけは挙げることにしたという。
そんなわけで、なぜか私は通夜の席の手伝いに駆り出されていた。
──いや、何でよ?
「仕方がないでしょー? 喪主さんだって、慣れない家で、心構えもなくいきなり喪主をやることになったんですもの。困った時に助けの手を差し伸べるのが、ご近所さんとしてのせめてもの供養よ」
「いや、でも。今時こーゆーのって斎場とかでやるものなんじゃ……」
「私も事情は知らないけど、喪主さん自身がこの家でお葬式をするって決めたそうよ?」
バタバタと慌ただしい雰囲気はお通夜が終わった今は一旦鳴りを潜めていて、今は嵐が一度去った静けさが場を満たしている。色々動き回っていたお母さんもあとは片付けだけという雰囲気だ。なぜかお母さんの助手として引っ張ってこられた私もそろそろ解放されるだろう。
──さすがに明日のお葬式は関わらなくていい、はず。学校あるし。
喪服の代わりに着込んだ制服姿のまま、明け放した玄関の柱にもたれかかってぼんやりと外を眺める。私の家とよく似た、古い日本家屋。ただこちらの家の方が豪勢な造りをしていて、玄関も広ければ家そのものも広い。話を聞くに、昔から金持ちの家だったようだから、その違いがきっと家にも出ているのだろう。
「もし」
ぼんやりと外の闇を眺めて、そんなことを考えていた時だった。
ヒソリ、と。品のある柔らかい声が、私の耳に届いた。
「こんばんは。本日、お通夜があったお宅はこちらですか?」
不意に響いた声に私は目を
──ん? いや、声が聞こえたのって……
「わたくし、こちらのお宅に少々ご縁がありまして」
続けて響いた声に私は視線を足元に落とす。
そこにちょこん、と。夜分の来客はお上品に座していた。
「亡くなられたのがこちらのご主人様でいらっしゃるのであれば、少々上げていただくことはできないでしょうか?」
「……猫だ」
「はい。わたくし、以前こちらのお宅でお世話になったことがある猫でございます」
私の足先に行儀よく座り、私を見上げて
「あ……えっと……」
私はとりあえず一歩下がってからしゃがみ込んだ。黒猫は律儀にそんな私の動きを追って首を動かす。
「お通夜があったのはここの家だし、亡くなったのはここのご主人さんだけども……」
「故人のお顔を、少々拝見させていただきたいのです」
「え。えーっと……」
お坊さんも参列者も帰った後で、今はお母さんを始めとしたご近所の助っ人さんと、喪主さんしかこの家にはいない。お母さん達も帰り支度をしている所だし、喪主さんはちょっと席を外すと言っていたから、今だったら猫一匹くらい通しても誰にも見咎められないかもしれない。
「……用事、すぐ終わる?」
結果、私は黒猫にひっそと訊ねていた。私の言葉を受けた黒猫は殊勝な顔でひとつ頷く。
「お時間もお手間も取らせません。上がらせていただいてもよろしいですか?」
「じゃあ、おいで」
「ありがとうございます」
私は家の中に向かって
──わざわざ玄関からヒトの許可をもらって入ってくるなんて、律儀な猫もいたもんだなぁ。
廊下を進む数歩の内にそんなことを思う。
昔ここにお世話になったことがある猫なら家の構造を熟知しているだろうし、縁側からスルリと入り込むことなんて簡単にできただろうに。それをわざわざヒトに招いてもらえるまで待っているなんて。それとも私が『お世話になった』とは『飼われていた』ということだろうと早とちりをしただけで、実際はもっと別の形の関わりであったのか。
──あれ? 『招く』?
『私はこういうことに耐性があるからいいけど、他の人だったら色々マズかったんじゃない?』と思った瞬間、ふと、自分の言葉に何かが引っかかった。
──……待った。もしかして、『律儀』とか『礼儀正しい』とか、そういうのじゃなくて……
怪異にとって『境界』というモノは、ヒトが思う以上に絶対だ。神社の鳥居であったり、お寺の結界であったり。もっと身近な物で言えば川や、町の境や、玄関の敷居。そういう境を、怪異は簡単には越えられない。
界を挟んだ向こう側にいる存在に招いてもらえなければ、基本的には越えられないものなのだ。
──招いてもらうために、私に声をかけたんだとしたら。
今更気付いた私は凍り付いたように足を止める。だがもう全てが遅い。通夜の会場になった部屋の前まで来ていた私の足元をすり抜けて、黒猫はトタトタと部屋の中に入っていってしまった。私の予想通り部屋の中には亡くなったおじいさんが寝かされているだけで、生者は誰も控えていない。通夜の席では、遺族は故人の亡骸を守るために、故人の傍を離れてはいけないと言われているのに、本当に誰もいなかった。
故人の枕元に近付いた黒猫は、前足でチョイチョイと顔に掛けられた白布をはいでしまった。ストンと顔の傍らに腰を落とした黒猫は、真ん丸な瞳孔をさらに丸くして故人の顔を覗き込む。
「……嗚呼、何て安らかな顔で寝ているんだろう。わたくしの
黒猫は、低い声で呟いた。
「わたくしの主様をあんなに滅茶苦茶にした癖に。仏様みたいな御方だった主様があんなに苦しんで死んだのに、極悪非道なお前が何でこんなに安らかな顔で死ねるんだろうね。許せない、許せないよ」
ドロドロと流れる声は、深い怒りと怨みに満ちていた。まるでヒトのような、とても猫が発しているとは思えない声。そこには先程まであった可愛さも上品さもなくて、肉食獣が見せる鋭さだけが満々と満ちている。
「でも、安心をし。この世では逃げ切れても、あの世では逃がしゃしない。わたくしがお前を逃がしやしないよ」
その鋭さが、怒りが、怨みが。
黒い
ほの暗く明かりが灯った部屋の先で、ムクリと大きな影がうごめく。その動きに合わせて故人が寝かされていた布団がハラリと落ちた。荒れ狂う炎から逃げるように体を引きながらも目を凝らせば、炎の先にいるモノと視線がかち合う。
「助かりましたよ、お嬢さん。葬列まで待つ時間も惜しかったのです。さっさとこの極悪人を地獄に叩き落としてやりたくて、ウズウズしていたものですから」
そこにいたのは、黒猫だった。
爛々と輝く黄金の瞳に、縦に細く長く裂けた瞳孔。軽トラ並みに大きくなっても、暗闇の毛並みは艶やかなままだった。荒れ狂う焔が毛並みの上を滑っていく様が、酷く美しく見える。
黒猫は、ズラリと牙が並んだ口に故人の遺体をくわえていた。突き立てられた牙の間からブラリと垂れた足しか見えないが、布団の上に遺体がないから、多分間違いなくあれは亡くなったおじいさんの遺体だろう。
「……
猫の本当の名前を呟いた私に、黒猫……罪人を迎えに来た火車は、うっそりと瞳を細めた。
「『この家にお世話になった猫』ということに、嘘偽りはございません。わたくしの主様は、この極悪人の奥方だった。主様がこの極悪人に殺された時、わたくしもともにこやつに殺されたのです」
「殺されたって……」
「
細められた瞳から、ツッと涙が落ちた。パタパタと畳に落ちる雫は、狂い舞う炎よりもなお深い赤。
「ヒトの世でこやつの罪が断罪されないならば、地獄で倍の呵責を科しましょう。それがわたくしの命を救い上げ、可愛がってくださった主様への何よりの供養になる」
もう、私は何も言うことができなかった。
他人である私は、きっと何を言う権利もない。こんなに深くて激しい感情を前に何を言っても、私の言葉は軽すぎて、失礼だ。
「火車は罪人を地獄へ引っ立てることだけが仕事ですが、わたくしはこやつに関わる全てが許せない。この世にある、こやつが存在した証拠全てを消し去りたい。……心優しいお嬢さん、関わりのない貴女は早く出ておいき」
何よりも憎い男の
「お母さんっ!! お母さんっ!!」
幻だとばかり思っていた
「
「火事が……っ!! お通夜の会場が火元で……っ!!」
「もう119番通報はしてあるからっ!! 早くもっと離れた場所に逃げるわよっ!!」
靴をつっかけ、なんとか家の外に出る。
最後まで残っていたご近所さん達と敷地の外に出た瞬間、ゴッと勢いよく火柱が上がった。まるで家ごと地獄の業火に堕とされたかのように、あっという間に家が消されていく。
「……なんてこと」
「火種になるような物なんて、一体どこに……」
「普通の燃え方じゃないわね。何か引火物でも保管してあったのかしら……」
現場を見ていたご近所さんがヒソヒソと囁き合う。
その一番端、人だかりから少し離れた場所にポツンとたたずむ影を見つけた私は、人の輪を抜け出してフラフラとその人に近寄った。純黒の着物をサラリと着こなした女性は、今夜の通夜の喪主さんだった。
「……火車が、迎えに来ましたか」
私の存在に気付いた喪主さんは、燃え盛る火柱を見つめたままポツリと呟いた。そんな喪主さんを前にしても、私は答える言葉が見つからない。
「火車という存在が本当にいるならば、来るだろうなって思っていたんです。だからわざわざ、火車が分かりやすいように、入りやすいように、あの家で葬式を挙げることにしました」
若く美しく見える喪服の麗人は、湧き上がる風に揺れる髪を押さえながら私に視線を流した。うっすら笑みを浮かべた顔を見た瞬間、なぜか血の涙を流していたあの黒猫の姿を思い出した。
「地獄なんて生ぬるい。地獄よりもなお深い呵責を。……会ったこともない相手ですけど、それくらい、ヒトはヒトを憎めるものなんですよ」
お世話様でした、と。女性は静かに頭を下げると夜の暗闇の中に消えていった。
そんな私の後ろでは、一際高く上がった火柱に呑まれて、罪人の全てが地獄に堕ちていった。
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