蟲毒
「
教卓に肘をつき、両手の指先をつけたり離したりしながら、先生は語り始めた。
「……
「正解です! 補足をするならば、一般的に『人間にとって害になる生物』ならば毒を持っていない生物でも大丈夫なんですよ。蛇とか、もっと大きい生物だと狼とか、ですね」
私の言葉に、先生はニコリと笑った。
放課後の教室。今日もぬるい夕焼けが空を血のような色に染め上げていく。
私以外に、生徒の姿はない。教卓に肘をついた態勢で私を見下ろす先生と、教室のど真ん中の席にポツンと座る私がいるだけだ。
「これを人間でやったのが、平安時代の後宮だと言われています」
先生は唇に笑みを浮かべたまま言った。合わせられた指先がソロリと離されては、また音もなく合わせられていく。
「閉ざされた空間に、毒気の強い女を集めて閉じ込める。女達は帝の寵愛を巡って殺し合う」
「……そんな血生臭い後宮、聞いたことないですけど」
「凶器を向け合って刺し合うだけが『殺し合い』とは言わないのよ?」
私が言葉を差し向けると、クスクスと先生は笑った。
外からは部活に励む生徒の掛け声。廊下の向こう側からは放課後のお喋りを楽しむ生徒の笑い声。
そのどちらもがさざめいて聞こえてくるくらい、この教室だけが静かだった。
「
物騒な話を心底楽しそうに口にした先生は、不意に両手を離した。ふたつに分かれた手の間に笑みを浮かべた先生の顔が挟み込まれる。
「さて、これを前提に現代の学校について考えれば。学校という場も蟲毒の壺の中だと言えるわけです」
私はそんな先生を無表情のまま真っ直ぐに見上げている。姿勢正しく着席してはいるけれど、机の上にはノートも教科書も乗せられていない。この授業に、そういった物は必要ないから。
「学校という大きな壺の中に、毒気の強い多感な年頃の人間を集め、様々な方法で競わせる」
「『競う』と『殺し合う』は、違いますよ」
「あら、一緒よ。序列が付くのは一緒」
真っ直ぐに挑むように見上げる私と、笑みを以って見下ろす先生。ピンと、間にある空気が張り詰めているのが分かる。外の空気は何もかもがあやふやで、緩み切っているというのに。
「『生き残り』と『餌になったモノ』が出るように、『1番』と『その他』が生まれる。『生き残り』も『1番』も、敗者が存在しなければ存在しえない。命が残るかどうかだけで、どちらも一緒なのよ」
歌うように、実に楽しそうに言い切った先生は、体を起こすと今度は体の後ろで手を組んだ。私と相対する瞳が距離を取る代わりに、さらに高みから私を見下ろす。
「『学校』という壺が恐ろしいのはね、ひとつの
私は変わらず先生を見上げ続ける。瞳の位置が変わろうとも、瞳に浮かぶ笑みが深くなろうとも、私からは視線をそらさないし、
さもなくば、私はこの喰い合いに負ける。
「勉学、運動、音楽に美術、……あぁ、人徳や世渡りという点でも、競争になるのかしら?」
そんな私をどう捉えているのか、相変わらず先生は楽しそうに授業を続けた。私から目をそらさないまま教壇を歩き始めた先生は、カツ、コツ、と高いヒールでゆったりと音を刻み始める。まるでメトロノームが緩み切った空気を叱咤するかのように。まるで私を、脅しつけるかのように。
「さらにヒトが恐ろしいのはね、例えその壺の中を生き抜いたとしても、次の壺で同じことを始める所にあると思うのよ。おまけに今度はそれぞれの壺の生き残りを集めて始めるんですもの」
カツ、コツ、カツ、コツ、と、教壇を端から端まで往復した先生は、結局教卓の前で止まると元の態勢に戻った。教卓に肘をつき、両手の指を触れ合わせる、最初のポーズに。
その上で、最初よりも深くなった笑みを私に向けて、禍々しい言葉を紡ぐ。
「ヒトは、毒をひたすら
「……そんなことを言ったら、ヒトは一生蟲毒の壺の中ですよ」
その毒に気付いていながらも、私はあえて真っ向から先生の言葉に斬りかかった。
「家庭でも、親からの愛情を得た者が勝つ。幼稚園や保育園だってそう。学校を出て社会人になっても、仕事の優劣や人徳で序列は付けられる。ヒトは、集団でいる限り、蟲毒の壺の中にいることになる」
「でもね、やっぱり『学校』は特別なのよ」
不意に、グルリと先生の体が
アシカが水中で遊ぶかのように宙へ体を預けた先生は、さらに私との距離を詰めるとニヤリと
「多感な年頃のヒトの子の毒気は、混ざり合い、喰い合うことでさらに大きくて素敵な毒になるんだもの」
それでも私は先生から目をそらさない。
放課後の教室に突如として現れた彼女がヒトではないことなんて最初から分かっていたし、彼女の領域に知らない間に引き込まれていたのだということも分かっていた。
分かったならば、私にできることはただひとつ。
この喰い合いに、勝つことだけ。
「……そんなことを私に語って、どうするつもりですか?」
いよいよ本性を見せてきた先生に、私は変わらない口調と態度で言葉を向ける。彼女はそれが心底愉快だったのだろう。ニヤリと浮かんだ笑みが、また一段と深くなる。
「貴女の毒と、この空間に蔓延した毒が喰い合ったら、きっと素敵なモノが出来上がると思っていたのに」
文字通り目と鼻の先まで距離を詰めた彼女は、奥の底の底まで笑った瞳をキュッと細めた。そこに映る私は、挑みかかるような覇気を宿していながらも、特にこれといった表情を浮かべていない。
「でも残念。貴女は私よりもこの壺の中を熟知しているみたいね。喰い合ってくれない」
スルリ、と。
『先生』と呼ぶのをためらうほどに鋭く長い爪を宿した指が、私の頬を撫でていく。確かに私の頬に触れたはずなのに指先の感触はなくて、代わりに切れそうなほど冴えた冷気が私の頬をかすめていった。
「残念。残念だわ。この毒を制した貴女を喰らうことができたならば」
鋭い爪先で私を愛で、ズラリと牙が並んだ唇を開いて声を上げた彼女は、最後に瞳孔が縦に裂けた瞳で、夢見る少女のように笑った。
「きっと、とてもとても、美味しかったでしょうに」
その言葉を最後に、先生は姿を消した。瞬きひとつの間に目の前にあった瞳が掻き消え、妙に遠かった音が周囲に戻ってくる。
「…っ、はぁー………!」
ピンと張り詰めていた空気が緩んだ瞬間、私の緊張の糸も切れた。ヘニャリと机にくずおれた私は、深く深く息を
「ヤバかったぁ……。あれはかなり、ヤバかったぁ……」
自分が変なモノに絡まれやすい体質だということは分かっているけれど、ここまで命の危機を感じたことはそうそうない。無事に過ぎ去ってくれて良かったというのが偽らざる本音だった。今更になって体が細かく震えているのが分かる。
──学校は蟲毒の壺の中だと、彼女は語った。
フーッと、深く息を吐いて、椅子の背もたれに体を預ける。そんな私に文句を言うかのようにギシリと微かに椅子が軋んだ。
──その理屈でいけば、きっと……
「……ヒトが国という集合体を作った時から、きっと人の世界は大きな蟲毒の壺の中にあるんだよ」
その壺の中を生き延びたいならば、取れる手段はふたつだけ。
喰い合って勝つか。ひたすら逃げ続けるか。
「……ヒトは、大きな有毒生物なんだから。ただでさえ毒気が強いのに、喰い合って相手の毒まで引き受けるようなことなんて、したくないよ」
小さく呟いて鞄を手に取る。どこへ行っても壺の中から抜け出せない私ではあるけれど、とりあえず今はこの場から逃げ出したい。
窓の外をぬるく染め上げる夕焼けに背中を向けて、私は教室を後にした。
結局はあの色から逃げ出す方法なんてないんだと、頭では理解していながら。
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