火間虫入道
ハッと気付いた時には、信じられない時間になっていた。
「うっわ、さすがに怒られる……!!」
学校の試験が近いからと塾の自習室に勉強に来ていたのだが、結局睡魔に襲われるのは自宅にいても塾にいても変わらないらしい。
うつら、うつら、と心地よい眠気がパチンと弾けた瞬間、手元のスマホにはかなり遅い時刻が表示されていた。塾の講義の後にも自習ができるように夜遅くまで自習室が解放されているのが逆に仇になったらしい。
もうそろそろ塾が閉まる時間ではあるが、まだ講師の先生が見回りを始めるには早い。適度な静けさと快適な温度が保たれた部屋にいるのは私だけだった。ある意味、居眠りするには最適な環境だったのかもしれない。
慌ててノートやテキストをかき集めながら、改めてスマホを確認する。メッセージに、不在着信。みんな家族からのものだった。酷く心配させてしまったに違いない。
「あわわわわ」
聞かせる相手もいないのに、慌てる声が口から
その瞬間、そんな私をからかうかのようにバツンッと自習室の照明が落ちた。
「いっ、いますいますっ!! まだここにいますっ!!」
思わずピョンッと立ち上がった瞬間、膝の上に乗せていた鞄が転がり落ちて中身が床に散らばる音がした。その音にさらに飛び上がって驚いた瞬間、机に思いっきり膝をぶつけてしまう。悶絶して座り込んだ先にちょうど椅子があったことがせめてもの
「~~~~~~~~っ!!」
鈍いくせに突き抜けていく痛みに目の際に涙が浮かんだのが分かった。今日は厄日か。……いや、元はと言えば勉強しに来たくせにうたた寝なんかしてしまった私が悪いんだけども。
「でもさ……っ!! 電気切るにしたって、中に人がいるかちゃんと確かめてからじゃないとダメだと思うんだよね……っ!!」
何とか胸の内のムシャクシャの一端を吐き出した私は、スマホのライトをつけると足元に向けた。幸いなことに、予想よりも鞄の中身は大人しく着地してくれていたらしい。これなら椅子に座ったままでも回収できる。ぶつけたばかりの膝を床についてかき集めなきゃいけない状況だったら泣いてしまう所だった。
ソロリソロリと落とし物をかき集めて、何とか荷物をまとめる。鞄を肩にかけて席を立った時には膝の痛みもヤマを抜けていた。
だけど、イヤなことが起きる時には、さらにイヤなことが重なるものだ。
「ふぇっ!?」
フッ、と、また視界が真っ暗になる。手元のスマホのライトが消えたせいだった。まだ充電は残っていたはずなのに一体どういうことなのだろう。
「ちょっ……ちょっと……!! ちょぉーっとぉーっ!!」
自習中にうたた寝をしてしまった罰にしてはいささか重すぎやしないだろうか。教室の照明のスイッチの場所くらいは分かるが、さすがに廊下の照明のスイッチの場所は分からない。教室から廊下に出るまでは窓から入り込む光のおかげでかろうじて物の輪郭が見えたけど、窓に面していない廊下は深い闇に沈んでいて伸ばした己の指先さえ見えないありさまだった。
「まだ生徒いますっ! 危ないんで電気つけてくださいっ!! 遅くなってすみませんっ!! でもいますからっ!! いーまーすーかーらぁーっ!!」
壁に寄り添って立ち位置を固めてから、震える声を張り上げる。私の存在を確かめずに照明のスイッチを切った講師が近くにいるなら、声に気付いてまたスイッチを押してくれるのではないかと思ったけど、闇に沈んだ廊下からはまったく誰の気配も感じられなかった。いっそ不自然だと思えるくらいに、私が張り上げた声までもが闇に呑まれて消えていく。
──もしかして照明のスイッチは中央一括管理で、時間が来ると自動で切れるようになってる、とか?
声を張り上げても効果がないことを無理やり理解させられてしまった私は、仕方なく壁にすがりながら闇の中へ踏み出した。幸いなことに、この壁沿いに進めば突き当たりに階下へ降りる階段がある。ここは4階で、吹き抜けの階段の真下が事務室への入口だ。事務室には必ず人がいるから、きっと階段近くまで行けば下から零れる光でほんのり視界は明るくなる、はず。というよりも、明るくなってくださいお願いします。
──昔の人が体感してた夜の暗さって、こういう感じだったのかな……
いやいやいや、別にそれを体験したかったわけじゃないんだけども! と胸中で叫びながらも、足はソロリソロリと慎重に前へ進める。そうだ、事務室に着いたらひとつ文句を言ってやろう。それくらいしないと気が納まらない。
そんな風に怒りを原動力に変え、私は何とか階下へ続く階段へとたどり着いた。やっぱり照明が切られたのはこの階だけだったのか、下から零れてくる灯りで階段周囲は思っていたよりも明るい。ただそれだけのことで、どっと体から力が抜けた。
「あぁー…んも……っ!!」
へたり込みそうになる己を鼓舞して、廊下に時間をかけてしまった分を取り戻す勢いで階段を駆け下りる。ひとつ下に下がっただけでまばゆい光が満ちたいつも通りの世界が広がっていた。それが嬉しいやら、自分だけが理不尽に恐怖にさらされていたと分かって腹立たしいやら、とにかく私の内心はメチャクチャだ。
私はそんなメチャクチャも乗せて勢いよく事務室に踏み込んだ。こんな時間だというのにまだ机に向かっていた女性講師が私に気付いて顔を上げる。
彼女が顔馴染みの先生だと気付いた私はキッと先生を見据えて力強く床を蹴った。
「先生!」
「
「いました! いたっていうのに自習室の電気勝手に切っちゃうの、酷くないですかっ!?」
「え?」
私の剣幕に目を
「電気? 切っちゃった?」
「そーですよ! 私、まだいたのに何の確認もなく電気切られて……!」
「……おかしいわね。もう今日は私しかここに残っていないはずなんだけど……」
先生は首を傾げたまま小さく呟いた。『怖かったんですからね!』と続けようとした私は、その言葉にハタハタと目を瞬かせる。
「……その場にいなくても事務室から遠隔で消せるようになってる、とかは?」
「そんな設備はないわ」
「じゃあ、先生以外に誰かが残ってる、とか……?」
そう言いながらも、私には分かっていた。今更、思い出した。
あの時、周囲に人の気配はなかった。つまり、私がいた部屋の照明は……
ザッと背筋が粟立つ。その瞬間、またしてもバツンッと視界が闇に閉ざされた。あまりに急なことに私は息を詰めたまま悲鳴を上げることさえできない。先生もそれは同じだったのか、一瞬引きつった呼吸音が響いただけで、後はひたすら深い静寂が周囲を包む。
「てっ……停電?」
ソロリと先生が呟いた時には、一体どれだけの時間が経っていたのだろうか。
「え……違うんじゃ……。外、明るいですし……」
外に面した窓からはうっすらと光が入り込んでいる。しばらくすると目の前にいる先生の輪郭がうっすら見え始めたから、恐らく外は普段と変わらず街灯や家々の明かりが灯っているはずだ。
「じゃあ、ブレーカーが飛んじゃったのか、電気設備の不調かしら……。嫌だわ、まだ片付けなきゃいけない仕事が残ってるのに……」
先生は、これが何てことない事であるかのように呟く。
だけど、あることに気付いてしまった私はそんな呑気なことは言っていられなかった。
「せっ、先生……」
人の気配がなかったのに勝手に切れた照明。充電が残っていたはずなのに画面もライトもつかなくなったスマホ。
これがヒトの悪意やヒトの不備で起きたことでないならば。
「早く帰れぃ」
ふと。
闇の向こうから、しわがれた声が聞こえた。
「ヒトの子は、とっとと帰れぃ」
ヒッ、と。
自分の喉が鳴ったのが分かった。寒くないのに体の震えが止まらない。
「困るのだよ、ワシらの時間を、ヒトの子に邪魔されては」
ヌルリ、と。何かがすぐ近くを通り抜けたのが分かった。闇に姿を溶かしているから、何が通ったのかは分からない。ただ、それがヒトではないということだけが、生々しく私の感覚に伝わってくる。
「光がなければ、ヒトの子は仕事もできまい。さぁ、帰れぃ、帰れぃ」
ケタケタケタと、それが笑う。体の震えが止まらない。
逃げ出したい。逃げ出さなければならない。そう思っているはずなのに、体が少しも言うことを聞いてくれない。
「……ん、…の………」
恐怖が理性を越えて弾け飛ぶ。
そう思った瞬間、すぐ近くで呻き声が聞こえた。……いや、違う。これは、呻き声なんかじゃなくて……
「ふざっけんじゃないわよっ!!」
弾けた声は、怒声だった。
私が上げた声ではないということは、消去法でこの声の主は先生だ。……先生のはず、なん、だけども。
「今日までに片付けなきゃいけない仕事が山ほどあんのよっ!! なのに帰れですってっ!? ふざっけんじゃないわよこっちの事情も知らないくせにっ!!」
バンッという音は両手で机を叩いた音なのか。金切声には怒りというか、八つ当たりというか……とにかく何かがぶっちぎれてしまった感情がこれでもかというほどに盛られている。
「どいつもこいつも『一番若いから』っていうクソくだらない理由で私に仕事押し付けてきやがんだからっ!! したくもない残業させられてんのになぁにが『早く帰れ』よっ!! 片付けなきゃクソ上司のネチネチした小言浴びせられんだからっ!! 何っ!? それをあんたが代わりに聞いてくれるってわけっ!?」
「せ、先生……?」
「早く帰れんならとうの昔に帰ってるわよっ!! したくて残業してんじゃないのよっ!! ふざっけんじゃないわよっ!! 私の仕事の邪魔すんなっ!!」
若くて、大人しくて、優しくて丁寧な指導に好評がある先生だということは、もちろん指導を受ける側である私はよく知っている。どれだけ生徒にナメられた態度を取られても、声を荒げることなく、根気強く丁寧に教えてくれる先生だと、塾友達もみんな言っていた。
──優しい人ほどストレスを溜めやすいっていう話は、世間一般でよく言われることなのかもしれないけど……
視界が闇で塞がれていて、逆に良かったのかもしれない。闇を見透かす目を持たないヒトの子である私は、優しい先生が今どんな顔をしているのか知らなくて済む。
逆に、闇を見透かす目を持つ何かは、ヒトの中に潜む闇を直視してしまったのだろうか。それとも単に言い返されたことや向けられた怒りに驚いただけだったのだろうか。
確かにあった何かの気配が、いらなくなったプリントが破られるかのように散り散りになって消えていく。パカ、パカと照明が復活して、視界は元の明るさを取り戻した。いきなり明るい場所に置かれたせいで目がくらむ。
「あら、戻ったみたいね。良かった良かった」
私が視界を取り戻した時、先生はもういつも通りの先生だった。穏やかな笑みを浮かべて席に座り直した先生はニコリと私に笑いかける。
「楠木さんも、今日はもう帰りなさいね。遅いから、気を付けるのよ?」
「あ、……はい」
私はカクカクとぎこちなく先生に一礼すると事務室から出ていった。まるでそのタイミングを見計らったかのようにポケットに突っ込んでいたスマホが震え始める。取り出して画面を眺めると、なぜか充電が復活していてお母さんから着信が入っていた。
──今時は、怪異よりも、社畜の方が強いのかもしれない。
『ヒトの恐怖はヒトがヒトとして生き延びるために必要な機能であるはずなんだけどなぁ』とか『今時は怪異も大変なんだなぁ』とか思いながら通話ボタンに指を滑らせる。
途端に響いたお母さんの怒声を素直に怖いと思えた私は、きっと正常で幸せなのだろう。
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