第9話 名前

「そ、そんな……話が違うじゃないですか」

「いや、冗談だからね? さすがに見せられないものもあるし」


 引き続き、篠宮先生の自宅にて。


 俺は落胆の色を浮かべていた。


 押し入れの中を、先生公認のもと物色できるのかと思ったのも束の間、冗談だと一蹴されたのだ。


 そりゃまあ、堂々と見せる方もどうかと思うけど。


「何はともあれ、ここからはやっと恋人らしくできるね?」


 篠宮先生は照れ臭そうに言う。


 この家にいるのは俺と篠宮先生のみ。

 学校といういつ誰の目に見つかるかわからない危険な環境ではなく、安全地帯だ。


 俺はそっぽを向きながら。


「そ、そっすね」

「あ、照れてるんだ?」

「そ、そりゃコッチは高校生だし、付き合ったこともないんです」

「私だって、付き合ったことないからね」


 篠宮先生に恋愛経験がないことは事前に聞いている情報だ。


 けれど、


「それにしては余裕がありますよね……」

「そう、かな。まぁ、一応歳上だし、先生だし、そういう立ち振る舞いは意識してるけど」

「じゃあ、平気そうな顔して実は結構ドキドキしてたりしますか?」

「……っ。きゅ、急に顔近づけて来ないでよ、綾辻くん!」


 グッと前のめりになって、篠宮先生との物理的距離を縮める。


 目を合わせていると、瞬く間に篠宮先生の頬が赤く染まっていく。


「タクマくん、じゃないんですか?」


 名前呼びにするよう決めたわけじゃないが、篠宮先生は俺のことを名前で呼んできている。

 二人きりなのに苗字で呼ばれるのは、少し違和感があった。


「う、うん……。じゃなくて! てか、その、私に名前呼び求めるなら、えっと……」


 篠宮先生はブルブルと残像が見えるくらい素早く両手を振りながら、後退りする。


 さっきまでの余裕は消え、あわあわと口籠っていた。


「俺も名前で呼ぶべきってことですか?」


 意図を汲み取って問いかけると、篠宮先生は何も言わず赤い顔を隠すようにうつむく。


 付き合っているわけだしな。

 こういった二人きりの状況であれば、名前で呼んだっていい。


 それを篠宮先生も望んでいるみたいだし、ここは俺も一歩踏み出して──。


「──え、えっと、篠宮先生の下の名前ってなんですか?」


「…………」


 静寂のカーテンが下りる室内。


 元から騒がしかった訳ではないが、如実に伝わる静けさだった。


 さっきまで発熱を疑うレベルには赤い顔をしていた篠宮先生が、すっかり白い肌を見せており呆気に取られた顔をしている。


「キミって、名前も知らない人と恋人になっちゃうんだ?」


 数秒の沈黙の後、篠宮先生が瞳の奥を暗くしながら問いかけてくる。


 背筋にぞわりと寒いものが走った。


「す、すみません。その、教師の下の名前ってものに着目したことがなくて」


 自己紹介の際は苗字さえ覚えておけば良いだろうと考えていたから、下の名前を覚える努力をしてこなかった。

 まさか先生と付き合うことになるとは夢にも思わなかったわけだしな。


 しかし、それが結果的に俺の首を絞める羽目になるとは……。


「じゃあ私が告白するまで、本当に眼中になかったんだ?」

「ま、まぁ……はい」

「へぇ」

「で、でもその、先生だって海での一件がなければ、俺のこと生徒の一人としか思ってなかったんじゃ」

「……まぁ、そう、なるかな」


 篠宮先生は少し煮え切らない返答をする。


 というか、言い返してどうするんだ俺!

 悪いのは俺だ。ここは篠宮先生の機嫌を取らなければ! 


「俺が教師の名前に興味持ったのは、篠宮先生だけですから」

「……っ。そ、そういう言い方すればいいってものじゃないからね」

「どうしても教えてくれませんか?」

「…………花澄かすみ


 風が吹けばかき消されるくらいの声量で、篠宮先生は名前を教えてくれる。


 ここで名前で呼ぶのを恥ずかしがるみたいな展開は避けないとな。

 俺は一呼吸をおいて心臓の鼓動を落ち着かせてから。


「良い名前ですね。花澄さん」


 囁くように名前を呼ぶと、篠宮先生はみるみるうちに熟れたリンゴのように顔色を染めていく。


 その反応が成人しているとは思えないほど初々しくて、気がつけば俺まで顔が赤くなっていた。

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