穏やかな日々

 <ファタリタ正史>


 この時期の勇者モニカの逸話に比べて、賢者ロモロの逸話は極めて少ない。


 覚えていないと本人は語るが、あらゆる事象を覚えている賢者が忘れるなどそれは天地がひっくり返ってもあり得ない話だと筆者は思う。


 おそらく何らかの理由で口を閉ざしているのだろう。賢者は何も語ろうとしなかった。



 ただ、それでも私が彼と共に実体験した話ならば語れよう。


 今思えば私の命などどうでもよかったが、ここで賢者ロモロが行方不明になっていたら、大陸の歴史は大きく変わっていただろう。


 すでに彼は賢者としての資質を開花させようとしていたのだ。


 もしかしたら、賢者ロモロならばこの変事を別の形でどうにかしたかもしれない。


 あるいは、自身が巻き込まれることすら織り込み済みだったのではないかと思える節さえある。


 先を見据えていたとしか思えないほど賢者にとって重要な出会いがあったからだ。


 だが、それらを言いだしたらきりがない。判断は読み手に委ねさせてほしい。



 これは賢者の幼少時代に起きた大事件。


 この時のことを、私は生涯忘れないだろう。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 モンスター騒ぎからまたしばらく経ち、街にはパラパラと雪が降り始めていた。

 まだ本格的に積もることはないけど、もう少ししたら街は真っ白になるだろう。

 そんな中、暖炉の火に程近い位置で、僕は家で本を読んでいた。


 内容を読みながら、マナを呼び寄せて通していく。

 お姉ちゃんとヴェネランダさんが通してくれた甲斐もあり、今では自分の意思でマナを身体に通すことができていた。

 そうなれば、もう本を読みながらでもできる。魔法を発動させない限り、光ったりもしないから、誰にもバレないしね。


「あー。あー……」

「ネルケ、どうした? これはまだお前の読めるような本じゃないぞ」


 寝ている小さなベッドから、ネルケが小さな手を伸ばしてくる。

 僕が少しその手から遠ざけると、ネルケは唇を尖らせた。


「本が気になるんでしょ。持ちたいんじゃない?」

「重くて持てないでしょ……。それに本は貴重なものだし、涎でも垂らされたら、借金塗れになるよ」

「……なんでそんなものが、こんな家にあるのかしら」


 お母さんは小さく溜息を吐く。

 デメトリアは狭量ではないけど、本を台無しにしたら許したりはしないだろう。

 僕が大きな借りを作ってしまうしな。だから、まだ本は貸せない。ごめんよ、ネルケ。


「それにしても、モニカったら相変わらず外で訓練してるのね」

「マティアスさんの修行が効果覿面だったからね。六人とも全員しっかり言われた通りにやってるし。休憩時間中の兵士さんたちも、面白がって模擬戦の相手になってるらしいけど」

「トーニオやフランカが真面目にやってるのはいいんだけど、奥さんたちが本当にハンターになるつもりなのかって戦々恐々としてるわよ」

「次男にも財産が与えられるなら、別の選択肢も出てくるかもしれないけどね……」


 この国の平民たちは決して裕福ではない。

 家族の財産は長男に引き継がれ、仕事や家などがそのまま入ることになるが、次男には何も入らない。別の住居、あるいは別の街、場合によっては別の仕事を探す必要がある。


「フランカやジーナはどうなの? あの子たちは家庭に入ればいいわけでしょう」

「フランカの場合、性格としか言いようがないと思うけど。ジーナはよく知らない」


 彼女だけハンターになりたい理由がよくわからない。

 多分お姉ちゃんやトーニオたちは知ってるんだろう。仲間たちの秘密というやつだ。


「ふええ……うううううう……」


 ネルケがぐずり始めた。そろそろお腹が空いたのだろう。

 お母さんも僕より先に気付いたようで、すでに胸をはだけていた。

 布でグルグルに巻かれたネルケを胸元に抱き寄せ、母乳を飲ませている。

 ぐずってたのが一転、すぐに機嫌をよくして笑い始めた。


「わかりやすい子だなぁ」

「そのぐらいが丁度いいのよ」


 穏やかな日々。

 お姉ちゃんも、最近は「思い出したんだけど……」とか「あの人が死ぬ」とか言い出さない。

 まあ、そんな記憶に残るような出来事が、何度もあったら困る。

 何もない穏やかな日々に感謝しながら、僕は読みかけの本のページをめくった。


「大変だよ、ロモロ!」

「……今度はどうしたの」


 その瞬間、お姉ちゃんが家に帰ってきて、有無を言わさず僕の手を掴んで、森の入り口近くまで連れて来られる。

 そこでぐちゃぐちゃになった土を指し示した。


「消えちゃってるよ! あたしの記憶が……! 大事なことばっかりなのに!」

「ああ」



 ――――事の発端はかなり以前に記憶力に不安のあるお姉ちゃんから、「記憶にあることを、どんどん忘れちゃう!」と告げられたことだ。

 完全記憶能力でも持っていなければ、印象の薄い出来事など忘れてしまうだろう。


「どうしたら覚えてられるだろう。忘れたら困るのに……」

「いいんじゃないの。忘れても。人間は忘れる生き物だよ。忘れられるから新しいことを覚えられるんだし」


 人は悲劇すら時間の経過によって、その記憶を薄れさせることができる。

 だから人は辛いことを忘れて、前に進むことができるのだとは本に書いてあった。


「で、でも……」

「それでも不安なら、ひとまず土にでも書いておこうよ」


 そう提案すると、枝を使って土に色々と書き始めていく。

 お姉ちゃんが文字の読み書きができるようになってることに驚いてしまった。


「貴族としてさすがに読み書きができないのはまずいって叩き込まれたからね」

「……字は汚いけど」

「し、仕方ないでしょ! そもそも手紙を送ったりする時は、侍女の人たちに代筆してもらってたからいいんだよ!」


 そして、驚いたのはもうひとつ。

 起こることが、本当に重大だった。僕は知ってはいけないことを知ってしまったんじゃないだろうかと慄いてしまう。

 お姉ちゃんの話が夢であってほしいと願いたいほどだった。


 戦争や内戦が起こることは聞いていたけど、領主の暗殺、大鉱山の喪失、穀倉地帯の死滅、飢餓、疫病。第二王子の革命、魔族の大侵攻。

 隣国から不可思議な赤い波が押し寄せるとか、現時点では意味のわからないものもある。これはお姉ちゃんに聞いても、よくわからず、しばらくすると終わったのだとか。


 士官学校への入学から、貴族から嫌がらせを受けるといった私的なものもあった。思い出しながら怒りが湧いてきているのか、ここだけ書き込んだ文字の深さと荒さが尋常ではない。相当腹に据えかねているのだろう。革命の書き文字よりも熱が籠もっていた。


 少なくとも現時点では情報がないため、僕にできることはない。

 事情なり何なりを把握していかなければ、何も対応できないし――――。



 で、そんなお姉ちゃんの記憶を書いたものが、ここ数日ちらつく雪で地面がぬかるみ、完全に読めなくなっていた。

 むしろ、ここまでよく持ったものだ。もっと早く消えるかと思ってたのに。

 お姉ちゃんが頭を抱えてしゃがみ込む。


「どうしよう。あたしまだ、全部書いてないのに!」

「大丈夫だよ。今のところ、僕が覚えてるし。思い出したら、また書いて。覚えておくから」

「本当!? ずっと覚えてられる!? 新しく覚えられる!?」

「いや、それは無理じゃないかな。僕の記憶力は人並み程度と思うし」


 書いたり口に出して読んだりすることで、記憶として刻みつけているけど、それにだって限界がある。


「じゃあ、どうするの? あたしもロモロもどんどん忘れちゃうじゃない!」

「平気だってば。紙をもらえばいいだけだし。紙なら残るでしょ」

「紙なんて高価なもの、家じゃ買えないでしょ」

「まあ、高いことは確かだけど。デメトリアに頼めば都合してもらえるし」

「デメちゃん、そんな貴重なもの、くれるかなぁ」

「ただではくれないよ。おまけなら多少してくれるかもしれないけど、デメトリアもそこまで甘くないし。ちゃんと対価は要求してくるはずだよ」

「じゃあ、どうしようもないんじゃないの?」

「今の僕には対価を用意する準備ができるから」


 その日の夕飯が終わってから、お父さんにそのための相談を持ちかけた。


「お父さん、お願いがあるんだけど」

「お、珍しいな。なんだ?」

「この冥石で、腕輪を作ってほしいんだ」


 僕はポケットから一個の冥石を取り出す。

 すると、お父さんは目を剥いた。


「……お前、こんなもん、どこで手に入れた?」

「この前、マティアスさんにもらったんだけど。訓練についてきた褒美だって」


 ギリギリであからさまな嘘は言っていない……と思う。

 そして、お父さんはガックリと肩を落として手で顔を押さえた。


「あの馬鹿、子供になんて貴重なもんを……。金銭感覚が適当過ぎる……。傭兵になっても変わってないじゃねーか」

「ちなみに、もうひとつもらってるんだけど」

「なに考えてんだ、あいつは!!」

「えーと。ダメ?」

「いや、ロモロにダメと言ってるわけじゃないが……腕輪を作って、どうするつもりなんだ?」

「デメトリアにあげようかなって」

「なんでまた。いつものお礼か?」

「それもあるけど……ちょっと紙がほしくて。その対価かな」


 すると、お父さんは冥石を見ながら考え込む。


「ま、作れるぞ。リングの部分は何で作ってもいいんだろう?」

「うん。そこは適当に余った素材でも……。腕にさえ嵌まればいいと思うし」


 すると、それにお母さんも口を挟んできた。


「どうせだったら、ふたつ作って、ロモロとお揃いにした方がデメトリアは喜ぶんじゃないかしら? その石、ふたつあるんでしょう?」

「あー。喜ぶかな?」

「女の子なら、絶対喜ぶと思うわ」

「うーん、そうか。じゃあ、お父さん。ふたつ頼んでもいい?」

「ああ、いいぞ。息子の珍しいお願い事ぐらい、ちゃんと聞いてやらないとな」


 それからもうひとつ、デメトリアへ「紙を持ってきて欲しい」の伝言を頼まなければいけないのだが、それは今この街に留まっている巡礼者の人たちに頼むこととなった。王国内の国教であり、大陸の大半を信徒に収めるマルイェム教だ。

 次に行くのはヴァリオさんの商会がある街らしく、つつがなく届けると申し出てくれる。小額のお布施はしっかりすることになったけど。

 デメトリアが来るのはまだ少し先だけど、それまでに腕輪はできあがるようで、順調に行けば、次に会った時に渡すことができるだろう。


        ◆


 酒場には多種多様な人間がいる。

 鉱山労働者や冒険者、あるいは市井の人も含めて、一日の終わりに酒を飲んで明日の活力とするのだ。


 しかし、多種多様な人間とは犯罪者、あるいはアウトローも含む。

 見るからに荒くれ者な彼らふたりは酒場の端で目立たぬようにちびちびと木製のコップを傾けてエールを飲んでいた。


「まったく景気が悪いにもほどがある」

「失敗しちまったしなぁ。オレたちが必死に穴掘って盗みに入ろうとしてたのに、埋めるなんてヒドいことしやがる。こっちの努力をなんだと思ってんだ」


 間抜けな逆恨みでしかないのだが、ふたりは他人に聞かれないように愚痴る。

 そんなふたりに近づく男がいた。


「儲け話があるんですが、乗りませんか?」

「ああん?」


 男たちが振り返ると、そこには黒いローブを羽織った男が立っていた。

 ローブの男は彼らに許可を取ることもせず、備え付けてあった木の椅子に座る。

 ローブで隠れて顔はわからない。

 だが、酒場に脛に傷を持つような手合いが来るのは珍しいことではなかった。

 どちらにしろ、話を聞かれていた以上、ふたりにただで返す気はない。


「おっと。そう軽率に殺気を向けないでいただきたい。殺すのは私の話を聞いてからでもいいのでは?」

「……話してみろ」

「簡単です。幾つかの街で子供たちを誘拐してきてほしいのです。最低でも十人」


 ローブの男がその特徴を語り始め、それが終わると革袋を差し出した。

 荒くれ男がローブの男を見ると、どうぞと言わんばかりに無言で促す。

 荒くれ男は革袋の中を見て、ギョッと目を見開いた。


「これは前金です」

「……これが前金だと? 十年以上は遊んで暮らせるぞ……」

「成功報酬に三倍は出しましょう。必要なものもすべてこちらで揃えます」


 荒くれ男はしばし悩む。

 この国では冬に誘拐が非常に多い。雪というのは様々な痕跡を消し去ってくれるので、追跡が困難になるためだ。誘拐を依頼されるというのはわかる。

 問題は明らかに相場のおかしい報酬だ。リスクの高い仕事であるのは事実だが、それにしたって、この額はあまりにも高すぎた。


 法外な報酬について尋ねるのは、本来であれば御法度だろう。依頼主やその目的、理由などを聞けば警戒されるだけだ。

 だから彼は聞ける範囲で踏み込む。


「ここまで報酬が高いのであれば、他に条件があるんじゃねぇのか」

「ええ、ふたつほど。まずは私のことを決して漏らさないこと。そして、もうひとつ。こちらが重要なのですが、ひとり確実に誘拐してほしい標的がいます」

「この街のガキか?」

「いいえ。バグナイアの街にいます」

「滅法遠いな。一日二日で済むような話じゃない」

「ええ。ですので、誘拐用に改良した馬車を用意します。それで各街を回って子供を十数人、馬車で運んでいただきたい。最終的に標的を誘拐してもらえれば問題ありません。標的の引き渡し後、他の子供たちを売り払ったお金は自由にしてもらって構いませんよ」


 荒くれ男は報酬の入った革袋を手に取った。


「……いいだろう。引き受けた」

「ありがとうございます。最終的な目的地や標的の特徴などはその革袋の中に書いたメモを読んでください」


 そしてローブの男は、ここの払いは自分が持つとばかりに銀貨を数枚置いて酒場から立ち去る。

 荒くれ男ふたりは降って湧いた儲け話に顔が歪んでいた。


「この報酬の三倍ならお前と分けても一生は遊んで暮らせる。やるぞ」

「構わねぇけどよぉ……。オレらだけで誘拐とかできるのか? ふたりじゃ手が足りねぇ気がするんだけど」

「……確かにふたりじゃ手が余るか。仕方ない、流れ者のあいつに頼んでみるか」

「あいつ? 信用できるのか?」

「なんでこんなところにいるのかは知らんが、噂通りなら誘拐くらい赤子の手を捻るもんだろう」


 蛇の道は蛇。

 彼らは酒場を出て、助っ人を探しに向かった。


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