妹の誕生間近
<ファタリタ正史>
モニカとロモロの誓いの後、ふたりは人知れず魔法の訓練に励んだという。
だが、そのつらく厳しい訓練を乗り越えるための原動力となった人物がいる。
モニカとロモロの妹だ。
彼女は大いなる祝福を受けて生まれてきたのは間違いないが、その出産には紆余曲折があったとされる。
一歩間違えていれば、彼女は生まれなかったかもしれない……。
生まれていなければ、ふたりは運命に屈して折れていたかもしれないのだ。
ここは運命の岐路だったと言っても過言ではないだろう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「今思い出したんだけど、明日トスカが生まれるかもしれない……」
「また、そういうことをサラッと……」
ヴァリオさんたちが家を去り、お父さんとお母さんが何やら雑談をしているところに、突然、耳打ちされた情報はかなり重大ごとだった。
「ヴァリオさんたちが来た次の日にお母さんが倒れたんだよ。それでその時、傍に誰もいなくて……発見するのが遅れて、かなり危険になったはず」
「かなり危険ってどれぐらい?」
「お父さんが使い物にならなくなるぐらい」
一大事だ。
元トレジャーハンターのお父さんは、滅多なことでは驚かない。お姉ちゃんが魔法を使っても、いつも通りだったように。
それが使い物にならないぐらい混乱していたとなれば、本当に命の危険があったのだろう。
「それに……赤ちゃんの方にも影響が出たみたいで……」
「何があったの?」
「生まれてすぐに泣かなかったんだよ。それに……成長しても喋れなくて」
そんな事件が起こるのが明日ということか。
そう言えばお姉ちゃん、生まれてくる妹のことを話す時、少し言いにくそうだったな。それでだったのかな?
「ヴァリオさんたちはだいたい月に一回の頻度で来るけど、明日で合ってる?」
「……ちょっと自信ない。寒かった時期だったことは覚えてるんだけど。ただ、雪は降ってなかった。これは間違いないはずだよ」
この前、教会の占星術によって冬を告げられたばかりだ。
ただ、お母さんがもう産んでもおかしくない時期に入ってきているのは事実。
問題は来月かもしれないということか。
「備えること自体は悪いことじゃないよ。来月だったら来月だったでいいしね。ひとまず明日はどっちかが必ずお母さんの側にいるようにしよう」
「ううん。じゃあ、あたしの方が傍にいるよ」
「別にいいけど、なんで?」
そう尋ねると、一瞬だけ頭の中にマナが潜り込んでくる感触を微かに感じた。
『聞こえる?』
脳内に直接響くような声。
思わずお姉ちゃんの方を強い視線で見ると、満足そうに頷いた。
「……こんな真似もできるんだ」
『初歩の初歩だよ。近くだと何もなしでできるけど、遠くだとちょっと違うんだ』
ただ、どうも一方通行のようだ。こっちで考えたことは向こうに伝わっていない。
『ボス猿』『脳みそ贅肉』『足太魔人』等々、お姉ちゃんを怒らせる言葉を頭の中に思い描いたけど、お姉ちゃんは無反応だ。首を傾げている。
「ロモロはあたしからの連絡を受けたら、ゾーエ婆さんのところに行って。それか、最初から『ゾーエ婆さん』のすぐ傍にいて」
「なるほど。産婆の人たちをすぐに集めると」
ゾーエお婆さんは薬師だが、この街の中では最も経験のある産婆で、取り上げた赤子は数知れず。
四分の三が誕生直後に死ぬと言われる赤子の出産で、ほとんど死なせていないという最高の産婆と言える。
「特にゾーエ婆さんはその日、どこかに行ってたはずなんだよね。探すのにすっごい苦労したし。それをどうにか防いでほしいかな」
「……えぇ。難しいことをサラッと言うね」
平民には毎日のようにやることがある。大人であればなおさらだ。
子供の都合で予定を変えさせるというのは難儀の一言となる。ましてや外出してたなら重要な用事じゃないのだろうか。
「とにかく頼んだからね」
「……わかったよ」
逆らったところでどうにかなるわけでもない。
ひとまず朝一番にゾーエお婆さんのところに行って、引き留めるなりなんなりしなければ。
「生まれてくるのは、何時ぐらいだったか覚えてる?」
「ちょっと覚えてない……」
「夕方の鐘の時ぐらい?」
「……その辺りの記憶が曖昧なんだよね。ただ鐘が鳴ってから、しばらくしてからだったと思うんだけど」
「すぐ夜になったとか覚えてない? 子供が産まれたら、夜に近所でお祝いが始まるよね?」
「どうだったかな……。その日の夜に色んなお料理が持ち寄られてたのは覚えてるんだけど。あといっぱいお酒も用意されてたよ」
お姉ちゃんは記憶が曖昧なことを申し訳なさそうにしていた。
子供が産まれたら、夜に産婆や近所の人たちと一緒にすぐ傍の広場でご飯を食べることになる。そこで各家のご飯を持ち寄って、食べ合いながら、子供の誕生を祝うわけだ。
お酒は主催者――この場合はお父さんが用意して持て成す。タダ酒で馬鹿騒ぎできるということもあり、子供が無事誕生すればめでたくも美味しい日となるのだ。
「それだけ聞ければ充分だよ」
「だ、大丈夫なの? ロモロ」
「生まれる時間帯は大体わかったしね。むしろ、問題はゾーエお婆さんの方だよ」
ゾーエお婆さんをどうやって引き留めるかだなぁ……と考えながら、お姉ちゃんから解放された僕は、頼りない蝋燭の火を頼りに読書に勤しんだ。
本来だったら今日読み終えるはずだった本だ。勇者の物語なのだが、ようやく中盤に入って神様と邂逅したところで、これから盛り上がってきそうなところである。
「よし。そろそろ寝よう。蝋燭ももったいないしな」
「ええ……。お父さん、もうちょっといいじゃん。まだ本読みたいし」
「ダメだ。冬に備えて無駄遣いはできないからな」
「はーい……」
なんだか最近、本を読めていない。
魔法を覚えたら光を灯すようなことをできたりするだろうか。あるいは、暗闇でも本が読める目にするとか。
そんなことを考えながら栞を挟んで本を閉じる。明日も忙しくなりそうだし、読書時間を確保する言い訳を考えねば。
そんなわけでベッドに寝転がる。
そのすぐ傍にお姉ちゃんがいて、ギュッと抱きしめられた。
「お姉ちゃん?」
「今日はロモロの番だよ」
「何の話……」
「抱きしめながら寝るの。昨日はお父さんとお母さんだったからね」
「もうそんな歳じゃないから」
「あれ? ロモロってば照れてる? めずらしー」
「照れてない!」
「照れてるってば。顔赤いし」
「暗闇じゃないか!」
「あたし、夜目効くし。ほらほら、大人しくしなさい」
拒否権はない。
僕はお姉ちゃんのされるがままになりながら、諦めて目を閉じた。
「モニカってば急に甘えん坊になったわね」
お母さんの嬉しそうな言葉を耳にしながら、それは違うと心の中で反論した。
◇ ◇ ◇
朝の鐘が鳴って、みんなが起き出す。
井戸から水を汲んできて顔を洗い、朝食を食べてから各々が仕事に向かう時間だ。
「今日、母さんは一日中、家にいること!」
そんな朝一番、お姉ちゃんは物怖じすることなく、そう言った。
どう切り出すんだろうと思っていたら、真正面からいったな。
「あら。今日はいくつかやろうとしてることがあったのだけど」
「全部あたしがやるから! 今日だけは大人しくしてて!」
「困ったわねぇ。モニカじゃできないものもあるんだけど」
困り顔のお母さんだったが、お父さんが横から口を挟む。
「今日ぐらいはいいだろ。お前は働き過ぎだと思ってたしな。そろそろ生まれてくるんだし、たまには大人しくしててくれ。仕事が遅れても、文句は言われないさ」
「でも……」
「モニカ。お母さんはお父さんが目を離すと、すぐに働き始めるからな。それを止めるのがお前の役目だぞ」
「はーい。父さん、任せて!」
お母さんが苦笑しながら仕方なさそうに溜息を吐く。
「わかったわ。今日はしっかりと休みます」
「それじゃ俺はその分、稼いでくるとするかね」
「行ってらっしゃい、アーロン」
お母さんに見送られてお父さんは家を出ていき、鍛冶をするための仕事場に向かった。
「僕もちょっと出てくるね」
「ロモロまで珍しいわね。今日は一日ずっと本を読んでるかと思ったのに」
「やらなきゃいけないことがあるからね」
家を出る前にお姉ちゃんと目配せして頷き合ってから、僕はゾーエお婆さんの家に向かう。
目的地に到着すると、丁度、家を出たところだった。これは僥倖だね。
「おや、ロモロじゃないかい。おはようさん」
「おはよう、ゾーエお婆さん」
ゾーエお婆さんはこの街では最高齢のはずだ。すでに髪も白く、皺も深い。
身体に衰えも来ているのか、動作はゆっくりして、いつも面倒くさそうな目付きをしているが、それに反比例するようにお喋りが達者で口が早い。
そして、薬師としても非常に優秀だ。
「お前さんが来るのも珍しいね。なんじゃ、マーラのやつが産気づいたかい?」
「いや、まだだけど。でも、そろそろだから一応、お婆さんの予定を確認しておこうと思って」
「なるほどねぇ。気が利くやっちゃな。さすが賢者の神子」
「やめてよ。肩が重くなるから」
「お前さんぐらいの歳なら、菓子をねだりに来る方が可愛げがあるぞ」
「……心に留めておくよ」
そう言いながら、ゾーエお婆さんはゆっくりと歩き出す。
ひとまず生まれるであろう時間帯に、うちの近所にいてもらえればいいし、今はお付き合いしておこう。
「今日はどこ行くの?」
「街外れの偏屈爺のとこだよ。色々と物入りだからね」
「あー。ってことは、薬草関係?」
「それもあるな。ま、色々さね。なんじゃ、ついてくるか?」
「迷惑じゃなければ」
「ああ、じゃせっかくだし、荷物持ちしておくれ」
ひとつ革袋を手渡される。結構重い……。
「帰りにも荷物があってね。そっちも大して重いものじゃないんだが、何しろ量が多い。何度か往復する必要があるかもと思っとったんじゃ」
「重いものは持てないけど、これぐらいならどうにか……」
「情けないね。お前さんぐらいの歳でモニカはもう十キロのものを軽々と運んでいたぞ」
「お姉ちゃんと比べないでよ。八歳で十キロを軽々と運べる子供が一体何人いるのさ」
「ひゃっひゃっひゃ! それもそうだ」
ゆっくりと、街の東地区から中央区を通り、西地区の端へ移動する。
街の壁が近づいてきたところで狭い路地に入り、少し進むと赤く塗られた扉が見えてきた。
その扉をゾーエお婆さんは乱暴に叩く。
「起きろジジイ! 来てやったぞ」
ガンガンと杖で叩きつけるように、さらに叩いた。元気すぎる。
「うっさいわババア! 起きとるし、そんなガンガン叩かなくても聞こえとる!」
堪らずといったように出てきたのは、白髪白眉白髭の豊富なお爺さんだった。
皺が刻まれているが、眼光は鋭く、まだまだ活力に満ちている。
ここで錬金術を営んでいるトビア爺さんだ。
「おや、ロモロまでいるのか。珍しい」
「お久しぶりです、トビアお爺さん」
「まったく。礼儀正しいのう。このババアにも見習ってほしいわ」
「アンタの減らず口など聞きとうないわ。この寒空の中、いつまで立たせておくつもりだい。とっとと中に入れろ」
このふたり、元は夫婦だったらしいのだけど、今は別居している。理由は全くわからないが、ゾーエお婆さんの方が怪しげな実験に耐えられなかったのかもしれない。
もっとも、こうして頻繁に会ってはいるみたいだけど。
家に入ると、その乱雑さに圧倒される。
用途のよくわからない器具が散乱し、足の踏み場もない。
棚にも知らない草や花、歪な形の金属などが所狭しと押し込められている。
「ここは客人に水のひとつも出さないのかい?」
「いちいちうっさいババアじゃ。ちょっと待っとれ」
「あ、トビアお爺さん。僕がやるよ」
「はー、ロモロは本当に気が利くのう。孫にほしいわい」
「ロモロ。こんな怠惰ジジイ甘やかすとろくなことがないよ。やめときな」
「偏屈なババアに言われとうないわ! だいたい、客人のくせに何じゃその態度は――」
テーブルを囲んで座ってすぐに口喧嘩を始めるふたりを尻目に、僕は壺から水を汲んで木製のコップに入れていく。
ふたりとも元気なことで何よりだ。
「悪いね、ロモロ。このジジイのせいで」
「物怖じせんの。好き好んでワシの家に来るのなんて、このババアとお前さんぐらいのもんじゃ」
「錬金術、見るのは楽しいですし」
現在、詐欺の手法として大きく周知されてしまっている錬金術だが、その中には有用なものもある。
鉄を金に変えるといったことは不可能だが、それらを求めた様々な実験を行うことによって、様々な副産物ができているのだ。
薬などはその最たるもの……とはゾーエお婆さんの言葉だ。
「で、頼んでおいたやつは?」
「あー。ちゃんとできとるわ。確認しとけ」
「こっちで確認しなきゃいけないほど耄碌してんのかい」
「口の減らないババアじゃな。あとで注文と違うとケチ付けられるのが嫌なだけじゃ」
そして差し出されたのは、小さな木のコップのような容れ物だ。
中には液体が入っている。鼻を突くような刺激的な匂いがここまで漂っていた。
容器の中に入っていると判別しにくいけど無色透明だった。
「……ふん。ま、問題はなさそうだね」
「それ、なんですか?」
「そういやあんたは普段から怪我なんてしないから見たこともないか。アタシらはこいつを消毒液と呼んでる」
少し賢者の知識で引っかかる単語だった。
「毒を消す液体……ってわけじゃないですよね?」
「ロモロが言ってるのは蛇や蜘蛛の毒の話だろう? そうじゃない。だが、世界にはそこら中に毒があるのさ。そこにも、ここにも」
「……そこら中に毒があったら、全員死んでると思うんですけど」
「そんな強い毒じゃない。どれもとても弱い毒さ。これにかかって死ぬやつはそうそういない。ただ、こいつは人が弱ってる時だと、身体に入り込んで死なせるに充分な毒性を発揮するのさ。この液体はそういった弱い毒を入り込む前に殺すもんさね」
毒の強弱。毒というと、確実に人を弱らせて殺すというイメージがあるけど、そうでないものもあるのか。
「毒を殺す力を持っていても、あまりに強すぎても困るんじゃよ」
「殺す力が強ければ、それは毒を殺すだけに限らないのさ。身体にいい影響を与えるものまで殺しちまうからね」
ふたりは、まるでそれが見えているかのように言っている。
「ふたりには……その毒とかが見えてるんですか?」
「まさか。見えるわけがない。アタシらの研究によって得たものさ。ソレは見えない。でも、ソレは間違いなくそこにある。まだ誰も信じようとしないがね」
「まったく。貴族どもは見えもしないマナの存在を信じているくせに、こっちについてはまったく信じようともしないからのう。いつまでも流行り病を神の怒りだの神の試練とか言ってては救われる者も救われんぞい。聖書の記述に縛られすぎじゃ」
言葉からしてゾーエお婆さんもトビアお爺さんも、教会には物申したいことがあるようだった。
信心深い地域なら極刑ものの発言である。
「そこにある壺の中に同じ消毒液が入ってるぞい。持っていけ。邪魔くさくてかなわん」
「へいへい。じゃ、こっちも渡すもんを渡すとするかね。ロモロ、革袋を」
「あ、はい」
テーブルにいっぱいに差し出した革袋を受け取ると、トビア爺さんは中身を抜き出し、テーブルに置かれていたモノクルを手に取ってしげしげと確認する。
入っていたのは薬草だ。
「ほう。珍しいもんを持ってきたのう。森に生えてたか?」
「ああ、広くはないが群生地を見つけたよ。感謝するんだね」
「ほっほっほ。こいつを育んだ自然と土壌には感謝はするぞい」
するとゾーエお婆さんは立ち上がった。
「用は終わった。ロモロ。運び出すよ」
「はい」
「なんじゃ。ロモロを肉体労働させようってのか。虐待じゃぞ」
「馬鹿言うんじゃないよ。このぐらいアタシらの時は普通にあったじゃろ」
「時代は変わったんじゃ。それにロモロは特別じゃ。脳を少しでも筋肉にするような真似はよしてほしいのう」
「過保護すぎじゃ、クソジジイ」
ひとまず壺を持って家を出る。
重いけど……持てない重さじゃない。
ただ……。
「この壺、十個ぐらいありましたけど……全部?」
「全部じゃ。十往復が五往復になったわい。感謝するぞ、ロモロ」
「手伝いしてくれる人はいなかったんですか?」
「アテは全員仕事に行っちまってな。ま、アタシは時間だけはあったからの」
「……昼までには終わらせたいですね」
「そりゃお前さんの働き次第じゃな」
そんなわけで街の端から端へ、壺を持ちながらの往復が始まる。
記憶に引っかかる消毒液を考える余裕はなくなった。
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