第一話 魔女の下僕⑦
幸成は八城の他にも患者を抱えており、仕事も毎日膨大に舞い込んでくる。
アリスに会ってから二日経った昼過ぎ、ようやく時間が取れたので地下鉄に乗ってアリスの働いているコンビニへと向かった。
地下鉄に揺られながらふと、やましいことは何もないにしても、成人男性が未成年の女の子に会いに行く絵面はあまり良くないのではないか……? と思いもしたが、やはり心配なので気付かれないように様子だけそっと見て帰ろうと決めた。
ドキドキしながらアリスが働いているコンビニを
よく考えるとアリスの働く時間も知らない。ただただ遠くまで散歩にやって来ただけの間抜けだったと気付き、幸成は自分の詰めの甘さにため息を吐いた。
すぐに帰っても良かったのだが、何か手がかりを得たくてコンビニの周囲を歩いてみることにした。
北山通りの北側には飲食店や雑貨店が並び、南側には京都府立植物園がある。植物園の緑が豊かで、それに似合うような落ち着いたデザインの建物が多い。
通りの北側を歩いていた幸成は、適当なところで右折した。大きな通りから外れると、だんだん一般の住宅が多くなってくる。
住宅街をしばらく歩いていると、小さな公園があった。
幸成は歩きながらボールや遊具で遊ぶ子供をぼんやりと眺める。すると、公園の端の草むらをかき分けて何か探している人がいることに気付いた。その背格好がアリスに似ている様な気がして、幸成はその人に向かって歩き出した。
「大丈夫ですか?」
気になって近くまで行き、背中に向かって声を掛けると、草むらをかき分けていた人が後ろを振り返る。
その人物はやはりアリスで、思わぬ偶然に幸成は目を丸くした。
「このあいだの……」
幸成の顔を見たアリスは眉間にシワを寄せる。
「誠倫病院の花満です」
もう一度自己紹介をすると、アリスはああ、と力なく
「何か用ですか」
「いや、偶然ここを通りかかったら、アリスさんっぽい人がいたから……何か探し物?」
幸成の問いに、アリスはうつむいて黙りこんだ。
沈黙の間、子供達のはしゃぐ声だけが響き、付き添いの親達がこちらの妙な空気を察し始めたのか、チラチラと幸成とアリスに視線を向けてくる。
「……猫を」
そろそろ通報されまいかと幸成が焦り始めた時、ぼそりとアリスが口を開いた。
「猫?」
幸成が問い返すと、うつむいたままアリスがゆっくりと話し始めた。
「野良猫に、餌をあげてて。いつもこの公園にいるのに、もう何日も見かけてなくて……」
だから草むらを探していたのか、と幸成は納得した。
「俺も一緒に探すよ」
幸成の申し出に、アリスは少し
それこそ警戒心が強くて人に懐かない野良猫の様な姿に、幸成は苦笑を浮かべた。
「じゃあ、俺は公園の近くを探してくるね」
あまり近くでいるのもストレスだろうし、離れた所での捜索を幸成が提案すると、アリスも
アリスが探しているのは金目の黒猫だそうだ。
公園近くの家の生垣の下や、塀と塀の間、駐車されている車の下など思いつく限り探してみたが、猫の影すら見当たらない。大の男がキョロキョロしながら住宅街を歩いているとやはり不審に見える様で、通りすがりの人に思いっきり変な目で見られた。
知人の猫を探していて、と言うとほとんどの人が心配していろいろな情報を教えてくれたが、残念ながらどれも空振りだった。
日が暮れてきたので、一度公園に戻ることにした。猫を探す為にしゃがむことが多く、慣れない姿勢で痛む腰を
公園で遊んでいた子供達は帰った後の様で、その隅でアリスが一人で立ち尽くしていた。
「アリスさん?」
そっと後ろから声を掛けると、アリスは小さく肩を跳ねさせてそろそろと振り返った。
「ごめん、猫見つからなかった……」
「いえ……ありがとうございました」
幸成が謝ると、アリスはゆっくりと深く頭を下げ、そのままその場に
「大丈夫?」
驚いて幸成も一緒にしゃがみこんで様子を
「私、あの子に、なんで私ばっかり、って。母さんを捨てた父が今もどこかでのうのうと生きてるのが許せない、私と同じ目にあえばいいのに、って言っちゃった……」
絞り出す様なアリスの言葉に、幸成は息を
「その話をした後、あの子は、姿を見せなくなった。魔女と、先生の話を聞いて、もし、あの子が私の願いを聞き届けて父を呪ったのなら、あの子は……」
呪いは呪った者に返る。
強力な呪いほど跳ね返る力も強く、腕のいい術者ほどそれを防ぐのもうまい。
だが、自分の実力以上の呪いをかけた場合、跳ね返った呪いに殺される。
この場合はどちらが呪いをかけたことになるのだろうかと幸成が考え込んでいると、アリスが両手で口元を覆う。
「え……?」
アリスの戸惑った声に考え込んでいた幸成が顔を上げた。
両手と
「アリスさん!?」
幸成は血で窒息しない様にアリスの体を横向きにしながら、ポケットに入れていたスマホを取り出して119番に電話を掛けた。
救急車で近所の病院に運び込まれ、アリスはなんとか一命を取り留めた。処置を担当してくれた医師の説明によると、食道からの出血だったそうだ。
止血もできたのでこれから快方に向かうだろう、と説明されたが、おそらく数時間経てば八城の様に別の場所から出血する。
手をこまねいている間に事態は悪化してしまった。もう、猶予はない。このままでは八城もアリスも死んでしまう。
幸成はベッドの横の簡素な椅子に座り、眠っているアリスの顔を静かに見つめて考え込んでいた。
どうすれば、彼女の命を、心を救えるのか。
幸成は人を呪いたい、殺したいと思ったことはない。だから、アリスの気持ちを理解することはできない。
幸成にとっては生きることこそ幸せだ。だが、そうでない人も確かにいる。果たして、自分のエゴを彼女に押し付けてしまっていいのか。
答えのない問いを繰り返し続けていると、アリスの
「アリスさん、気分はどうですか?」
「…………ここは?」
幸成の問いかけには答えず、アリスは目だけを動かして周りを観察する。
「病院だよ。うちの病院じゃないけど」
「そう」
答えを聞くと、アリスはふぅ、と小さく息をついた。
「私はいつ死ぬんですか?」
恐れも、悲しみもない声音で、アリスは静かに幸成に問いかけた。
「……このままならそう長くはないと、思う」
誤魔化すかどうか迷ったが、幸成はありのままの事実を伝えた。おそらく誤魔化しても彼女は気付くと思ったから。
幸成とて下っ端とはいえ医師だ。多少の腹芸はこなせるつもりでいる。でも、そんなものこの娘は
「父親を恨む気持ちも分かる。でも、自分が死んだら意味がないと思うんだが……」
悩みに悩んで口にした言葉は、幸成の想像以上に安っぽいものになってしまった。
アリスには全く響いておらず、感情の読めない
数秒の沈黙の後、はあ、とアリスが息を吐き出した。
「私より恵まれているあなたに、私の何が分かるんですか」
相変わらず温度の感じられない声音で、淡々と話すアリス。幸成は黙って彼女の言葉にひたすら耳を傾ける。
「こんなこと間違ってるって、自分でも分かってますよ。でも、正しいことをしたって無駄だって知ってしまった。苦しい時、誰も助けてくれないって、知ってしまった。だから、たとえ自分が死んでも、私や母を不幸にしたあの男に、不幸のほんの端きれでも思い知らせてやりたい。私には、もうそれくらいしか自分で選べる道がないんです。なんでも選べるあなたとは違う」
幸成は
空気が足りない金魚の様に、口を開いては閉じて、を何度も繰り返す。
話しても、話さなくても、何も変わらないのかもしれない。
それなら、
「……生まれた環境も、親も、変えることはできない。でも、過去は変えられないけれど、未来だけは変えられる可能性がある。生きてても幸せになる保証なんてどこにもない。でも、死んだら、可能性はゼロだ。そこにあるのは死だけだ。生きてたら、どれだけ可能性が低くても、ゼロにはならない」
幸成の言葉に、アリスは力なく悲しそうに笑った。
「先生みたいに、未来を信じられる人間ならよかったのに」
幸成には見えている未来の可能性が、アリスには見えていない。
何かを信じられるのは、それが報われると知っている人だけだ。報われたことが少ないアリスが、未来の可能性を信じることができないのは無理もない。
同じ医師でも経験を重ねた医師なら、女性の医師なら、幸成以外の誰かなら、彼女を救えたのかもしれない。幸成は頭の中でいくつもの「もしも」を重ねる。
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