08

 学園には人目につきづらい場所が何か所かある。時に生徒はそこをサボりのスポットや秘密の交渉場所に利用する。

 屋上に続く階段の踊り場もその一つである。屋上に出る扉は施錠されており、一般生徒は外に出ることもできないのでそもそも寄り付くことも無い。

 加えて今は大会中であるので、なにかから隠れる事情のある生徒もいない。

 そんな場所に、逢坂琢磨と由良川要の姿があった。

 この後決勝戦で相見える二人である。互いにパートナーを伴わず顔を合わせているという状況が奇妙な雰囲気を醸し出している。

 琢磨もその異質さを感じ取っており、緊張した様子で対峙している。一方の由良川はいつものように無表情で、なにを考えているのか外面からは察することができない。

「決勝進出おめでとうございます」

「いいよ、そういうのは。あんたに言われても嫌味にしか聞こえない」

 社交辞令の言葉を邪険に払い除ける。皇帝ペアは危なげなく決勝進出だ。彼らに祝福されても嬉しくない。

「それより本題はなんだ? わざわざこんなところまで連れてくるだけの理由があるんだろう」

「では単刀直入に言います」

 要は琢磨に真っ直ぐな視線を飛ばす。少年は固唾を飲んでその言葉を待った。

「次の決勝戦、我々に勝ちを譲って頂けませんか?」

「…………は?」

 一度その言葉を受け止めて、頭の中で反芻してもう一度よく考えてからやっと出たのが疑問の声だった。

「待ってくれ。意味が分からない。勝ちを譲ってくれだと? あんたたちは今、一年の中で一番強いんだろ? なんで俺にそんなことを頼まなくちゃならないんだ?」

「念には念を、です。万が一にも慧人様があなたに負けるわけにはいかないのです」

 ――慧人『様』?

 琢磨は、要の慧人に対する呼称に疑問を抱いた。それはまるで従者が主君にとるような態度ではないか。

 しかしそれよりも気になることがある。

「負けるわけにはいかない? どんな理由でだ?」

「慧人様が学年間のヒエラルキーを覆そうとしているのはご存知ですか?」

 そういえば小耳に挟んだことがある。あれは彼の強さに周りが便乗して勝手に言っているものだと思っていたが、どうやら本人もまんざらでもないようだ。

「この学園は実力主義です。強いものが是とされ、弱者は文句を言うこともできない。それはあなたも重々承知だと思います」

「まあ、身をもってな」

「その格差は当然ながら学年間にも生じます。一年間の経験値の差がある以上、下級生が上級生に勝てる事例は多くありません。よって一年生は抑圧された学園生活を送ることになるのです」

 口には出さないが、そういった彼らの捌け口になっているのが琢磨のような生徒たちなのだろう。弱者は自分より更に弱い者を虐げる、悪しき社会性が生まれれるのだ。

「それを帝塚山は変革しようって言うのか?」

「はい。一年生であっても上級生に勝てるのだという機運が高まれば、抑圧されるだけだった者たちも立ち上がるようになる。ひいてはそれが学年全体の実力の向上に繋がるのです。『皇帝』などというこっ恥ずかしい渾名を甘んじて受け入れているのも、上級生からのヘイトを一身に引き受けるためです」」

 言いたいことは分かる。

 それはずっと琢磨が抱えていた問題だったからだ。

 弱いから疎まれる。

 弱いから迫害される。

 しかし、大会に出て勝利することで、その環境が少し変わりつつある。環境を変えるためには勝たねばならない。少なくとも、勝とうという気概を持たなければならない。

「あいつが大層な志をお持ちなのは分かった。だが、俺達が負けてやる筋合いはないはずだ」

「ええ。筋合いはありませんね。ですが、慧人様の願望を果たすためには圧倒的な強さが必要なのです。間違っても、昨日まで無勝のあなたのような者に負けることはあってはならない」

「だったらそれこそ実力で掴み取れ。それがこの学園のやり方だろ? 俺には俺の、負けられない理由ってものがあるんだ!」

 相手がどんな大きな野望を抱こうとも、その決意は揺るがない。学園に残り、自分の夢を果たすため。琢磨はその為に戦っているのだ。

「――はい。存じております」

 その静かな口調に、琢磨は寒気がした。

「この大会の成績次第で、学園に居続けられるかどうかが決まるんですよね? 逢坂琢磨、さん……?」

「な、なん――」

「どうして私がそのことを知っているのか、疑問のようですね。理由は簡単です。私の父が学園の執行役員の一人だからです」

「!」

「とりわけ父は特待生の選定について一定の権利を有しておりまして。ええ、あなたの待遇についても迷っておられるようでしたよ」

 妙に含みのある言い方で要は告げる。

「私にも意見を求めてきたほどです。『逢坂琢磨とはどんな生徒だ?』と。その時私は『よく知らない』と答えたのですが、私の回答如何によってはあなたへの決定にも影響があるかもしれんませんね」

「……どういう意味だ?」

「取引をしませんか、逢坂琢磨? あなたが私の要求を受けてくれれば、私は父に『逢坂琢磨は学園に必要な人材だ』ということを打診します」

「そ、れは……」

「悪い条件ではないとは思います。既に若獅子戦準優勝の実績はあるので不真面目という評価は取り下げられるはずです。そこに私が一言口添えすれば、特待生としての優遇の継続も前向きに検討されるはずです」

「あんたの要求っていうのは……」

「はい。決勝戦で私たちに勝利を譲る、です」

 結果最初の言葉に戻ってきた形である。

 しかし状況は先程と大きく変わっていた。彼女の言葉にどれだけの信憑性を見出せるのかは疑問の余地はあるが、あり得ないと断言することもできない。

 そも、琢磨が現状、特待生の扱いを受けられなくなることと、それによって学園に居続けられなくなるという内情を知っていなければこの提案をすることもできないのだ。

 おそらくその事実を知っている生徒は琢磨と水菰だけのはずである。あるいは茨木が他の生徒にそんな事情を口外していればわからないが、そんなことを彼女がするだろうか。行動の読みづらい人ではあるが、意味も無くそんなことをするような人間ではないだろうと琢磨は信用している。

 ならば、彼女の父親が学園に影響力のある人物だという言葉も、ある程度の説得力を持つ。その父に一言言える立場であることも。

「逢坂琢磨。あなたが大会に出た理由はなんですか? 特待生の優遇を維持し、学園に残ることだったのではないですか? ならば私が、その助力になれるかもしれません」

「…………」

 彼女の言葉にも一理ある。

 確かに、琢磨の目標は学園に残ることだ。その為に大会を優勝する必要があると判断したからそれを目指すのだ。

 しかしそれは確約ではない。

 誰も『大会に優勝すれば特待生の扱いを継続する』と約束したわけではない。そうなるのでは、という希望のもと彼は戦っているのだ。

 そうであるならば、彼女の提案に乗り学園に口添えしてもらった方がむしろ、学園存続の希望があるのではないだろうか。勿論、彼女の提案にしても保証はなにもないのだが。

「仮定の話をしましょうか」

 考えを纏めている琢磨に、要が告げる。

「あなたが私の提案に乗らず、そのまま大会に優勝してしまった場合、夢破れた私は腹いせにあなたの評価を貶める申告を父にするかもしれません」

「……それは脅しか?」

「さぁ。あり得るかもしれない仮定の話をしたまでです。私がそう言ったところで、大会優勝者を特待生の座から降ろすことはないと判断されるかもしれませんし」

「…………っ」

 琢磨は口からこぼれそうになる怒りを抑えて、要を睨みつけた。彼女は怯むことなく真っ直ぐな視線を向ける。

 学園に残るために優勝を目指して戦って来たと言うのに、優勝をした結果として学園にいられなくなる可能性があるだなんて思いもよらなかった。

 しばらく静かな睨み合いが続いた後、要は一度溜息を吐いた。

「今すぐに判断しろとは言いません。ですが、提案に乗るつもりでしたら試合前にお伝えください。試合に負けてから『わざと負けたんだ』などと言われても取り合うつもりはありませんので」

 そう言って彼女はメモ帳とペンを取り出し、さらさらとなにか書き綴ったかと思うとメモ用紙を一枚破り琢磨に手渡す。

「私の連絡先です」

 受け取った紙には11桁の数字が並んでいた。

「良い返事を期待しています」

 それでは、と一度会釈して要は琢磨を一人取り残し去って行った。

 琢磨は紙切れを手にしたまま茫然と立ち尽くしていた。

 大会に優勝するのが、自分に残された唯一の手段だと思っていた。その一縷の望みに掛けてこれまで頑張ってきたのだ。

 しかし、信じて走ってきたその道が破滅に向かっているのだとしたら――。

「クソッ!」

 怒りのままに扉を殴りつける。

 琢磨は手の中にあった紙片を力任せにポケットに押し込むと、茨木の研究室に向かって歩き出した。

 食堂前で吉野と別れてから十五分も経過していた。そろそろ痺れを切らしてこちらに連絡してくるかもしれない。

 モヤモヤと胸に渦巻く不快感を抱えながら廊下を突き進む。

 研究室に辿り着いたところで、琢磨は一度扉の前で立ち止まった。

 先程のやり取りをなんと説明しようか。いや、説明するべきことだろうか。これまで一緒に戦ってくれた相手に、『わざと負けてくれ』なんてどんな顔をして言えばいいのだろうか。

 そうだ。選択肢など初めから無かったのだ。

 不安な顔をしていては何かを気取られるおそれがある。琢磨はできるかぎり普段通りの表情を取り繕ってから扉のノブに手を掛けた。

 その時中から声が聞こえてきた。

「――どうしてそれを早く言わなかったんだい!?」

 それは茨木の声のように聞こえた。これまで彼女と付き合ってきて、そんな慌てたような声は初めて聴いたように思えた。

 疑問に思いつつも、扉を開こうとする身体は止まらない。

 扉は開き、中にいた二人が同時にこちらに視線を向ける。腕を組んでいた茨木は一瞬視線を逸らした。水菰はいつもと変わらないように見える。

「や、やあ逢坂。遅かったねぇ。トイレ込んでたのかい?」

 取り繕った様子で茨木が言う。

「え、ええはい。個室がいっぱいでして、他の校舎まで探しに行きましたよ、ハハ……」

 ぎこちない作り笑いを浮かべながら部屋に入る。

「いよいよ次は決勝戦だからね。それも相手はあの皇帝ペアだ。私の評価も掛かってるんだから二人には頑張ってもらわないとねぇ」

「それで呼び出したんですか?」

「ま、そんなとこ。アドバイスの一つや二つできるかなぁと思ってたんだけど、私が思いつく程度のことは吉野ちゃんも把握済みみたいだし、ぶっちゃけ呼び出す必要もなかったんだよねぇ」

 なんだそりゃ、と琢磨は肩を落とす。

「まあまあ、技術的なことはともかくとしてさ、気持ちで負けたら駄目だよ。いくら相手が無敗の皇帝ペアだとしてもさ。ほら、君達二人もコンビ組んでからは無敗なわけじゃん」

「二試合だけですが」

「その二試合だって一年生の中じゃ実力者なわけだし、君たちの実力ならきっと皇帝ペアにも通用するはずだって」

「先生、ちょっと質問いいですか?」

「ん? なんだい?」

 琢磨は一瞬訊くべきか考えてから、質問を口にした。

「今、大会で決勝まで行ったわけじゃないですか。それで、俺の評価って変わったりしてないんでしょうか……?」

「そりゃあ。今までゼロに等しかった評価は覆るとは思うよ。でも君が訊きたいのはそういうことじゃないよね?」

 琢磨は頷く。

「今の状態で君が特待生除外を免れるかと言えば、正直私には分からない。それを判断するのは完全に別の管轄なんだよ。最初に君が特待生から外れると聞かされた時も、私は結論だけ言い渡された。だから正確な判断基準も私には推察するしかない。けど確実に言えるのは、準優勝よりも優勝の方が、判断が覆る可能性が高いということだよ」

「もし……、もしですよ? 今の状態で俺の特待生継続の確証が持てるのなら、無理をして優勝を目指す必要もないのかなぁって……」

 我ながら情けないことを言っている、と琢磨は思った。

 結局のところ、要からの提案が心の中でずっと尾を引いている。勝てるかどうか分からない。勝てたところで学園に残れるかは分からない。結局、一度下した判断を覆すことはないのかもしれないし、要が妨害策を講じてくるかもしれない。

 客観的に見たところ、学園に残るという目的だけを考えるならば、要の提案に乗るのが一番確率が高いのかもしれない。

 しかしそれを正直に水菰や茨木に打ち明ける気にはなれなかった。これまで一緒に戦ってくれた彼女たちに対し申し訳が立たないと感じたからだ。

 だからこれはアリバイ作りである。

 要に屈し、提案を受けることになったとしても、負けてもおかしくないモチベーションだったと二人に思わせるためである。あわよくば水菰に『本気を出す必要はない』と示唆する狙いもある。

 しかし、言葉を発してすぐ琢磨は後悔した。

「本気で言ってるのかい、ソレ?」

 明らかに怒気に満ちた茨木の言葉を浴びせられたからである。

「無気力試合はご法度だよ? もし発覚したら、特待生除外はおろか停学、悪ければ退学の可能性だってあるんだから」

「も、もしもの話です。それに無気力ってわけじゃないです。無茶や無理をしないっていう意味で――」

「それじゃ駄目なんだ!」

 ダンッ、と茨木は自分の机に拳を振り下ろす。

 明らかに様子がおかしい。こんなに激昂する彼女を、琢磨はこれまで見たことがない。

「な、なんですか? いや俺だって優勝できればその方が良い……ですよ。それともなんですか、俺達が優勝できないと先生の評価に関わると言うんですか?」

「違う、そうじゃない……!」

「じゃあ、なんなんですか!?」

「優勝しないと、吉野ちゃんが学園にいられなくなるんだよ!」

「…………は?」

 思いがけない言葉に、琢磨は一瞬思考が停止する。

 ――吉野が学園にいられなくなる?

 なんの因果があってそんなことになるのだろう。彼女は、琢磨の事情とは無関係に大会に出場してくれたのである。

 本来ならば、自分達が優勝しようがしまいがどちらでも良かったのではないのか。

 大声を放った後、茨木は「しまった」とでも言いたげに自分の口を手で覆った。

 状況が掴めず琢磨は水菰に視線を飛ばす。彼女は気まずそうな表情をして視線を逸らした。

 一瞬のことだった。

 茫然とする琢磨を後目に、水菰は脱兎のごとく部屋から飛び出して行った。

「逢坂! 彼女を追ってくれ!」

「え!?」

「話は後だ! とにかく追いかけてくれ!」

「は、はい!」

 返事をして琢磨も研究室を飛び出した。

 右を見る。いない。

 左を向くと競技用の運動服を着た小さな背中が走り去るのが見えた。琢磨は駆け出す。廊下は走ってはいけないなどと言ってる暇はなかった。

「クソッ。意外と足速いな……!」

 琢磨もそこそこ足の速さには自信があったが、それでも距離が縮まる気配が無い。彼女もデュアリングプレイヤーの一人として平均以上の身体能力を有している証左であろう。

 校舎を飛び出し通路を走る。他の生徒や来客が何事かと視線を寄越す。琢磨自身も何事かと問いたい気分だった。

 水菰は人目を嫌ったのかだんだんと人のいないところへ向かっているようだ。

 辿り着いたのは特殊課目棟の校舎裏。周囲に人の気配は一切無い。そこは袋小路になっていて、彼女は諦めたように足を止めた。

「なんで、逃げるんだよ……?」

 少し離れたところから肩で息をしながら琢磨は水菰の背中に問いかけた。

 彼女はゆっくり振り返る。同じように息が切れているが、表情は普段と違うようには見えない。

「追いかけて、くるから……」

「いや先に逃げたのそっちじゃん」

 まるで琢磨が悪いかのような言い草である。

「えーと、なんだっけ? 訊きたいことあったのに忘れちゃったじゃん」

 追いかけるのに夢中になってその前のやり取りの記憶が朧気になってしまっていた。

 息を整えつつ記憶を呼び起こす。

「ああそうだ。学園にいられなくなる、ってどういうこと?」

 疑問に対し、彼女は眼を伏せた。先日食堂で見せた空気の一端を感じさせる。

「言いたくないなら、いいけど……」

「……ううん」

 水菰は一度首を横に振ってから、決心したように琢磨と向き合う。

「逢坂くんは一緒に戦ってくれた。ちゃんと、話さなきゃ」

「…………」

「なにから話そうかな。そうだ、私が二ヵ月も登校が遅れた理由、気になってたよね? あれ、家庭の事情なんだ」

「家庭の事情」

「端的に言えば、私は母からデュアリングをすることを反対されていたの」

 その言葉に琢磨は違和感を覚えた。反対するもなにも、彼女は中学生のときからデュアリングに触れていたのではなかっただろうか。

「当然、この学園への入学も反対された。でも私は簡単に諦めることができなかった。父の助けを借りて、私はこっそりこの学園に受験して、合格した。でも入学直前ってところで母に気づかれた」

 彼女は自嘲するような笑みを浮かべる。

「ずっと隠し通せるとは流石に思ってなかったけど、あんなに早く見つかるなんて思いもしなかったなぁ。そこから家族で緊急会議。この学園に通い続けるか転校するかの大激論。気が付いたら二ヵ月も経っちゃってて、お互いどれだけ意地を張ってたんだろうね」

「でも、学園には通えるようになったんだろ?」

「条件付きで、ね」

「条件……」

「絶対に通わせたくない母は無理難題を提示した。即ち、『四校大会』に出場し、優勝すること」

 デュアリングが行える高校は国内に四校しかない。その四校が一堂に会し、それぞれの代表選手が鎬を削る国内最大級の大会――それが『四校大会』である。高校野球に例えるならば夏の甲子園のような位置づけに当たる。

 つまり母の条件は、野球を続けたければ甲子園に優勝しろというようなものである。もっとも、大会規模も競技人口もまるで違うので単純な比較にはならないが。

「四校大会に出場するにはまず校内の選考戦を勝ち抜かないといけない。選考戦に出場するには学年の中で上位の成績を有していなければならない。入学から最初の二ヵ月を棒に振った私の残された道は、若獅子戦に優勝する他なかった」

「…………」

 琢磨は、告げられた理由のスケールの大きさにたじろいだ。『四校大会』の存在は知っていたし、出場してみたいという気持ちは持っていた。しかし、それはどこか遠い存在にも思っていたし、現状においてそんな希望は持つことさえ許されないと思っていた。学年ごとに出場枠があるとはいえ、その枠に自分が入れるなんて思ってもいなかった。

 だが目の前の少女はその目標を恥ずかしげもなく掲げた。無理難題ではあるが、必死に努力し続ければ達成しうる目標だと信じているのだ。

 琢磨は今目の前の若獅子戦に優勝できるかどうかで頭がいっぱいだった。それで彼の今後が決まるのだから無理もない。しかしその若獅子戦でさえ、彼女にとっては越えるべき前提の一つでしかない。

「優勝できないと、どうなる?」

「完全に望みが断たれるわけではないけれど、自力での選考戦出場はほぼ不可能になるかな。選考戦への出場が果たせなければ、その時点で私の転校が確定」

「……なあ、訊いてもいいか?」

 少年は静かに問う。

「あんたの母親がそこまでデュアリングを反対する理由。そしてあんたが、その反対を押し切ってまでデュアリングを続けたい理由を」

 一般にはデュアリングを危険視する声があるのは事実だ。競技中は安全とはいえ、人を攻撃するゲームは日常生活にも悪影響を及ぼすのでは、という意見だ。より端的に言えば、競技外でも人を襲いかねない攻撃的な性格になるのではという懸念である。

 しかし彼女の口振りはどうもそういったある種月並みな理由ではないようだ。彼女の家庭だからこそ生じる心配事があるはずなのだ。

 水菰は慎重に言葉を選ぶ素振りをしてから、口を開いた。

「それは、母が弟――私からすれば叔父にあたる人物を失くしたから」

「亡くなった……。デュアリングの所為で……?」

「直接的な要因はデュアリングじゃない。でも母は、デュアリングを憎むようになってしまった」

 それはなぜか。

「叔父はプロのデュアリングプレイヤーだった」

「叔父さんが……?」

「うん。叔父はある大会で大きな活躍をした。それからは日本でもデュアリングという競技が認知されるようになった。当然叔父にも期待が集まった。けど、その後は成績も振るわず、不幸なことに難病を患い、治療も虚しく彼は命を落としてしまった」

「ま、待ってくれ。それって……」

 なにかに気づいた琢磨は動揺を見せる。

「その人の名前は、守山遼真」

「……!」

 雷に打たれたような気分だった。守山遼真は琢磨がデュアリングのプロプレイヤーを目指すきっかけになった憧れの選手である。その強烈な印象は、今も琢磨の夢を象る一要因となっている。

「亡くなっていたなんて……」

「去年のことだよ。騒がれるのを嫌ってあまり口外してないみたいだけど。もうじきに報道されるようになるかも」

 遠くを見るような目線で水菰は言う。

「病気も死も、デュアリングとは直接関係はない。けれど叔父やその周囲はデュアリングに振り回されることになった。あの試合をきっかけに連日押し寄せる取材、高まる期待……。でも結果が伴わず難病に罹り現役を退くと、またも取材が押し寄せる。尋ねられるのは決まって、日本のデュアリングのこれからについて。本人は最期まで、競技への復帰を夢見ていたけれども、そういった姿勢が反って周りからは競技に取りつかれていたように見えたのかもしれない。それが身内なら、尚更……」

「でも、吉野はそうは思わなかったんだろ?」

 こくり、と水菰は頷く。

「私は叔父についてはプロプレイヤーだった頃からしか知らない。デュアリングを知るきっかけになったのは叔父だし、私が中学生ながら競技に関わることができたのは叔父のチームメイトのお陰だった。彼の入院中には何度かお見舞いにも行った。彼は前向きで、いつかまた世界の舞台で戦いたいと私に話してくれた。そんな姿に、私はネガティブな感情を抱かなかった」

 そこまで印象が変わってしまうものなのだろうか。

 母と娘。片や弟。片や叔父。見る視点によって真逆と言っていいほどデュアリングに対する思いがかけ離れてしまっている。

「私がまだ子供だからなのかもしれない。私と会う時の叔父は、努めてネガティブなところを見せまいとしていたのかもしれない。いい意味で叔父は、私にとって遠くの存在だったから」

 親戚とは言え、相手は国際大会にも出場するプロのプレイヤーである。琢磨も、彼のことはテレビの中継で目にしたのだ。自分からかけ離れた存在に感じても無理もない。

「じゃあ、あんたがデュアリングを諦めきれないのは……」

「叔父の……守山遼真の夢を引き継げるのは私だけだと思ったから。彼が切り拓いた道を進むことで、彼がいた証を実感することができるから」

「その話は、母親には……?」

「した。けど、平行線のままお互いに意見は変わらなかった」

 だからこその現状である。二か月間の説得を経て、彼女は条件を取り付けることに成功した。それは実現困難な条件ではあったが、彼女に残された確かな道であった。

「『どうしてそれを早く言わなかったんだ』か……」

「え?」

「その話、茨木先生に話したのもついさっきなんだろ?」

「う、うん……」

 それで合点がいった。茨木のあの同様具合は普通ではなかった。それもそのはずである。二ヵ月遅れてやっとこさ登校してきた教え子が、大会優勝を逃せば転校させられるという条件を引っ提げてきたのだ。

「俺も驚いた。あんた、大会中も平然としてて気負ったところなかったから……」

「それは……、逢坂くんに私の事情を重荷に感じて欲しくなくて……」

 彼女なりの気遣いだったようだ。確かに、大会開始時に同じ話をされていたら琢磨は身が竦む思いをしていたかもしれない。自分の参加する試合で、パートナーの今後が決まるのだから。

 いや、それを言うのであれば彼女にとっても、琢磨の持つ事情は看過できないものだったのではないだろうか。

「だからこそ、か」

 思い出す。そもそも、若獅子戦で優勝すれば琢磨への評価が変わるかもしれないと言い出したのは他でもない水菰である。

 最初は、他人の事情にどうしてそこまで親身になれるのかとも考えたりもしたが、彼女はそれ以上に重大な事情を抱えていたのである。

 彼女は大会参加にあたって、『勝たなければいけない事情を持つ生徒』を必要としていたのだ。

「さっき逃げ出したのは……」

「合わせる顔が、無かったから」

 少し顔を伏せて彼女は言う。

「私は、あなたの事情に付け込んで、あなたをそそのかし、利用しようとした。私は善意であなたを助けようとしたんじゃない。私は私自身の利益の為にあなたに戦う理由を押し付けただけ」

 水菰は、そのことにずっと罪悪感を抱き続けていた。状況的には琢磨を騙し利用していたに過ぎない。事情があるからと許されるものではないと、自分を咎め続けていた。だからこそ、それが発覚しそうになると、逃げださざるを得なかったのだ。

 琢磨は一度大きなため息を吐く。

「あのなぁ、利用するなんてお互い様だろ?」

 それから呆れたようにそう言い放った。きょとんとした様子で水菰が顔を上げる。

「俺もあんたを自分の事情で利用してたんだ。きっかけはあんたかもしれないが、優勝のためにあんたの力が必要だったのは違いない。大体人間ってのは打算なり見返りなりがあって協力し合うもんじゃないのか? 百パーセントの善意なんて信じられるかっての。それにあんた、ちゃんと理由を言ってただろ。『大会に優勝できれば自分の評価も上がる。これは自分のためだ』って。隠された事情はあったにせよ、それは嘘偽りない真実だろ」

「で、でも……」

「こうして話してくれただけで充分だ。正直言うとな、俺はついさっきまで優勝なんかしなくてもいいんじゃないかって思いかけていた」

 由良川要が提示した取引に、一定の価値を見出したのは事実である。本当に彼女が口添えをしてくれるなら、優勝するよりも学園存続の可能性があるかもしれないのだ。

「けど気が変わった。その話を聞いた後じゃ、優勝を目指さない選択肢は無ぇよ」

「え……」

「打算があったかもしれないけど、俺にとってあんたは諦めるしかなかったかもしれない夢に、道を与えてくれた恩人だ。だから今度は、俺があんたの夢の道筋を作る番だ。そしてなにより、その道は守山遼真の夢に繋がってるんだろ? だったら俺も、その夢を追いかけてぇよ」

 守山遼真は琢磨にとって憧れとも言える存在だった。度重なる不幸により、彼の夢は果たされることは無かったが、その夢を引き継ぐ存在が目の前にいる。そしてその力の一端に、自分が関わろうとしているのだ。

 ――ああそうだ、すっかり見失っていた。

 己が学園に居続けたかった理由。それこそ、諦めたくない夢がここにあったからではないか。決して諦めず強大な相手に立ち向かって行った、守山遼真のように。

 あの日見た雄姿を、自分の中に見出すために。

 学園に残らなければならないという思いから、根本的な動機を見失ってしまっていた。由良川要の提案に乗って、勝負を放棄し彼女の力に縋って学園に残っても意味がない。それは、かつて彼が憧れた姿には相応しくない。

 彼の夢は、自分の力を信じ諦めずに戦い抜いた者だけが到達できる領域なのだ。

 ならば琢磨にも、戦う理由は充分にある。

「勝とう、吉野。俺達ならやれる。優勝して、夢を未来に繋ぐんだ」

 琢磨の中で迷いが消え去った。

 学園に残る為ではない。かつて抱いた理想の姿に近づくために、夢を諦めない自分になるために戦うのだ。

 そして同じように夢を追い求める水菰。憧れの人物の夢を引き継ぐ彼女の力になるために――。

 例えその結果として学園を去ることになっても構わない。

 諦めずに戦い抜いた、憧れた理想の姿を貫くことができたのならば――。

「吉野」

 少年は手を差し伸べる。かつて少女がそうしてくれたように、握手を求めた。

「改めて、これからよろしく」

 初めてパートナーとして交わした握手。あの時とは状況も心境も大きく違っていた。

 今はお互いの戦う理由が明確で、なにより追い求める夢を共有していた。パートナーとしての信頼が高まったという確信があった。

 少し戸惑いの素振りを見せた水菰だったが、やがて決心して差し伸べられた手をとった。

「こちらこそ、よろしく」

 最初は打算だったかもしれない。

 体よく相手を利用しようとしていたのかもしれない。

 しかし琢磨は、そんな彼女の内情を知った上で一緒に戦うと言った。それは彼女の夢を追う姿に、自分を重ねたからに他ならない。

 そうして。

「…………えへ」

 信頼に足るパートナーと握手を交わした水菰は、今までに見せたことのないような表情ではにかんだ。

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