シシノト
「だから、シシノトだよ、シシノト!」
役所の治安警察部で重要参考人として呼ばれたハクタカは、シバとハグムに連れられて、一連の事件の証言をしていた。
その扉の向こうで、二人きりになったシバは、ハグムにそう叫んでいた。
シシノト<成人祝い>。
ヨナ国では、男女共に十八歳になると成人として扱われる。
親や親族から、女には良家へ嫁ぐことができるよう祈り、豪華な『簪』を、男には将来安泰を願い、『職に使用する道具』が送られる習わしがある。
文官なら筆、武官なら剣や槍、農民なら鎌や鍬と言った感じだ。
「ハクタカももう十八だ。俺から剣を送ったっていいじゃねえか」
「剣のことだけではない、なぜあのような剣術を身につけたか、と聞いている。おかしいと思ったのだ、ユノ殿から聞いた時から…それに、あの剣…」
「いや、だからそれはあれだ、その」
シバが答えに窮している時、ちょうど、証言部屋の扉が開き、ハクタカは言った。
「先生、俺がシバに剣術を学びたいと頼んだのです」
「は、ハクタカ…」
シバがハクタカの方を、振り向いた。
「ごめん、シバ。これ以上シバに迷惑かけられないや。……先生、シバは俺の頼みを聞いてくれただけです、責めるなら俺を責めてください」
ハクタカはまっすぐハグムを見据えた。
血まみれの、精悍な顔が、そこにはあった。
漆黒の瞳が、鋭く光っていた。
それを見たハグムは、間をおいて、重くため息をついた。
「今日はもう、帰りなさい」
それだけ言って、シバと役所の奥に消えていった。
ハクタカに首を切られた黒ずくめの男は死んだが、大腿と背を切られた男は生きていた。
男は役所で尋問を受けたが、なぜ軍事部の人間を襲っていたのか、自身は何者なのか、一切口を割らなかった。
そして、最期は兵の目を盗んで獄中で舌を噛み切って死んでいた、と一連の事件の結末を、ハクタカは後日シバから聞くこととなった。
「相当な手練れだった。俺の部下も二人重症を負ったが、致命傷ではなかった。おまえのおかげだ。ありがとうな」
「……」
ハクタカは家の座敷で両膝を折り、肩を縮こませ、目を伏せていた。
「何も聞き出せなかったってのは痛いな。ちっ、あいつら、現場をみせてわざと俺らに単独犯だと思わせた。用意周到だぜ」
「……」
「ハクタカ」
「……」
「ハクタカ!」
「あ、え、なに?」
無言だったハクタカは、やっとシバの声に反応し、顔を向けた。
シバはふう、と息を吐いた。
「…怖かったか」
シバはハクタカに聞いた。
「……うん」
ハクタカは、ぎゅう、と左拳を握った。
「おまえは、手を出すなと、あれほど言ったろう」
「…ごめん」
ハクタカは顔を伏せた。
シバはあぐらをかき、がしがし、と自身の頭を掻きながら、ハクタカを見下ろした。
「もう、嫌になったか」
「え?」
「剣を振るうということは、そういうことだ。おまえには、そういう話はもう少しゆっくり教えるつもりだったが。ハグムにもあの後、こってり絞られたよ。おまえが、もう嫌だってんなら、あの剣は返してもらって構わない」
多少の間はあったが、ハクタカはきっぱり答えた。
「いや、だ」
「あ?」
「怖かった。けど、後悔はしてない。何度、あの夜に時間が巻き戻ったとしても、俺は先生の命を守るために、剣を振るったと思う」
泣きそうなのを堪えてこちらを見るハクタカを見て、シバはハクタカの左肩に大きな手のひらを置いた。
「そうか」
とだけ、シバは短く答えた。
ハグムはエナンの国の状況を鑑みて、エナン国との戦争が間近であることを悟っていた。
ヨナ国最南端の村近くに、エナン国の兵を見かけるという報告も政府に入っている程だ。
ハグムは役所の自室の椅子に座り、大きくため息をついた。
やるべき仕事は山ほどあるのに、全く手をつけられないでいた。
考えるのはすべてハクタカのことであった。
あの日見たハクタカの剣術は、シバに鍛えられただけあって、相当な実力だった。
ハグムは、あっという間に目の前の黒ずくめの男が倒れたのを思い出していた。
ただーー
(あの時、君は泣いていた)
(私のせいで、君の手を、血で汚してしまった)
ハグムは自責の念にとらわれていた。
なぜ、剣をとったのだ。
君は女だ。
どうして、剣の道など。
あの事件の後、ハグムはハクタカと別れると、シバを激しく責めたてた。
しかし、言われた。
おまえを守るためだと。
そう、強く願われたから教えた、と聞いて、ハグムは何も言えなかった。
(なぜ君は、そこまでして私を)
両肘をつき、額を拳につけて、ハグムはぐっと堪えるように下を向いていた。
黒ずくめの男たちが死んだことでいくらか警戒は解いたものの、ハグムは外を歩く時は慎重だった。
仕事上、どうしても外出しなければいけない日はある。
今日は街の近くでの仕事であったため、終わり次第すぐ、役所に向かう予定であった。
ハグムはいつもどおり、日差し帽を深く被り、店の通りを人の波に揉まれて歩いていた。
「失礼」
街歩きで珍しく人とぶつかってしまったハグムは、ぶつかってしまった人間に一礼して歩き出そうとしたその時、左手に色鮮やかな、女ものの簪を売る露店に目が行った。
ハグムは自然と目を奪われ、店の前に立ち、ぼうっとその色とりどりに見惚れた。
(シシノト…か)
この間シバが言っていた、その言葉が浮かんだ。
「お兄さん!彼女に一個どうだい?」
快活な太めの中年の女が、露店からハグムに声をかけた。
「あ、いや私は」
ハグムは右手を挙げて、一歩下がると
「迷ってんのかい?じゃあその子の特徴を教えておくれ。私が良いのを見繕ってやるよ」
店の女はハグムに笑って問いかけた。
「特徴…」
ハグムは、その言葉を聞いて、心の奥底から何かが込み上げてきた。
「…私に何も相談せずに自分勝手に決めて、強情で!意地っ張りで…!」
ハグムは堰を切ったように早口で、怒りをぶつけるように不躾に言葉を発したが、途中で口をつぐんだ。
まだ幼かったハクタカの傷だらけの腕、チボを世話する姿、泥棒が来た直後の苦しそうな顔、料理を振る舞う笑顔、そして、剣を振るって敵に挑む後ろ姿。
ハグムは思い出していた。
ハクタカとの日々をー。
(…いや、違う。君は…自分ではない誰かのために、苦しくとも辛くとも君の運命に逆らってでも、足掻いて、強くあらんとする)
「お、お兄さん?あの、彼女の顔の特徴をきいているのですが」
女の声を聞き、ハグムははっと我に帰った。
「あ、ああ、顔は小さく色白で…漆黒の瞳と髪で」
いつのまにかハクタカの顔の特徴を言っている自分がいたことに、ハグムは女に説明した後に気づいた。
「これなんか、どうだい?」
女はにっこり笑って、紅い簪を手渡した。
「彼女の顔に、きっと、映えると思うよ」
それはまるで燃え上がるような、夜明けの、太陽の色だった。
「……そうか、そんな強い君だから、私は…」
ハグムが簪を眺めながらそうつぶやくと、すかさず女は簪の料金をハグムに伝え、手で催促した。
帰路のハグムの手の中に、紅い簪が、しっかり握り締められていた。
(流れで思わず買ってしまった)
手の中の簪を、ハグムはじっと眺めた。
店の女に金を出す直前に考えていたことを、反芻していた。
(私はさっき、何を言おうとした?)
途端、足早になっていた歩みを止め、口を覆い、ハグムはかっと赤面した。
あの日、シバと二人で酒を飲みに行った日。
ハクタカが女であるという事実を知り、ハクタカのことが頭から離れず、酒に酔い面白おかしく笑うシバから質問攻めに合い、思わず酒場から飛び出した。
だが、まだ飲み足りないとごねるシバにまた違う酒場にハグムは引きずられて行った。
その時、強い酒のせいで珍しく酔ってしまい、最後の方のシバとの会話の記憶がすっぽり抜け落ちていたのに、今になって思い出したのだった。
「四六時中、その女ひとのことを考えていると何だというんだ」
ハグムは前の酒場で言われ、気になっていたことをシバにぶつけた。
「あ?そりゃ、愛だよ、愛」
「……愛?」
ハグムは眉根を寄せ、黙った。
「……おいおいおい。おまえ、まさか、哲学的な難しいモンを考えてるんじゃねえだろうな」
シバがハグムの肩に手をのせ、ばし、ばしと叩いた。
「え?違うのか?」
「っかーーーーー。おまえはいっぺん、人生を獣からやり直した方がいいぜ」
シバが酒をぐびぐび飲み干す。
「失礼だな」
ハグムがシバを見やると、酒を飲み干したシバがにやりと笑みを浮かべて、言ったのだった。
「頭で考えるモンじゃねえ。体が先に動いているモンだ。気づいたら抱きしめてるような女を、おまえは死ぬほど好きってことだ。簡単だろ?」
隻腕のハクタカ @Chovisky
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