ハクタカ離れ

先生、これが財務部、こちらが文部、あと、それが軍事部へ送る書類です。まとめておきますね」


「ああ、ありがとう。いつも助かるよ」


ハグムの家に来て六年が経ち、ハクタカはハグムの休日には自分にできることがないかを尋ね、簡単な書類作成や整理を手伝っていた。

使用人という身分でも、読み書きできたのは有り難がった。

少しでもハグムの負担を減らすことができて、嬉しかった。

だがハクタカはそれ以外の仕事も手伝いたかった。

ハグムの仕事量をみると、これくらいの手伝いでは全然事足りない。

これ以上は仕事上機密事項だからと、ハグムは必要最低限の仕事しか与えてくれなかったが、それはもっともであった。


相変わらず休日でも机の前に張り付くハグムを見ながら、ハクタカはハグムの書斎を去った。

はあ、とハクタカはため息をついた。


世の使用人は生涯身体が動くまで使用人として働く。

その後は働いていた頃に貯めていたお金で過ごすものだから、世間の使用人は若い時は実質無給で働いているようなものであった。


ハクタカは子供の頃からここに居り、ハグムから金こそもらわなかったが、代わりに何不自由なく暮らせていた。

自分が普段使用する日用品や服などと言ったものは、十分だと言いたくなるくらい、ハグムは与えてくれたのだった。

だからこそ、ハクタカはハグムが与えてくれるものに見合う仕事をしたかったが、簡単な事務作業と家事しかできない自分に歯痒さを感じていた。

自分が文官の家系に生まれてハグムの仕事の手伝いをする、といった壮大な夢を幾度見たことだろうー。






ハクタカは書斎から便所に行くと、思わず身を固めて立ち尽くしてしまった。


(…きてしまった)


ハクタカは赤く染まった自身の下着を外すと、こっそり庭裏の洗い場の盥に突っ込むのであった。

ハグムの仕事は六年前よりもさらにその忙しさは増し、平日はもちろん、休日でも顔を合わせる時間は少なくなっていた。

しかし、それはハクタカによって好都合だった。

こうやって月のものが来て衣類が汚れてしまうと、毎回ハグムに隠れて洗い物をしなければいなかったが、日中さっと洗って干せば問題なかったし、膨らんできた乳房も、さらしをぐるぐる巻きにして胸にまきつけて隠していたが、ハグムがいない間や書斎にいる間はいくらか緩く巻けた。


着替えている最中にたまたまハグムが自分の部屋の扉を開けた時には心臓が破裂しそうになったが、勘付かれた様子も今まで全くなかった。

ハグムの目が弱視であったことに心底感謝したことも幾度かあり、おかげで平穏な日々を過ごせていた。






仕事を書斎で終え、あふ、と欠伸をして座敷に戻ってきたハグムは、盤の前でぶつぶつ言うハクタカを見つけると盤を挟んでハクタカの前に座った。


「難しい顔してどうしたんだ?」


「先生!あれ、お仕事は…」


「今日はもう終いだ」


「そうですか。アニクとの一戦を再現してたんです。負けちゃって」


「ほう。どれ」


ハグムに休日という休日はなかったが、それでも少し時間ができるとハクタカとのチャトランガに付き合ってくれた。

ハクタカはハグムとチャトランガで勝負をするようになってから、あの時のアニクの気持ちを痛感したのだった。

毎回、ハグムに全く歯が立たず、自信を一気に削がれ、ついには泣きそうになる。

コマを打っている途中、今日はもしかしたら勝てるかもしれない、と思ったとしても、何回か打つとあっという間にハグムの領地が倍になっていることがざらにある。

ハグムは毎回勝負を終えると、ハクタカの手のなかで、あの一手はよかった、と褒めてくれたが、ハクタカが渾身の一手を打ってもハグムが十秒以上口を止め、手の内を考えることはなく、自分がまだハグムの本気の相手ではないことが、ハクタカは悔しかった。

シバと剣で戦っている時は、一つ一つ剣を交えるごとに自分の力量の上達も感じられていたが、ハグムとのチャトランガでは、それが一切感じられなかったのだ。


少しでも上達したくて、ハグムの許可を得て、街のアニクたちの住む小屋に出入りするようにもなった。

初めこそアニクには負けっぱなしだったが、最近では、良い勝負ができるようになっていた。

一週間前にアニクに負けたチャトランガの譜面を、ハクタカは再現していた。


「ほら、こうするとアニクに隙ができる」


「!ほんとだ…」


ハグムはアニクの一手に対し、数通り打開策をハクタカに示してみせた。


「俺にはひとつも思い浮かびませんでした。やっぱり先生には敵いませんね」


「はは、そうかな」


悔しがりながらコマを回収するハクタカを見て、ハグムは静かに目を伏せ、ふと真顔になった。


「ハクタカ。チャトランガが好きか?」


「はい、もちろん」


はっきり答えたハクタカに、ハグムは躊躇いながら何も置かれていない盤の上を、すっと静かに手を滑らせた。


「…チャトランガはもともとは血気盛んな王が戯れで始めたものが起源だ。だが、本当の戦いというものはここにあるコマの兵だけではない。ハクタカ、この盤上の編み目には、多くの民…人間の命が在ることを、忘れてはいけないよ」



「はい。…?」


ハクタカは頷いたが、ハグムの苦しそうに呟いたこの言葉の意味が、この時のハクタカには、解らなかった。







「おい、ハグム。呑みに行こうぜ」


日が暮れた頃、シバが庭の廊下から、座敷に座っているハグムに呼びかけた。


「行かぬ」


夕食を終えたばかりのハグムは、調理場で皿を洗っているハクタカにちらりと視線をやると、そう答えた。


「んだよ、ハクタカだってもうガキじゃねえだろう。少しの留守くらい、いいじゃねえか」


「…しかし」


ハグムは眉根を寄せた。


「いつも思うが、過保護すぎるぞ、おまえ。いい加減ハクタカ離れしろや」


「べつに、そういうのでは…」


ハグムは不愉快そうにシバに弁明しようとしたが、辞めた。

シバの言葉が言い得て妙だったからだ。

ハグムは仕事をしていない時はできる限りハクタカと過ごしていた。

いや、過ごしていた、というより過ごしたかったというべきだろうか。

ハクタカの傍は居心地が良かった。

家事が完璧で家の中が快適だったというのはもちろんのこと、自分が仕事で疲れきって言葉少な時でも、ハクタカは不穏な空気とも思わず、ハグムを変に労わろうともせず、普段のままでいてくれた。

その上で、知らないうちに座敷で寝入った自分に布団をかけてくれたり、仕事にかかりきりで何も食べていない自分に、仕事をしながらでも食べられるように、と握り飯を書斎に持ってきてくれたりと、さりげない優しさを見せてくれた。

そして、顔を合わせた時にはいつも微笑みかけてくれた。

ハグムにとって、唯一自然体でいれる人間だった。

少ない休日でのハクタカとの何気ない会話が、仕事まみれの生活に潤いを与えてくれたし、目の前の屈託のない笑顔が癒しであった。

ひと昔は、シバと過ごす酒場もそれなりに楽しめた。

だが、ハクタカと過ごす時間は、どこぞの酒場に出かけるよりも、自分にとってずっと有意義な時間だということを、ハグムは自然と感じるようになっていた。


『ハクタカ離れしていない』、というのは実のところ、本当らしい。



「じゃあ、ハクタカ!お前も行くか?」


シバの急な提案に、ハグムはシバの方を凄い勢いで振り向いた。


「え?何?」


ハクタカが水で食器の洗い物をしていてシバの言葉を聞き取れず、聞き直すと、


「私だけ行こう」


ハグムがすかさず立って、シバに答えた。

ハグムはシバの提案に、わずかながら嫌悪感を抱いていた。

店の女たちにちやほやされて酒を飲まされるハクタカの姿を想像しただけで、ハクタカのありのままの存在が、何か、汚されてしまう気がした。


「…?」


ハクタカはシバの腕を引くハグムの背中を見送った。

あれ、いつもと逆だな、とハクタカは疑問に思った。

いつもなら、シバが先頭を切ってハグムを引きずって行く。

それを、毎回半ば諦めと呆れ顔で、ハクタカは見送るのが常であった。




近所の家も皆寝静まった頃だった。

自分の寝床に入ろうとしたハクタカは、ハグムはまたシバに付き合わされて遅くなるんだろうな、と苦笑いを浮かべていた。

すると、


「おおーい、ハクタカ!いるかー?」


シバの声が廊下に響いた。

ハクタカは飛び起きて、声のした玄関に向かうと、シバに肩を担がれぐったりとうなだれているハグムがいた。


「先生!?シバ、先生、どうしたの!?」


「いつもなら酔わねえ量なのに、なにやら仕事疲れが祟ったらしい。べろんべろんだ」


悪ぃな、と言っていつも通り真っ赤な顔で酒の匂いをぷんぷん漂わせているシバは、悪びれる様子もなくハグムをハクタカに預け、おぼつかない足取りで玄関から出ていった。


(もう…)


ハクタカは呆れてシバに物が言えなかった。


「先生、大丈夫ですか?水飲みます?」


「う…」


ハグムは気持ち悪そうに呻いた。


「い、いま寝室に運びますからね」


ハクタカは左手でハグムの左腕を持ちながら背負うようにして、ハグムを寝室まで運んだ。

寝室の扉を開いて、ハグムを横たえようとした時、ハクタカはハグムの重さで共に布団に転がるような形になってしまった。


「す、すみません、先生、だいじょ…」


ハクタカがハグムの胸の上に覆いかぶさってしまい、すぐ起きあがろうとした瞬間、ハクタカはその拍子に横臥になったハグムの腕の中に、すっぽりと閉じ込められてしまった。


「!!!」


動揺を隠しきれず、ハクタカはハグムの腕を振り切ろうとしたが、肝心の左腕が床にべったりついてしまい、身動きがとれない。


「せ、先生、一回起きませんか、一回起きましょう!?」


「…ん」


一瞬眉が動いたが、ハグムはそのまま寝入ってしまった。

ハグムの両腕はハクタカの胴をしっかりと抱きかかえてしまっている。

心臓の高鳴りを抑えきれず、ハクタカは何度かもがいたが、その腕の中からは逃げることができなかった。


(…少しだけ…なら)


ハクタカは自身の動きを止めた。

ハグムの寝返りや深い眠りで腕が解けることを待ったのだ。

ハクタカの目は、ちょうどハグムの口の前にあった。

綺麗に整った口が、少しだけ開いている。

ぴたりと張り付いた身体から、とく、とく、とく、とゆっくりと規則正しい心音が響いてきた。

顔を真っ赤にしていたハクタカだったが、その心音が自身のうるさく騒ぐ心音に混じって胸に響いてくると、つい目を伏せてしまっていた。




「……ん」


横顔に日の光を感じ、ハグムは目を覚ました。

頭痛がした。


(そうだ…昨日シバと酒を飲んで…)


ハグムが徐々に目を開いていくと、前に温かいものを感じた。


(ん?)


見えたのはハクタカの無防備な寝顔だった。


(!?)


互いの体が寸分なく密着していた。

ハグムは自身の両腕がハクタカの全身を拘束していることに気づいた。

ばっと腕を外し、ハグムは上半身を起こした。


(なにが、どうなって…)


ハグムは昨日の出来事を頭の中で必死に手繰り寄せようとしたが、何も思い浮かばなかった。

酒場を出てからの記憶がなかった。

隣から、静かな寝息が聞こえる。

ハグムはハクタカの顔を見下ろした。

ハクタカを、こんなに間近で顔を見たのは久しぶりであった。

見慣れた顔なのに、今日はやけに艶っぽい。

思わず手が伸びた。

その手が白い肌に触れると、触られた人物が身じろいだ。


(!)


ハグムはすぐ手を引っ込め、行き場を失った手を片方の手でさすりながら、立ち上がった。

調理場の洗い場に行き、ざあっと、頭から水をかぶる。

頭痛は少し落ち着いてきているようだった。

だが、ハクタカの寝顔が頭から離れなかった。

ハグムは、髪からぼたぼた滴る水が煩わしく、後ろ髪をぎゅっと絞った。

盤の水に、何やら動揺している自分が映っていたが、無視をした。

少し早い動悸も、酒のせいだ、と思うようにした。

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