雑草の上に朝露が宿り空は高く見える。

朝の街はまだ人がまばらで昼より静かだ。

空気は澄み、すこし、冷える。

いつものように、ハグムとシバは役所に向かって歩いていた。

男児たちが数人、笑い合いながら二人の前から走り去っていくのを、シバは眺めた。


「おい、ハクタカもあいつらと同じくらいの歳だろうが、かなり細くないか。ちゃんと食ってんのか、あいつ」


「食事を残しているところは見ないけど」


ハクタカは後ろを振り返って男児たちをみようとしたが、ハグムにはもう彼らを見ることはできなかった。


「あいつ、へんなところで大人みたいな遠慮をしやがるからよ。ハグムの前じゃ、思いっきり食えねえんじゃねえのか」


「そ、んなことはないと思うが」


ハグムはハクタカが我慢をしているようには思えなかったが、己の前でのかしこまった姿を普段見ているので、断言はできなかった。


「しかも女みてぇな顔つきしやがってよ。身体まで貧弱になっちまったら、おまえみたいな優男になっちまうぜ」


「…余計なお世話だ」


ハグムは肘でシバの脇腹を軽く突いた。


「はは、にしても、あいつにあんな特技があったなんてなぁ」


「ん?あぁ、使用人の子供は普通読み書きしないからね、賢い子だ、ハクタカは」


「あれからおまえの仕事の手伝いとかしてんのか?」


「ああ、家で書類整理を手伝って貰っている。私一人では時間がかかってどうしようもなかったからね、助かっている」


「へえ、じゃあ家だけじゃあなくて、あいつを役所に連れてくればもっとおまえ、楽できるんじゃねぇの」


「それはだめだ」


「なんで」


ハグムの強い口調に、シバは眉を顰めた。

ハグムは見えてきた役所のその奥に位置する王宮を、睨みつけるように目を細めた。


「……なんでもない」


それからハグムは無言だった。

役所の近くに来るとシバも自然に黙った。


(…またあの目だ)


ハグムのたまに見せる王宮への眼差しに、シバはずっと違和感を覚えていた。

外套を翻し、難しい顔でそのまま颯爽と門の中へ入っていくハグムの後ろ姿を見送りながら、シバは肩をすくめた。





暗い庭先で虫の鳴き声がたくさん聞こえた。

ハクタカはハグムと一緒に向かい合って食事をとっていた。

ハクタカがハグムの仕事を手伝うようになってから、ハグムは少し仕事の余裕が出て、最近はよく二人で食べる時間が増えていた。

箸で鹿肉を頬張っていたハグムはふと今日シバが言っていたことを思い出した。

机の上から急にハクタカの目前に詰め寄り、ハクタカの顔をまじまじと見つめたあと、左腕をつかんだ。


「な!ど、どうしたんですか、先生」


ハクタカは顔を赤くしてハグムの手を見つめた。


「…シバの言う通りだな」


「な、何がですか」


「もう少したくさん食べろ、ハクタカ。君は痩せすぎだ」


「食べてますよ」


「いいや。ほら、私のも食べなさい」


ハグムは、自身の皿に載っていた鹿肉を全てハクタカの目の前の皿に載せた。


「こ、こんなに食べれません」


「食べなさい。私とて、君くらいの時はもっと食べていた」


「はぁ…」


ハクタカはハグムがなぜ唐突にこんなことを言うのか何がなんだかよく分からなかったが、おくびが出そうになるのをこらえ、目の前の鹿肉を頬張るのであった。






ハクタカは調理場で夕飯の支度をしながら、ため息をついていた。

毎夜毎夜ハグムに食事を勧められるようになり、ハクタカは、作る食事の量を少なくしてみるなどささやかな抵抗をしてみたが、ついぞ腹は満腹になり、苦しくなる一方だった。

ハグムはきっと、自分のことを心配してくれて良かれと思ってやっていると思うと、ハクタカは、何も言えなかった。

ハクタカは自身の左腕を見つめた。


(そんなに細いかな、私の腕)


ハクタカは、唇を左の衣服の上に押し当て、自身の腕の感触を確かめた。


(女は男より腕は細いから、疑われないようにしないといけない…けど、こればっかりは自分でどうこう、できないな…)


ワンワンワン!

チボの声が庭から聞こえた。


「今日、遅いってよ」


ハグムが仕事で帰りが遅くなる日は、シバが家に夕飯を食べに来てくれた。

慣れてきたのか、チボは最初こそシバを見て吠えるものの、それ以降吠えたり噛んだりすることはしなくなった。

今日はハグムとご飯を食べなくて済む、と思ったハクタカは少し安堵した。

シバと向き合って夕飯を食べている間、ハクタカはシバの腕を眺めた。

自分の腕の太さの三倍はありそうで、筋肉が引き締まりごつごつ硬そうで、まさに男らしい。

それに少しでも近づきたい、と思ったハクタカは、シバに向かって口を開いた。


「ねえ、シバはどうしてそんなに腕が太いの」


「あ?そりゃ体はでけぇ方だから、当然そうなるだろうよ。まあ仕事柄っつうのもあるか?」


「仕事?そういえば、シバって治安警察部にいるって聞いたけど、普段どういうことをしてるの?」


「色々あるが、主に役所と王宮の警護と街と周辺の村の犯罪取り締まりだ」


「…シバって、偉い人だったんだね」


ハクタカがぽつり、というと、シバは目を大きく開いた。


「がっはっは、どうした急に。今更俺様の凄さが分かったってか?」


「俺が役所に先生の巻物を持って行った時、衛兵にシバ殿なんて呼ばれてたから」


ハクタカは敬礼の仕草をした。


「まぁ俺も部の長官じゃあないが、現場の兵の指揮は俺がとるから役所の兵は皆俺の部下よ」


「すごい!」


「ふふん、そうだろう、そうだろう」


シバがコメを飛ばしながら、満足そうに頷いた。


「何か特別な訓練かなにかするの?その、悪い人をやっつけるのにさ」


「そりゃ時間さえあれば毎日剣の鍛錬だな」


「…それ!それ、俺にも教えて!」


ハクタカはシバに剣の稽古を願い出た。


「なんだっておまえが剣なんか。必要ないだろ」


「シバ、お願いだよ」


ハクタカはシバの隣に正座した。


「理由はなんだ、と聞いてる」


シバは茶碗を置いていつもにはない真面目な顔でハクタカを見下ろした。

ハグムにご飯を吐きそうになるくらい食べさせられないように腕を逞しくしたい、と言っても、おそらくそんな理由では、シバが首を縦に振ることはないだろう。

かといって、中途半端な嘘がシバに通じないのは、ハクタカはなんとなく分かっていた。


「…この間みたいに泥棒なんかが来ても、自分一人でやっつけられる力が欲しいんだ」


「…ほお?使用人として、か。だが、ハグムは別におまえにそんなこと望んじゃいないだろう?」


「そ、そうだけど…」


ハグムは調理場の包丁以外、危ないからと言って、家にある刀という刀は、ハクタカに触らせなかった。

ハクタカが髪を切った時の小刀も、髪を切りたければ今度は私に言いなさい、と言われ没収されたくらいだ。

ハグムならきっと、剣の修行など、言語道断だと言うはずだ。


「先生はあの時、雇い主は使用人を守るべきものだって…頼れって言ってくれたんだ。先生は、あんなにお偉い方なのに、俺を一人の対等の人間として見てくれている」


ハクタカは自身の右腕をちらっと見やった。


「俺、こんなだからさ。普通の人よりできないことは多い、けど、自分のことは自分でちゃんと、やりたいんだ。自分のことは自分で守りたいし、使用人として留守を預かっている以上、先生のこの家を守りたい。先生が自分を守ってくれるなら、俺だって先生を守りたいんだ」


ハクタカは本心を言ったつもりだった。


「……」


シバは黙って聞いてくれたが、そのまま口を閉ざしていた。

そこには躊躇いの顔が浮かんでいた。

ちらりとシバを見やって、やっぱりだめか、と思いハクタカはシバから離れようとした。


「ふん、おまえもあの犬みたいに一丁前に吠えるようになったじゃねぇか」


「え?」


シバは口角を上げた。


「今日みてえにハグムが遅い日だけだぞ」


「え、じゃあ…」


ハクタカの顔が徐々にほころんだ。


「剣は俺のを貸してやる。ハグムにバレたら、俺が怒られそうだしな」






「ほれ、持ってみろ」


シバから、俺の家にある一番小さい剣だ、と言われて渡された剣は、ずっしりと鉛のように重かった。

持つだけで、重心が左にずれて転びそうになった。


「…おまえの場合、剣の使い方どうこうよりも、まず剣を持つことからだな」


シバは呆れるように言った。


「う…」


ハクタカは自分の力のなさに、愕然とした。


「ハグムの野郎、今日は少しばかり遅れると言っていたからな、今日はここまでだ」


シバはハクタカから剣を取り上げ、自分の家側からハグムの家とシバの家の境の垣根の下に穴を掘り、木箱の中に剣をしまい、木箱を土で隠した。


「ここに置いておくからな」


「分かった」


シバは、じゃあな、と玄関に入る前、ハクタカがまだ垣根の前にいる気配を感じ、


「どうしたんだ?」


と問うた。


「あ、ありがとう。…ごめん、シバも仕事で疲れているだろうに、その、俺なんかに付き合わせちゃって」


シバに対して今や一切敬語を使わなくなり、子供らしい笑顔もみせるようになったハクタカが、あまりにも生真面目にそう言ったものだから、シバはふ、と笑った。


「ハグムがいねぇ暇な時は常に剣を手に持って静止、あとは百回の素振りだ。俺の稽古は厳しいからな、覚悟しとけよ」


垣根越しにシバは檄を飛ばした。


「…うん!」


いつものハクタカの声色に戻ったことを確認すると、シバは満足気に家に入って行った。

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