仕事人間
仕事で帰れない、とハグムから言われたシバが、今日も夕飯を食べに家にやってきた。
ハクタカは毎回、チボの鳴き声でシバが来たと悟り、噛みつこうとするチボをあやしながら、庭でシバを迎えるのであった。
「今日もシバだけか」
「ふん、悪かったな、俺様だけでよ。ったくハグムも、こうなるんなら子供なんか雇うなよな。…あ、わり」
「いいよ」
ハグムの帰りはここ最近ずっと遅く、シバと二人きりで話す機会も増え、ハクタカはシバとかなり打ち解けるようになった。
シバの荒い言い方も、裏表のない正直さがあり、ハクタカは清々しささえ感じた。
「あいつ、大丈夫かぁ?最近働きすぎじゃねぇの」
シバが座敷にどかっと座った。
「先生、ここ連日、帰ってこないね」
ハクタカは座敷の机に、慣れたように二人分の食事を準備した。
「その先生っての、聞くたびに、なんか気持ち悪ぃな」
シバが肩を掻きながら言った。
「そうかな」
ハグムのことを大人たちのように『ハグム様』や『ハグム殿』と呼ぶよりも、アニク達が言っていたように、『先生』と呼ぶほうがハクタカにはしっくり来たのだ。
食事の後、ハクタカは、ハグムと一緒に街に出かけた時の出来事をシバに話し、ハグムに買ってもらった服を見せた。
「こんな高い服、汚さないか気になってとてもじゃないけど着れなくて」
「はっ、服なんて汚してなんぼだ。それにそんな服なんざ、ハグムの給料なら月に百着は買える」
「ひゃ、百着!?」
「そうさ、内政部の高官だぜ?この家の三十倍の広さの家だって買える奴だ。もともとこんなオンボロの家に住むような人間じゃねえよ。ま?この家にずっと住む理由は、幼馴染の俺様の家の隣だから、だろうな」
シバは、ふふんと自慢げに語っている。
「え?シバが先生のお付きの者だから、先生が仕方なぁくここに住んでやってるんじゃないの?」
「っ。言うようになったじゃねーか!ハクタカ、このやろ!」
シバは拳を振り上げて、ハクタカを殴る真似をした。
「ははは!」
けたけたと笑うハクタカを見て、シバは意地悪く笑った。
「そんなこと言ってていいのか?ハクタカぁ」
「え、何が?」
「そうだな。服じゃなくて、ハグムならまぁ、使用人の男、十人くらいは余裕で雇える。おまえ、解雇されないようにせいぜい頑張れよ?」
「!」
「じゃ、ごちそーさん」
シバはにやにやしながら帰っていった。
そうだ。
私は優しい先生に、きっと慈悲で、雇われた。
忙しい先生と会う時間は少ないけれど、それでも十分良くしてもらっている。
少しでも先生の役に立たなければ。
そう思い立ったハクタカは、以前シバに言われたとおり、知識を身につけたら何か先生の仕事の負担を少しでも軽くできるかもしれないと思い、家事の合間に家に置いてある本を手にとってみた。
一冊ずつめくってみたが、ハグムの棚にある本は、この国や他国の歴史、地理、文学、天文学、地学、軍事学、数学、法学、経済学、哲学、工学、農学、商業学など多岐に渡りすぎていて、その多さにハクタカは舌を巻いてしまった。
残念ながら、本を読み進めてもハクタカの瞼が重くなるだけで、ついには本を開きながら寝てしまう始末だった。
自分の不甲斐なさに、ハクタカはため息をつくのであった。
*一ヶ月後
ハクタカは早朝起きて自分の部屋から座敷に向かうと、ハグムが床に横たわって寝ていた。
(あ、昨日は帰れたんだ…!)
寝室があるにも関わらず、ハグムは疲れてそのまま座敷で寝てしまうことの方が多かった。
ハクタカは、自分の部屋から掛け布団を引きずりながら運んできた。
静かに寝息をたてて眠るハグムは、まつ毛は長く、唇は凛と結ばれていて、それを見たハクタカは、少しどきどきした。
顔が青白く見え、ハクタカは冷えないようにとハグムの体に布団を掛けようとした。
その時、ハグムがゆっくり目を覚ました。
「あ、起こしてしまいましたか」
ハクタカは布団をハグムに掛け損ねてしまった。
「ん…」
ハグムはだるそうに上半身を起こし、ハクタカに時刻を聞いた。
「もうそんな時間か…!」
ハクタカが時刻を言うと、すぐ支度をしようと立ち上がったハグムはふらつき、座敷の壁に片腕が当たったかと思いきや、そのまま倒れてしまった。
「先生っ!?」
ハクタカが駆け寄ると、ハグムの顔は真っ青だった。
息は深く、でも苦しそうであった。
「先生、大丈夫ですか!?ちょ、ちょっと待っててくださいね!」
ハクタカはどうしてよいか分からず、周囲を見渡した後、急いで隣家のシバを呼びに言った。
「あ?ハグムが何だって!?」
「いいから、早く、早く来て!!」
寝ていたシバを叩き起こして、シバの背中を必死に押しながら、ハクタカは玄関に入った。
ちょうどその時、奥から外套を羽織ったハグムがふらつきながらやってきた。
「先生!?無茶です、寝ていてください!」
ハクタカは靴を履き替えるハグムに向かって言った。
「おい、ハグム。おまえ、顔、真っ青じゃねえかよ」
目が覚めてきたシバは、状況を理解し、ハグムの腕をつかんだ。
「少し寝不足なだけだ。今日昼に部署の長官同士が集まる会合がある。そこで提出する書類をまだひとつも作れていないんだ。休めないよ」
「んなもん、出席する内政部の長官がやりゃあいいだろう!」
「そうはいかないさ、腕を退けてくれないか、シバ。はやく馬車を呼ばないと」
「ふん、…そういや、お飾り長官だったな」
シバは一度ハグムの腕を掴んでいた手の力をゆるめたが、ハグムの足ががくっ、と崩れ、ハグムは両膝をついてしまった。
「こりゃあ、いくらなんでも無理だろ」
シバは、ハグムの身体を抱きかかえた。
「シバ…、いい、はやく、馬車を…」
ハグムは必死にシバに語りかけた。
「先生、だめです、とりあえず一回寝てください」
ハクタカはハグムの寝室にシバを誘導し、シバはハグムを布団の上に横たえた。
布団に寝かせてもなお、起きあがろうとするハグムに、シバはハグムの胸を腕で抑えつけた。
「こりゃあ、意地でも行く気だな。俺らの言うことなんててんで聞きやしねぇ」
シバはお手上げだ、と言わんばかりにハクタカに目配せした。
ハグムの顔は相変わらず真っ青で、冷や汗も出てきている。
なんとか引き止めたいが、ハグムにしかできない仕事があるならばどうしようもないのか、ハクタカは焦って考えをめぐらせ、一つ案を思いついた。
「せ、先生。あの、その会合っていうのは、先生は出席しなくてもいいんですか?」
「…あぁ、部の長官だけだ。副官はいらない」
シバの腕を押し退けて、上半身を起こそうとしていたハグムが答えた。
「そしたら、その、書類、ていうものを、作ればいいんですよね。俺にやらせてください」
ハクタカはハグムに向き直って言った。
「あぁ?何言ってんだハクタカ、おまえにそんな仕事ができるわけないだろう」
すかさずシバが横から言った。
「せ、先生が言うことを俺が紙に書き写していって、それをまとめたらいいんじゃないかなって…」
「あほう、おまえ、そんなのはちゃんと読み書きできるようになってから言え!」
シバがハクタカを小突くと、
「…できるのか?」
と、ハグムは驚いたようで、ハクタカに問うた。
「領主様のご子息が家庭教師の先生に習うのを、その、少し、見聞きして…読み書きはできます。先生の書斎にある本棚の本も読めましたし…」
「なに、あれを読めたのか?大人でもかなり難しいと思うが」
ハグムは目を見開いた。
「な、内容は難しすぎて、詳しくは…分かりませんでしたが」
ハクタカは、自分はでしゃばりすぎたかもしれないと思い、咄嗟に俯いた。
「…おまえ、それって、すげえことじゃねえのか?俺だって、政府のお偉いさん方が読む文書なんて書けねぇぜ」
「…シバ、そこの紙と筆を取ってくれないか。ハクタカ、一度私が言うことを書き写してみてくれ」
「あ、はい!」
慌ててシバから紙と筆を受け取ったハクタカは、寝ているハグムの横で準備を整えた。
「では…」
ハグムはふう、と息をつき、口を開いた。
「今月の政府内政部決議議案として、シシタルの港湾整備事業にかかる補正予算、ミンダオ鉱山への鉱脈調査隊派遣団の編成、対シモン国との商業条約改正について…」
ハグムは淀みなく言葉を続けた。
ハクタカはハグムの一語一句を逃すまい、と必死に左手の筆を動かし、紙に記すのであった。
「うへぇ、もう何言ってるかわかんねぇ」
シバは下唇を突き上げた。
「…と、以上の施策を施行した。…ハクタカ、ここまで書いた部分を見せてくれないか」
「あ、はい」
ハクタカは書き留めた紙をハグムに手渡した。
ハグムは紙に目をこらし、最初から文字を追った。
字体はさすがに子供っぽさが残るが、ハグムが言った難しい言葉の単語を一語一句間違えることなく、全て正確に書かれていた。
「…すばらしい。ハクタカ、続けよう、よろしく頼む」
「はい!」
「なんかよく知らんが、うまくいきそうか?とりあえず俺も仕事だ、先行くぜ」
シバは腰を上げた。
「あぁ、ありがとうシバ」
ハグムは少し頭を上げてシバにお礼を言った。
「すまない、ハクタカ。まだ目が回って動けそうにないのでな。この状態のまま言っていくが、よいか?」
ハグムは目をうすく開け、天井を向きながら横たわっていた。
その顔は、まだ青白く、冷や汗もあった。
ハクタカは頷いた。
「平気です、お願いします」
三リン<一リン=約一時間>経った頃、ハグムの最終確認を経て、ハクタカは書き終えた紙を巻物にまとめてすぐ役所に持っていこうと準備をしていた。
「ハクタカ、私の外套に通行証が入っている。それを門番の衛兵にみせて、その巻物を内政部の長官殿に渡すよう言いなさい。それを持っていれば皆、私の家の者だとわかってくれるだろうから」
「分かりました、すぐ行ってきますね!」
ハグムは申し訳なさそうに、気をつけて、と言った。
ハクタカは役所に向かって一目散に駆け抜けた。
役所は、王宮の目と鼻の先にあり、ハグムと街に出かけた時に、王宮を遠目で見ていたのでだいたいの場所は分かっていた。
ハクタカは息をするのも忘れて、走った。
少しでもハグムの役に立てたかと思うと、嬉しさで飛び上がりたくなるほどだった。
役所の門の前に着き、ハクタカは門の前にいる二人の衛兵に声をかけ、巻物を衛兵の前に差し出した。
「あの、これ、先生の…」
ハクタカはあまりにも速く駆けてきたので、息が切れて、声が途切れ途切れになってしまった。
「これ、子供の入るところではない、帰りなさい」
「なんだ、汚い服だな」
二人の衛兵は、ハクタカを見てまともに取り合ってくれなさそうな雰囲気だった。
「ち、違うんです。あ、そうだ、今、通行証を…!」
調理場で着古した服ではなくて、ハグムに街で買ってもらった服を、今こそ着てくればよかった、と激しく後悔しつつも、ハクタカは懐に忍ばせていたハグムの通行証を慌てて取ろうとした。
「お、みたことある姿と思えば、ハクタカじゃあねえか!」
「!シバ…!」
シバがぞろぞろと兵たちを連れて、ハクタカの後ろから近づいてきた。
「ハグムはどうでぇ?」
「あ、うん。家で寝て…」
ハクタカが答える前にシバはハクタカが握りしめていた巻物を取り上げた。
「お!まさか本当に書類っつうのができたのかよ?」
「そうだよ、返して!」
ハクタカはシバにとられた巻物を取り返そうと、手をあげてぴょんぴょん跳ねた。
「おう、これ、内政部の長官サマに渡してくれや。ハグムからだ」
シバは衛兵の一人に巻物を渡した。
「は!シバ殿、仰せのとおりに!」
「あ、こ、これ、先生の通行証…」
ハクタカが衛兵にハグムの通行証を見せようとした頃には、巻物を受け取った衛兵は役所の中に入っていってしまっていた。
「いらねぇよ、んなもん」
にっと、シバはハクタカに笑ってみせた。
「よかったな、解雇は免れそうな活躍っぷりじゃねぇか」
シバの言葉を聞きながら、ハクタカは、きょとん、と立ち尽くしていた。
「じゃあな。帰ってハグムのことみてやってくれ。あいつ、また無理しかねねぇからな」
「あ、ありが」
ハクタカがお礼を言い終わる前にはもう、シバは役所の門をくぐっていて、ハクタカに向けて手だけひらひら振っていた。
「お疲れ様です、シバ殿!」
門前の衛兵が、通り過ぎるシバに向かってすばやく敬礼していた。
その溌剌とした声を聞き、思わずハクタカもシバの背中に向かって敬礼してしまっていた。
数十人の兵達が隊列をなしてシバの後を付いて行った。
どうやらシバも、ハグムのように役所では相当偉い人らしい。
ハクタカはその事実に驚きを隠せなかったが、家にいるハグムがやはり一番気がかりで、役所の門を背にして、すぐ家に向かって走った。
ハグムの寝室へ向かうと、布団の中でハグムは安らかに眠っていた。
今朝よりも顔色もよさそうだった。
(よかった…)
安堵したハクタカは、しばらくハグムの顔を眺めていた。
西日が顔に差し、ハグムはぱっと目を覚ました。
目の前に天井が映り、外の日の色からどうやら、半日以上寝ていたようだ。
ぐぅ。
ハグムは自身の腹がなり、丸々二日は食事を口にしていないことを思い出した。
お腹をさすりながら上半身を起こすと、すぐ隣で布団に顔を伏せて寝ているハクタカを見つけた。
ハグムは微笑むと、ハクタカの左肩を静かに揺らした。
「ん」
ハクタカが顔を上げると、ハグムがこちらを眺めていることに気づいた。
「せ、先生!どうですか、具合は、悪いところはないですか?」
「お陰様で。随分気分が楽になったよ。ありがとう、ハクタカ。今日は助かった」
「!良かったです!あ!お水いりますか?お食事は?」
嬉しそうに、慌ただしく問いかけるハクタカに、ハグムは呆気にとられつつも穏やかな顔で答えた。
「ふふ、じゃあいただこうか」
「今、持ってきますね!」
ハクタカはすぐ調理場に向かった。
ハグムが食後、湯に入りたいと言ったので、ハクタカは急いで風呂場の火を熾し、湯を沸かしていた。
「先生、湯の準備ができました。どうぞ入ってください」
ハクタカは座敷に座っていたハグムに呼びかけた。
「そうか、ありがとう」
ハグムはその場で立ち上がり、着物の帯を外し、上半身を露わにした。
細い身体だが、胸と腹の筋肉はしっかり盛り上がり、腕の筋と血管が浮き立った。
いくつか古傷が、身体に刻まれている。
かいていた汗で、首が少し濡れており、下ろしていた髪の毛が張り付いていた。
衣の上から見るハグムとは別人のようで、それを見て驚いたハクタカは、すぐさま顔を調理場の方向に向け、指を風呂場の方向へ向けた。
「せ!先生、あの、風呂場の方で脱いでもらっていいですか。ふ、服は、洗っておきますので」
「え?ああ、すまない」
ハグムは上半身裸のまま、座敷から廊下に出た。
「あ、ハクタカも一緒に風呂に入るか?」
思い出したかのように廊下から座敷に顔を覗かせた上半身裸のハグムに対して、ハクタカは真っ赤な顔を思いっきり左右に振って、すぐハグムを背にし、皿を洗い始めた。
「なんだ、いつもつれないな」
ハグムは前髪を掻き上げて、風呂場へ向かうのであった。
翌朝、シバがハグムの家の玄関口にやってきた。
「おはよう、シバ」
ハクタカがシバに挨拶し、後ろの廊下からハグムもやってきた。
「おう、調子はどうでぇ」
「あぁ、もう大丈夫だ。すまない、心配をかけた」
ハグムは玄関で靴を履こうと屈んだ。
「あ」
と、ハグムは一言発した後、もう一度立ち上がった。
「先生?」
「昨夜書き留めた文書を机の上に忘れてきてしまった。すまない、少し待っててもらえぬか」
ハグムは書斎に向かった。
ハクタカはシバに小声で話した。
「体調良くなったからって、夜も仕事してたんだ…先生」
「へ!文書だの書類だの!内政部のお方は大変ですなあ」
シバは玄関の床にどかっと、腰をおろした。
「ね、シバ」
ハクタカはシバの隣に屈んだ。
「あん?」
「先生って、なんであんなに仕事優先なの?自分の身体こわしてまで…。そりゃいっぱい、お仕事抱えているのは十分承知だけど、度がすぎる、というか」
「…ふん、じじいの亡霊に取り憑かれてるのさ」
「え?」
「いや、なんでもねぇ。あいつは有能だから、政府のお偉いさん方にこき使われてるだけさ。だから、家ン中だけは、たんと労ってやってくれや」
シバはハクタカの額を軽く小突いた。
「う、うん…」
ハクタカが額をさすっていると、ハグムが巻物を抱え、おまたせ、と言って玄関に戻ってきた。
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