子供
「栄養失調ですな」
立派な白髭をたくわえた初老の医者は子供を触診したのち、そう告げた。
窓際の寝台の上で眠っている子供は、全身は痩せこけ、黒髪のボサボサの頭にはシラミが目立ち、顔は煤まみれ、服はぶかぶか、領主の息子のお下がりの服だろうか、もとは上等な服であったようだが、色は褪せておりボロボロの状態であった。そして、その子供には、右腕が、なかった。
「そうだったか。腕がなかったものだから心配したが、生まれつきとは。…領主の庭先の小屋で倒れていた。この子は何者であろうか」
ハグムは視線を医者から子供に向けた。
「あぁ、私知っていますよ。たしか…、領主様のところで住み込みで働いている使用人の子です。名は存じ上げませんが、なんでも四、五歳の時に領主様の自宅の門前に捨てられていたとか。見ての通り生まれつき右腕がないものだから、食いぶちが増えるだけで親も見捨てたんでしょう。戦時中でしたしね。領主様も門前に居座られて最初は全く相手にしませんでしたが、この子は、門前から全く動かなくて。ついに倒れてしまって…領主様が周りの目を気にしてか、しぶしぶ引き取ったようです」
「そうか…しかし随分ひどい扱いをされてきた様子だが?私でもわかるくらいに」
ハグムは子供のがりがりに痩せ細った身体に眉をひそめた。
「詳しくは存じ上げませんが、噂では領主様の家からはよく怒鳴り声が聞こえてきたようです。毎日働かされても、十分な食事はもらえなかったのでしょう。ここまでとは…気づいてあげられんで…可哀想にの」
医者はうつむき、小さなため息をついた。
「治るだろうか」
ハグムは横たわる子供を見ながらつぶやいた。
医者はハグムに目をやった。
若い青年だが数人の武装した男たちが控えにおり、外套の下に見える藍鼠の整った衣服の胸にはヨナ国政府の紋章の刺繍が施されているのがはっきり見えた。
「えぇ、まだ十二歳くらいの子供ですし、しっかり栄養のあるものを食べさせたらそのうちに」
「何日ほどで治るか」
「そうですなぁ。起き上がって立てるまでは七日は必要かと…あの、すみません。貴方様はもしかして…」
「あぁ、すまない。申し遅れた。政府内政部副官のハグム・イ・ウィルだ」
「あぁ、やはりそうでしたか。ご無礼を」
「いや、いい。七日後にまた来る。この子を頼む」
ハグムはそう言い残し、男たちを引き連れて去っていった。
「かしこまりました、ハグム殿」
(街で何度も噂されているハグムという方があんなに若い青年だったとは。内政部の副官まで務めていらっしゃるという、あの…)
初老の医者は目の前の青年に敬意を示し、深々と礼をした。
このヨナ国は大陸のはるか東に位置する小国である。
東は海に囲まれ、北西部は険しく雪の積もる白山の山々に囲まれ、その向こうには広大な土地を持つ大国シモン国があった。南西部は肥沃な土壌があり、農作物豊かなエナン国が位置していた。
ヨナ国は小さい領土であったが、資源豊富な国であった。
シモン国と隔てる白山の手前には楯状地があり、多くの鉄鉱石を発掘できた。
東の海には多くの港を有し、大陸の外の島の国々との外交も盛んであった。
南にはエナン国ほどではないが肥えた土壌により、ある程度農作物も採れた。
国を山々に囲まれる南西のエナン国は、ヨナ国の資源と海を求めて、数十年にも渡り、度々ヨナ国に対し戦をしかけていた。
ヨナ国はその都度応戦していたが、やっと三年前に休戦がとられたばかりであった。
第十六代目の王トマムが治めるこのヨナ国の王宮と役所は国の中心に位置し、高い外壁により平民の住む住居地とは隔てられていた。
平民は農業、商業、漁業、鉱業などさまざまな職種に携わっており、それぞれの地域を納める領主に毎月役所より制定された税を納めていた。
王宮は役所の北に位置し、一番北には王が生活する神殿と玉座があり、王妃と側室、その子供たちの離宮がその南に広がり、さらにその南には王の側近たちの住まいと仕事場が広がっているのであった。
政治は王とその側近たちによる議会により最終的に決定されるが、ほとんどの雑務は役所のそれぞれの部が担当することになっていた。
殊に、内政部に関しては三年前より、副官を務める男の手腕によって成り立っていたのだった。
*七日後
仕事を終えたハグムは役所の自室の扉の鍵を閉めた後、目頭を押さえ、一呼吸ついたあと、どかっと壁に身体を預けた。
書類整理が終わらない。
いや、頭の中では書き留める言葉はとっくに並びきっているのに、目が見えにくい分、書き記す作業と、どの書類になんの内容を書いたか、どの巻物を誰に渡せばいいのか、整理整頓をすること、また、他の部署から送られてくる書類の文字に目を通すのに、いちいち時間がかかるのだ。
「軍師の時にはこれほどの書類は書かなかったからなぁ…」
ハグムは珍しくぽつり、と呻いた。
(…いや、泣き言を言っている場合ではない。これが、私が最期に頼まれた仕事だ)
再度自分を奮い立たせ、ハグムが歩き出そうとした時。
「おーぅ、ハグム」
腕をぶんぶん振りながらシバが回廊をつたってハグムに近づいてきた。
「この間の一件、俺がちょーっと脅しをかけたら領主のやつ、すぐ悪事を吐きやがった。さすが俺様だぜ」
「そんなことをしなくても証拠品があれだけあるから、順調に法廷部で裁かれるだろうさ」
「けっ。もっとこの俺に労いの言葉でもかけてくれよ。くそ眠い中、付き合ってやったんだからよ。…そうだ、今から夕飯でも食いに行かないか?仕事は終わったろう?」
「まだだ、今から行くところがある」
「あ?どこへ行くってんだ」
「あぁ、ちょうどよかった、シバ。付いてきてくれないか?外が暗くなりそうだから」
ハグムはいつものようにシバの腕を掴んで、シバが歩いてきた方向の逆を急いだ。
「えっ?ちょ…!ちょっと、待てよ!また仕事っつうなら俺ぁごめんだぜ!」
シバの、勘弁しろよという声は、毎回ハグムの唐突な行動の後に、むなしく響いた。
「あ?子供ぉ?」
役所を出て、村の中を歩く道中、ハグムは、シバが領主を役所に引き渡した後に起こった出来事を話していた。
「あぁ、今日は彼をその医者殿のところへ引き取りに行く日でね」
「そんなガキ、どうするってんだ。領主はあのざまだし、引き取り手がいない場合、寺の坊さんに預けるか、流れて野たれ死んじまうしかねぇ。…片腕がねぇんじゃ、雇われることも奇跡に近いってもんだ」
「うん、障害孤児は寺に預けるしかないだろうね。領主や近所の戸籍など調べてみたが、彼らしきものはやはり見当たらなかった。まぁ、なんにせよ、まずは彼を健康体で寺に送り出すまでが役所の仕事だ」
「へぇへぇ、そりゃあご苦労なこって」
シバは、夕飯はかなり遅れそうだと悟り、不服そうにべ、と舌を突き出した。
以前来た時は暗くてよく見えなかったが、医院の中は案外広く、数人の患者が順番を待っているようだった。
今日は蒸し暑く、医院の入り口はむわっとした熱気が感じられ、ハグムは自身の頬にまとわりついた髪を後ろにやった。
戸口で医者が見えなかったため、ハグムは声を出した。
「医者殿―!例の子供は元気にしているか?引き取りにきた!」
「ハ、ハグム殿…!そ、それが…」
医者は診察部屋からひょい、と顔を出したが、苦い顔をしていた。
眉を寄せたハグムは、嫌な予感がして、先週訪れた病室にすぐ足を向けた。
「おい、待てよハグム」
シバは慌ててハグムを追いかけた。
病室の寝台には、以前ついていたシラミはすっかり落ち、癖毛なのだろうか、毛先が少し巻き毛になっている長い黒髪の子供が清潔な衣を着て左を向いて横たわっていた。
ハグムは子供の上から、目を凝らした。
呼吸はしている。
以前、骨と皮だけの体格であったが、少し肌にも潤いがあるようにハグムは感じられた。
(なんだ、良かった)
ハグムは安堵した。
子供は寝台の横の窓の方を眺めていて、顔はみえなかった。
ハグムが子供に触れようとしたその時、
ワンワン!ワンワン!
白い子犬がハグムの周りを跳ね回り、威嚇している。
「君は…」
ハグムはその子犬の声に覚えがあった。
その白い子犬は、今度はハグムの横にいるシバに向かって鳴き、靴を噛んだ。
「うわっ!なんだこの犬っころ」
シバはしっしっ、と子犬を靴から引き離そうと手をかざしたが、がぶっと指を噛まれてしまった。
「いってぇ!こいつ、何しやがる…!」
「す、すみません。いくら追い出してもこの子犬、この子のそばを離れませんで…。私の娘には懐いたようですが、どうも男嫌いのようでして…私も何回も噛まれましたよ」
困った顔をしつつ指にいくつか細い包帯を巻いた医者は謝りながら部屋に入ってきた。
「あぁ!思い出した、あの茶色い子犬か…!見違えたぞ。君、こんなに白かったのか」
「私の娘も犬の身体を洗って、驚いていましたよ」
医者がそうつぶやくと、医者殿の指は大丈夫か、とハグムは医者を気遣った。
「…して、医者殿、この子の容体は?」
「それが…意識がないときはなんとか我々で細い管を使って流動食を与えていたのですが、意識が戻って、元気は出てきたようなのですが自分から食事も薬も全く飲み食いしようとしませんで…我々も困っているのですよ」
「なんと…」
ハグムは子供のいる台座の横の椅子に腰掛けた。
白い子犬はそれに気づき、シバの足元からハグムに向かってワンワン、と吠え出したが、しばらくすると子供の横たわる寝台に飛び乗り、静かに子供の顔の横に座った。
「起きているか…?」
ハグムは子供に触れ、囁いた。
左向きで横たわっていた子供の身体が、びくっと動いた。
「飯を食わぬと聞いた。何故だ、元気にならぬであろう」
子供は気だるそうにちらりと天井をあおぎ、またすぐハグムを背にした。
「…ちゃんと聞こえはするようだな、君、名は?名はなんという?」
ハグムは子供に問いかけた。
返事がない。
「おい、おまえ。口がねぇのか!?」
シバは腹が空いているのか、少し苛立って声を荒げた。
「シバ、医院だ。静かに」
ハグムはシバを制しながら、子供にゆっくり語りかけた。
「君は倒れる前、喋っていたから、口がきけるのは知っている。君の名を尋ねているが、言いたくないのか、それとも…」
「……」
またもや返事はないようだった。
「おい、なにかしゃべりやがれ、ガキ!」
「シバ!」
シバを見ながら、ふう、と息をついたハグムは、子供と少し二人きりにしてくれと言い、医者とシバを部屋の外に出した。
子供はずっと左の窓の外を向いていた。
思ったより容体は悪くはなさそうだが、こちらを見て話してくれるには、子供の気をひくにはどうすればよいか…ハグムは少し黙って考えた。
ハグムはふと、子供に尻尾を振る子犬に目をやり、子供に尋ねてみた。
「かわいい犬だな、この犬の名は?…教えてくれないか…?」
「……チボ<小さい子>」
「チボ?はは、うん、良い名だ」
ハグムは少しかすれ声であったが子供が言葉を発してくれたことに安堵した。
しかし目の前の子犬は小さいが、骨格はがっしりとしていて成犬ともなれば大きくなりそうだ。
さらに、まるまるとしていて、毛は密で毛艶もよく、目の前の子供とは正反対のようだった。
「君はろくに食事を与えられなかったのだろう。見たところ、領主から残飯くらいは与えられていたようだが…。ひもじい思いをしていたなら、食欲に勝るものはなかったであろう。どうして自分で全て食べずにこの子犬に食事を分け与えていたのだ?」
子供は目の前の子犬の頭を撫でたあと、しばらくして言った。
「…親友です。チボの方が…生きる可能性が高いと思ったからです」
ハグムは驚いた。
犬に命を譲る子供が、貧しい農村の多いこの世にどれだけいることだろう。
世間は馬鹿だと思うかもしれないが、ハグムはこの子供の子犬への愛情と純粋な気持ちに賞賛の気持ちさえ湧きあがった。
「…じゃあ君がこのまま何も食べずに、死んでしまったら、この犬に餌を与えるのは誰なんだ?誰もいなくなる。君が治らないと、この犬も死んでしまうぞ」
「大丈夫です、この子は賢いから野良でもやっていける…」
それは無気力な声色だった。
領主のところで相当ひどい扱いをされていたのだろう、食べる気力も、生きる希望もなくなるのも無理がないとハグムは思った。
ハグムもまた、弱視であったことで物心ついた時から周囲の人間に蔑まされていた経験があった。
右腕のないこの子供の気持ちも、ハグムには痛いほど分かった。
子供の言葉を聞いたハグムは、少々悪どいか、と思いつつも、口を開いた。
「私は役人をしているが、最近このあたりに野良犬を攫っては犬肉にし、売り捌いている不貞の輩がいると報告を受けている。もしこの子犬が村をうろついていたら、あっという間にそやつらに殺されて肉にされてしまうよ」
「えっ…!?ほんと…?それはだめ…!」
子供はすぐさま起き上がり、ハグムの目をまっすぐ見た。
それはあまりにも突然で、ふ、とハグムは思わず笑いそうになり、ぱっと顔を横に背け、口を手で隠した。
至極素直に術中にはまってくれて、逆にここまで信じてくれると予想をしていなかったのだ。
不貞の輩がいるというのは大嘘だが、これくらいまだ小さい子犬ならば野良化したところで途中でのたれ死んでしまうだろう。
「ちゃんと食べます…!」
子供は、ずい、とハグムの方に顔を向けた。
「そうだね、それがい…」
子供に向き直り、目前に子供の顔の瞳が映った瞬間、ハグムは時が止まったかのように思えた。
目の前の漆黒の瞳に、吸い込まれそうな感覚に襲われた。
ハグムは戸惑った。
身の回りの人間、ましてや子供に対してこんな感情を抱いたことがなかったからだ。
綺麗だ、と。
「ハグムー、早くしろよ、そろそろ帰ろうぜ」
痺れを切らしたシバが、勢いよく扉を開けて入ってきた。
「あぁ、すまない。シバ」
ハグムははっとし、扉の方に振り返った。
ハグムはしばらく黙ったが、すくっと椅子から立ち上がった。
「この子、私が引き取ろう」
「え?あぁ、寺に連れて行くのか」
「違う。我が家にだ」
「はぁ?一体全体どうしてそういうことになるんだ」
シバは怪訝そうにハグムの顔を覗き込んだ。
「口はきけるし、嚥下も問題なさそうだから入院はいらないだろう。しばらく私の家で預かって療養して、元気になったら私の家の使用人として働いてくれればいい」
我ながら突拍子もないことを言ったな、とハグムは後から思った。
しかし自分でも全く訳が分からなかった。
役所で夜遅くまで働くことも多く、家事がまったくの疎かになっており、使用人ができるなら助かるのは事実であったが、それはいわばこじつけで、それ以上に、ハグムは障害という自分と境遇が似たこの子供に、哀愁にも似た、離れ難い気持ちが、湧きあがっていたのだった。
犬を親友と言い、まっすぐな瞳で見つめるこの子供を、ハグムはすっかり気に入ってしまった。
子供は何がなんだかわからず、あっけにとられている様子であった。
「まあ男児なら一人暮らしのお前の家で使用人として働かせるのは有りっちゃ有りだが、子供で、しかもこんな腕のねぇ奴、雇わなくても、うぐっ…」
「連れがすまない」
ハグムはシバの口を塞いだ後、子供と視線を合わせるために屈んだ。
「どうだろう。もちろん、君の意思は尊重するが。…障害孤児の多くは寺に預けられることになる。それもひとつの選択肢だが、そこのチボと自由に暮らすには私の家はうってつけだと思う。衣食住を提供する代わりに、家の手伝いをしてもらう。どうだ、君にとって悪い話じゃないだろう?」
突然の話に、子供は答えを考えあぐねていた。
住み込みの使用人になるということは、領主の家にいた時となんら変わらない。
同じことをまたくり返すのか。
視線を子犬に向けると、子犬はハグムの方を見て、尻尾を振っていた。
子供は驚いた。
領主とその家族には、チボは一切なつかなかった。
自分を連れて行こうとしているこの青年は、悪い人ではないのかもしれない、とチボを通して子供は感じとった。
「医者殿、みたところ彼は一応起き上がれるまで回復していそうだ。とりあえず彼を私の自宅まで連れて行くが、いいかな?」
「え!?あ…あぁ、ハグム殿さえよければ私は全然構いませんが…しかしハグム殿、その子は…」
「お、俺!このひとの家に行く!」
台座から乗り出した子供は、ふらつき、そのまま床に転んでしまった。
「危ねぇな、ガキ。ほら、俺様がおぶってってやるよ」
「すまないな、シバ」
「なぁに、何年の付き合いだってんだ。ほら、ハグムも俺の腕につかまりやがれ。外は真っ暗だ」
「ああ。…あ、そうだ、医者殿。これを受け取ってくれ。世話になった」
ハグムは整えられた布袋に入った金貨を医者の両手に包ませ、シバと早々に医院から去っていった。
無論、子犬はぴたりと子供を追ってハグムたちの後を追っていった。
「……行ってしまわれた…」
話がとんとん拍子で進んでいき、あっさりいなくなった病人の寝台をみて呆然としていた医者は、患者が待っていることを思い出し、そそくさと診察部屋へ向かった。
医院の庭で洗濯物を片付けていた医者の娘が声を張り上げていたが、医者は診察中で終ぞ聞き取れなかったようであった。
「父上ー、この下着、あの女の子のでしょ?忘れ物―!」
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