催花雨

※暴力的で鬱な内容です。苦手な人はスルーして下さい。




 蟀谷こめかみの奥をメリケン針で突付かれたような、偏頭痛が襲う。

 纏う湿気は、外に降る催花雨のせいか。嗚呼、出来ることなら、この身を高所から投げ出したい。雨水浮くアスファルトに、紅の花が咲き、細い流れの水分みくまりに血溜まりのよどが出来る姿が思い浮かぶ。


 身も心も限界である。

 東雲しののめの淡い明りが、マンションの一部屋に侵入する時分……胸中が万力に圧し潰されるが如く、絶望の淵に立たされる。


 嗚呼、今日も始まるのか。

 何故、俺の現実はこうなった?



 ……貴様だ、貴様のせいだ。

 全てを奪った貴様のせいだ。


 其れなりの地位と其れなりの信頼……私が積み上げてきたものは脆く崩れ去った。貴様の狙い……それを、悟ってからは臓腑が煮え繰り返る程、怒りに囚われた。

 怒りは悪運を呼び、不慮の躓きに襲われた。自己嫌悪が増し、己を卑下する日々。追い込まれた精神は、貴様の機嫌を窺う程消耗していた。


 ……知らぬ間に、立場が入れ替わっていた。社内での信頼は、私からお前に移った。


 そして、私は僅かな餞別と引き換えに、職場を去る事になった。

 其れから、何とか食い繋いでいる。だが、中年に残された現実は過酷だ。……卑屈さは増し、下端の立場も板に付いた。ただ、沸き立つ感情を抑え無難に過ごす日々。

 

 まだ、現実を受け止められてはいない。

 でなければ、こんな陰鬱な朝は来ない。

 死屍累々の地獄に放り出される気分だ。



 ……やはり、貴様は許せん。私は思い立ち、出刃包丁を木綿織の手拭いに包み鞄に潜ませた。


 貴様は、私を嵌めたのだ。直属の上司であった私の粗を目立たせ、上層部に私の僅かな不備を告発し続けた。其れは綻びを生み、私は企画の担当を外される屈辱も数度味わった。そして、私と懇意にしていた筈の取引先の営業マンも、私に挨拶するのは止め、貴様の方へ足を運ぶようになった。


 苦悩は、ミスを誘発した。思えば、貴様に誘発させられていたのだ。精神の崩壊を堰き止めるだけの強さが、私には無かった。


 確かに、私は貴様程能力は無かったが……あれ程追い込まれる必要はあったのだろうか?

 二十年、積み上げたものを何故奪われなくてはならなかったのか?


 ……そう思うと、私は積憤を抑えきれなくなった。



 何時も貴様が帰る裏路地に、私は待つ。

 綺羅びやかな繁華街の裏で異臭に塗れ、煙草に火を点ける。もう……十年前に止めた煙草だ。

 震える右手の人差し指と中指に挟まれた煙草は、揺れ動く。唇でそれを抑え、煙を吸い込む。


 軋むような肺の痛みと引き換えに、道化となる覚悟を手にする。吐いた息と共に白煙が、天に舞い月暈に重なる。


 私憤に駆られ凶行を起こす道化……

 其れが、私の終着点。



「来たか?」


 貴様は、やって来た。光沢のある烏羽色からすばいろの背広を着て、迷い無く双眸を前に向け闊歩する。一歩近付いてくる度、鼓動は高鳴り、呼吸は震える。


 その意志の強そうな眉宇びうに、やや突き出た頬桁ほおげた。暗い路地に射す光が、その彫りの深い顔面に影を作る。

 その中で、反射する瞳は赫灼かくしゃくたる点となり私を捉えた。その目尻の黒子が忌々しく垂れる。


「お久し振りですね」


 その笑みは、嘲弄ちょうろう羞悪しゅうおの混じった表情だ。皺という皺が、ふてぶてしく冷徹な顔貌を造っている。


 脳髄に絡みつく怨恨のかずらが、心を赫怒で満たす。鞄の中に潜む、狂乱の刃の感触を確かめると、一歩踏み出した。




 ……催花雨が降る夜に、紅の花が咲く。



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彩りとモノクローム [threetones短編集] threetones @threetones

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