月の光が映すもの

藤 灯華

「満月は嫌い。だって__貴方が死んでしまったのも、満月の日だったから。」



『今年は8年ぶりに中秋の名月と満月が重なる日です。全国的に晴れて、お月見にはピッタリのお天気でしょう。__』



お昼前。黒のワンピースに身を包み、食事を済ませた頃。テレビから天気予報が聞こえた。心做しか、天気を伝える予報士の声が、喜びに色付いている様だった。


何年か前、統計的に男性は満月を好み、女性は三日月を好む傾向があるという学説を、望は聞いた事があった。当時のテレビの取材に対して、ある女性は「満月だとお星様が綺麗に見えなくて可哀想だから」と答えており、一体どこの国のお姫様だと軽蔑してしまったのを良く憶えている。そんな莫迦げた事を思い出したのは、今夜が1年で1番美しいとされる満月─中秋の名月─が昇ってくる日で、朝からテレビのニュースもそれで持ち切りだったからだろう。そういう望も、その統計の例に漏れず、満月よりも三日月が好きであった。満月を見ていると何故か頭の中がぼんやりして、何だか変になるような気がするから。故に満月の日は、普段から付けている両親から貰った御守りのアイオライトのネックレスを、祈る様にして握っている。しかし今は、非常に明確に、満月は大嫌い、大嫌いである。その理由は以前のそれよりも遥かにはっきりとして、そして思い出したくもない出来事で。


__目の前で、最愛の男が血だらけになって死んだのも、闇夜を煌々と照らす、恐ろしい程美しい満月の日だったのだ。



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首都圏郊外の大学を卒業して、或る程度の企業に就職して2年が経とうとしていた頃。望には付き合って4年になる恋人がいた。彼とは大学の講義でのグループ活動で知り合ってから、本の話や趣味の話で盛り上がり、親しくなるのにはそう時間がかからなかった。ただ、月の好みは合わなかった。彼も例の統計に漏れず、満月を好いていたのである。


彼は本をよく読む人だった。海外の童話がどのような形で日本に取り入れられたのかを大学で学んでいた影響で、彼が特に読んでいたのは、日本でも聞き馴染みのある名の本たちであった。海外の原作と日本で再構成された童話とでは、残酷さが違うというのが彼の口癖で、文学談義でもすれば何度もそれが口を突いて出て来た。芥川や谷崎、乱歩に太宰などの日本の純文学ばかり読んでいる望には、毛色が違った非常に新鮮な話だった。


彼が一番好いていた童話は、シャルル・ペロー版の『赤ずきん』であった。彼がする文学談義の内容はほぼこの話だった。それは望が一番興味を惹き付けられた話である事を、彼も感じ取っていたからだろう。


「赤ずきんを"赤ずきん"にしたのは、ペローなんだ。」


赤ずきんがもともと「赤ずきんちゃん」ではなかったなんて、望は思いもしなかった。確かに日本では女の子に頭巾なぞ着けさせないけれど、海外ではそういう伝統があったのかと思っていた。ただ、望が最大の衝撃を受けたのは、この箇所ではない。


「ペローはね、赤ずきんもおばあさんも助けなかったんだ。君はそれを、残酷だと思うかい?」


日本の「赤ずきん」──所謂グリム童話版──の話しか知らなかった。望は彼のその問い掛けに、何故か一瞬、息が詰まる様な感覚に襲われた。


「残酷だと思わない。むしろ現実主義…だって、狼は、生きる為に彼女達を食べたでしょう。この童話は食物連鎖の一部だと思うの。勿論、食べられる側は気を付けなくてはいけないけれど。ペローは残酷ではないわ。…そもそも、狼はお腹を切られているのに寝ているからって気付かないはずがないし。」


そこまで述べたところで、望ははっと顔を上げた。無意識のうちに御守りを握っていた。いつの間にか心臓の鼓動さえも些か激しくなっていた。しかしそれよりも、何故だか弁明の様な、理屈じみた物言いを恥じる気持ちの方が強かった。


「はは、流石望だね。俺も、ペローは残酷だとは思わない。」


彼が笑って意見を肯定してくれたおかげか否か、心臓の鼓動も息苦しさも嘘のように落ち着いた。彼はいつも意見を大切にしてくれたけれど、彼との会話でこれ程までに動悸が激しくなったのはこれが初めてであった。怒られる事を覚悟した子供が全てを話して、許してもらえて安堵した時の様な、そんな感覚だった。


「ペローはこれを教訓としたんだ。"若くて可愛い女の子はどんな人の言う事も聞いてはいけない"ってね。狼は一般的に男に例えられているし。」


──だから君も気を付けなきゃね?なんてにやりとしながら揶揄うから、望は陶器のように白い肌をぽっと赤くしてしまった。




彼が亡くなった日、その日は2人の記念日であった。生まれた時から御守りとして与えられていたネックレスの代わりに、「記念日に付けて来てほしい」と贈られたガーネットのネックレスを胸元に揺らして、望は彼と合流した。


「似合ってる」


ネックレスを見た彼の優しい視線に、自然と笑みが零れた。

少し早めの夕食を済ませた後、彼が連れてきてくれたのは静かな森の、展望台であった。秋の気候らしく空気は澄んで、当たりは闇に包まれ始めた18時頃__不気味な程真ん丸で、大きな満月が東の山の裾から登っていた。血が沸騰したように熱くなったものの、手は氷の様な冷たさで。急いで胸元のネックレスを握ろうとしたが、そこにいつもの御守りはなかった。


「中秋の名月って、暦の関係で満月になるとは限らないんだ。今年の中秋の名月は昨日。満月は今日。今年は重ならない代わりに、俺たちの記念日が満月だって事に気が付いて…君と見たいと思った。」


そう言って望を振り返った彼の首元には、赤いフードが見えていた。


来年は、満月と中秋の名月が8年ぶりに重なるんだ。だから、来年も一緒に


彼の言葉が最後まで紡がれることはなかった。




目を覚ましたら、そこは病院のベッドの上だった。右足を骨折、全身打撲の大怪我ではあったものの、命は助かっていたのだ。ただ、いつ落下したのか、どうして落下したのかの記憶がなかった。彼の死を知ったのはベッドの上、転落事故という事であった。


「きっと守ってくれたんだね」


お見舞いの言葉は、虚しいだけであった。



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望は鏡を見ていた。御守りのネックレスを外して、あの時彼に貰ったガーネットのネックレスを首に付け、深く息を吐いた。仏花の入った手提げを持って、今日は彼のお墓に向かう。そして夕方の18時頃、思い出の展望台に行く予定だ──。


彼女の姿を最後に見たのは、15時頃、彼女と共にお墓参りをした彼の母親であった。


「今からあの展望台に行ってきます。彼が、今年は満月と中秋の名月が重なると言っていたので。」


そう言って、別れたという。彼女の笑顔は悲しくも美しかったそうだ。




彼女の行方は誰も知らない。ただ警察の捜査によると、18時頃、「狼の遠吠えの様なものが聞こえた」と、展望台周辺地域の人々が言っていた事が分かっているらしい。


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