第28話『第三仏性』 第一段その2〔お前と呼ばれる誰もが仏性であり、このように現成しているのだ〕
〔『正法眼蔵』本文〕
世尊道の「一切衆生、悉有仏性」は、その宗旨シュウシいかん。
是什麼物恁麼来ゼジュウモブツインモライ《是れ什麼物ナニモノか恁麼インモに来キタる》の道転法輪なり。
あるいは衆生といひ、有情といひ、群生グンジョウといひ、群類といふ、
悉有の言ゴンは衆生なり、群有なり。すなはち悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ。
正当恁麼時ショウトウインモジは、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。
単伝する皮肉骨髄のみにあらず、汝得吾皮肉骨髄ニョトクゴヒニクコツズイ《汝、吾が皮肉骨髄を得たり》なるがゆゑに。
〔抄私訳〕
・世尊が言われた「一切衆生、悉有仏性」とは、どういうことか。「是什麼物恁麼来ゼジュウモブツインモライ」〈お前は何物?でこのように来たのか?という問いの言葉が、お前と呼ばれる誰もが、何物〈仏性〉がこのように現前しているのだという説法である〉という言葉は、六祖大鑑慧能禅師ダイカンエノウゼンジと新参者の南嶽ナンガク懐譲エジョウの問答のお言葉である。「衆生」「悉有」〈すべての存在〉「仏性」の何れもがこの道理である。その内の一つを一家の主人として説けば、「是什麼物恁麼来」のたぐいはありえない。これは、「衆生」も「悉有」も「仏性」も、皆同じ程度なので「恁麼来」〈このように現成している〉という道理なのである。
・「あるいは衆生といい、有情といい、群生グンジョウといい、群類という」とあるのは、衆生の別の名をあげられるのである。
・「悉有の言は衆生なり」とは、「悉有」〈すべて〉と「衆生」が一つであるということである。しかし、一般には、衆生は五蘊ゴウン(色受想行識)が集まっている身体であり、その身体内に仏性というものが具わっているが、修行しない時は顕れず、或いは善知識(善徳の智者)に従い、或いは経巻に従い修行する時は、仏性が顕れ、顕れれば即座に仏であると説く。だから、「悉」を「衆生」につけ、「有」を「仏性」につけて「衆生には悉コトゴトく、仏性が有る」と理解するが、今の「悉有シツウ」はこのたぐいではなく、「衆生は、悉く仏性である」(衆生はすべて仏性である)。
・「悉有の一分を衆生という」(すべてが仏である悉有の中の一分を衆生と言う)とあるのは、悉有は迷であり、悉有は悟であり、或いは悉有は生であり、悉有は死であると説いても、悉有は仏性であるから相違しない。けれども、今は、「悉有は衆生なり」という言葉を、「悉有の一分を衆生という」と書かれるのである。
・また、「正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり」(正にそのような時は、衆生の内も外も即ち仏性の悉有である)と言う。一般には、衆生の内にこそ仏性は有ると説くから、「衆生の内外すなはち仏性の悉有なり」と書かれることは理解し難いであろうが、今説くところの衆生は、仏性であるからには、衆生の内か外かは論ずるまでもなく、今更疑うべきもないのである。
・「単伝する皮肉骨髄のみにあらず」とは、物を相対せず区別せず、そのままその理の上で説くことを、「単伝する皮肉骨髄」と言うのである。例えば、尽十方界真実人体(全世界がそのまま仏の姿である)と説く言葉が「単伝」の「皮肉骨髄」に相当するのである。但しまた、このように説くだけでもない。「汝、吾が皮肉骨髄を得たり」と説く筋も有るのである。このことを表すために、「単伝する皮肉骨髄のみにあらず、汝、吾の皮肉骨髄を得たりなるが故に」(単伝する皮肉骨髄だけでなく、汝も吾れの皮肉骨髄を得ているからである)とあるのである。もっとも、このように、文面は変わっているように説かれるけれども、ただ同じことである。少しもその理は相違しないのである。
〔聞書私訳〕
/「世尊道の一切衆生悉有仏性は、その宗旨いかん。
/結局、「尽十方界は自己の光明」とも、「尽十方界は沙門シャモン(修行僧)の一隻眼〈肉眼以外の仏法上の片眼〉」とも説くからには、何が何に由ヨるとも由らないとも、言うことができないから、証不由他ショウフユタ(悟りは他に由らず)という言葉も容易に理解できるのである。
/「従無住本立一切法」〈無住の本より一切の法を立つ:一切の存在は基づくものがないという基本によって成り立つ〉という言葉がある。この道理によって、また、「是什麼物恁麼来ゼジュウモブツインモライ」〈お前と呼ばれる誰もが何もの〈仏性〉であり、このように現成しているのだ〉の言葉によって、仏性の意義も明らかにすることができる。例えば、一切とは何ものか、衆生とは何ものか、悉有とは何ものか、というほどのことを、まとめて「是什麼物」(これは何ものか)と言うのである。だから、この言葉が引用されるのである。「自証自悟」(自ら証し自ら悟る)と言うからといって、師について学ばず自ら悟るということはない。初祖(菩提達磨)が二祖(慧可)に伝法されたその時、初祖の皮肉骨髄〈仏法の全体〉を二祖に認可され、初祖の皮肉骨髄が、そっくりそのまま二祖の皮肉骨髄と成ったからこそ無師であり、これを「無師独悟」(師無くして独り悟る)と言うのである。世間の凡夫が師もなく、自ら悟るというようなのは、迷妄の考えであり信用するに足らない。
/衆生と説く時も、「説似一物即不中セツジイチモツソクフチュウ」(一物に似せて説くけれども即ち中アタらない)、悉有と説く時も、「説似一物即不中」、仏性と説く時も、「説似一物即不中」である。
/だからこそ、「是什麼物恁麼来の道転法輪」(是れ什麼物ナニモノか恁麼インモに来る」という問いがそのまま説法〈お前と呼ばれる誰もが何もの〈仏性〉であり、このように現成しているのだ〉)である。
/「悉有」の語に加えて、「即有」とあるのは、「悉有」よりは「即有」と言う方が一体であるからか、疑わしい。しかし、そうではない。「悉有」の言葉に仏性が極まっているが、やはり世間の人の心には、「悉有」をただの言葉だと深く固執する心がある所を除こうとして、「即有」と言うけれど、「悉有」と同じである。「悉有」の有は、例えば、「火の中に火が有り、水の中に水が有る」というほどのことである。別に物を置いて、有りとは言わず、ただ「仏性の悉有」は衆生である。
/「悉有の一分」とは、辺際の無いものの一分であり、決して二に対する一ではない。
/「単伝」とは、何かを受けて伝えるということではない。「衆生の内外」が、「仏性の悉有」である「単伝」である。汝ではない、誰でもない、とも言われる。だから、「単伝する皮肉骨髄」なのであり、汝はとりもなおさず誰なのである。誰がまた汝なのである。だから、衆生に仏性があると言う。だから、「汝得吾皮肉骨髄」〈汝という誰もが吾れの皮肉骨髄〈仏性〉を得ている〉である。
/天台の教義でも絶の意味合いでは、たとえば、薪を火に入れれば、火が燃え移って少しもとぎれずと見えるうちに、薪がなくなれば火も消えるように、今は対すべき物がないので絶待妙(比較・相対を絶してすべてを妙としてとらえること)と言うけれど、なんとかして妙と生死涅槃を一つにし、出会わせるまでのことであり、はっきりと仏性を悉有と使うほどのことはない。この意を『現成公案』の巻では、「諸法の仏法なる時節」(森羅万象が仏法である時節)で迷悟を一つに説くのである。これも迷悟を一つと言えばやはり相対する意味合いが残るから、「一方を証すれば一方は隠れる」と言う時に、仏性の本義が独立するのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
釈尊が言われた「一切の衆生は、すべて仏性である」(一切衆生、悉有仏性)の根本の趣旨はどういうことか。(世尊道の「一切衆生、悉有仏性」は、その宗旨いかん。)
それは、「是れ什麼物ナニモノか恁麼インモに来る」〈お前は何物でこのように来たのか〉という問いがそのまま説法〈お前と呼ばれる誰もが何物〈仏性〉であり、このように現成しているのだ〉である。(
或いは衆生と言い、有情(一切の生物)と言い、群生(多くの衆生)と言い、群類(多くの衆生)と言う。(あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ、)
悉有〈すべての存在〉とは衆生であり、群有(多くの生物)である。即ち、悉有は仏性である。仏性である悉有の一分を衆生と言うのである。(悉有の言は衆生なり、群有なり。すなはち悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ。)
正にそのような時は、衆生の内も外も即ち仏性以外の何ものもない。(正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。)
単伝する釈尊の法が達磨から真っ直ぐに伝わった弟子の皮肉骨髄だけではない、汝も〈汝と呼ばれる誰もが〉吾れの皮肉骨髄〈仏性〉を得ている〈自己としている〉からである。(単伝する皮肉骨髄のみにあらず、汝得吾皮肉骨髄(汝、吾が皮肉骨髄を得たり)なるがゆゑに。)〔達磨が四人の弟子に、「吾れの皮肉骨髄を得たり」と言って、それぞれに法を伝えた故事に触れながら、「一切の衆生は、すべて仏性である」ことを説いているのである。〕
*注:《 》内は御抄著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は著者の補足。
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