第17話『第一現成公案』 第十四段 〔身心に現前することは無我である全分のはたらきの宇宙的事実である:現成公案なり〕

〔『正法眼蔵』原文〕


うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。


しかれあれども、うをとり、いまだむかしより水そらをはなれず。只タダ用大ヨウダイのときは使大なり。要小のときは使小なり。


かくのごとくして、頭々ズズに辺際ヘンザイをつくさずといふ事なく、処々に踏飜トウホンせずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。


以水為命イスイイメイしりぬべし、以空為命しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。


以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。


修証あり、その寿者命者ジュシャミョウシャあること、かくのごとし。


しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかむと擬ギする鳥魚あらむは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。


このところをうれば、この行李アンリしたがひて現成公案す。


このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。


このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり。


しかあるがごとく、人もし仏道を修証シュショウするに、得一法トクイッポウ通一法なり、遇一行グウイチギョウ修一行なり。


これにところあり、みち通達ツウダツせるによりて、しらるゝきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽グウジンと同生ドウショウし、同参するゆゑにしかあるなり。


得処トクショかならず自己の知見となりて、慮知リョチにしられむずるとならふことなかれ。


証究ショウキュウすみやかに現成すといへども、密有ミツウかならずしも現成にあらず、


見成ケンジョウこれ何必カヒツ《何ぞ必ずしも何々ならん》なり。




〔抄私訳〕


この段はまた、水と魚、空と鳥の喩えである。つまるところ、魚と水、鳥と空は、それぞれ別のように思われるけれども、鳥が空を離れれば死に、魚が水を離れれば死ぬことは、明らかなことである。魚は「以水為命」(水を命とする)、鳥は「以空為命」(空を命とする)という道理の方より見れば、「以鳥為命」(空は鳥を命とする)「以魚為命」(水は魚を命とする)「以命為鳥」(空は命を鳥とする)「以命為魚」(水は命を魚とする)の道理であることを知った。世間の法でさえこのようである。人と仏法の関係を説かれる時は、「得一法通一法(一法を得て、その法に通ずる)、遇一行修一行(一行に遇い、その行を修める)である。


仏法は思慮分別によって知られると習ってはならない。「知らるる際の知るからざるは、この知ることの仏法の究尽と同生し、同参するゆゑにしかあるなり」〈知られる際が知られないのは、その知ることが、仏法が究め尽くすこととと共に生き共に行ずるから、知られないのである〉である。だから、「得処必ずしも自己の知見となりて、慮知に知られんずると習う事なかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有必ずしも現成にあらず」〈修行によって体得される処が必ず自己の知るところとなって、思慮分別に知られると習ってはならない。得一法通一法が究め尽している理が速やかに現れるといっても、あらゆるものが本来具有している真如の理〈密有:密なる有り様〉は、決して現れるものではない〉と説かれるのである。「密有」とは、一つ一つの法が本来具有している理である。人が決して造り出すことができるものではないから、「密有は必ずしも現成にあらず」と言うのである。《「証究」とは、「得一法通一法」が究め尽している理である。》


「何必」(何ぞ必ずしも何々ならんや)とは、例えば、「諸法の仏法なる時節」に、「迷あり悟あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり」というほどの道理であり、また、「説似一物即不中」(一物を説似せんとするも即ちあたらず)の道理である。一法〈一つのもの〉にも関わらない道理である。




〔聞書私訳〕


/「進歩あるべし、修証あり」などと言う。鳥は、空を足とも羽とも使うことができるのであるから、鳥の命の可能性を限ってはならない。 


/「進歩あるべし、修証あり、その寿者命者あることかくのごとし」〈進歩があり、修証があり、その寿命があるとは、このようなことである。〉と言う。


進歩・修証とは、身とも心とも言うことができる道理を言う。水や空や寿命ばかりに限らないのである。進歩・修証は、身の外側に空・水を置いてはならない道理を明らかにすることを進歩・修証と言う。〔魚鳥水空などと〕様々に現れる所を、進歩とも修証とも言う。この様々は寿命に限らず、意とも身とも言うことができる、「この外更に進歩あるべし」と言うのであるから。


/「寿者命者」のことは、小乗仏教で説くところである。今は、進歩・修証に限らず、様々あることを言うのである。


/「人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり」(人がもし仏道を修証するならば、一法を得てその法に通じ、一行に遇いその行を修めるのである)と言い、このことを表そうとする為に、魚鳥水空の言葉もある。 「得一法通一法」とは、得坐禅通作仏(坐禅すれば成仏に通ず)と言おうとするようなものである。人が坐禅する時、この功徳がどのようなものであるか知らない、そうであるけれどもこれは坐禅である。坐禅であるから作仏(成仏)であるから、「得処必ず自己の知見となりて、慮知に知られんずると習ふ事なかれ」〈修行によって体得される処が必ず自己の知るところとなって、思慮分別に知られるだろうと習ってはならない)と言うのである。また、「道通達せるによりて、知らるる際の知るからざるは」〈そこに道が通じることによって、知られる際が知られないのは〉とも言うのである。


この「しらるるきはのしるからざる」などという意は、「法の辺際を離」れないときには、法が一体であるはたらきはあるはずがなく、「法もし充足すれば、一方はくらし」と言うのは、この意である。


/「このしることの」という知は、思慮分別の知ではなく、坐禅は坐仏であると知られるほどの「知」である。


/「何必」と受けて、何れともとも定めないところを「何必」と言うのである。


/この「密有」は、「一切衆生、悉有は仏性なり」の有である。 


/「何必」を受けると言っても、「何必」がそのまま仏法である道理である。

くれぐれも仏法を理解する仕方は、よくよく考えて判断すべきである。善悪不二・邪正一如とも、事理無二(相対的な様々な現象と唯一絶対の真理は二つではない)・相体一如(ものの姿とそのもの自体は一つである)などと言うのを聞いて、ただ何もかも同じことだという連中がいる。また、「三界は安きこと無し、猶火宅の如し」(この世は苦しみが多く、あたかも火に包まれた家にいるように、しばしも心が安まらない)と言って、この世を厭えと教えることもあり、「三界唯一心・心外無別法」(三界はすべて一心である・心の外に別の法はない)という時もあり、「毘盧遮那仏ビルシャナブツ(宇宙の根源の仏)の身体と国土」という時もあり、「寂光浄土(仏が住む世界)の外に別に娑婆シャバ(俗世界)があるのではない」とも説く。


これらを皆自分の見解の方へことさらに引こうとしたり、或いは、「仏は一つの音声で法を説くが、衆生はその類に随ってそれぞれ理解する」と経文にあると、衆生の見方はその類に随うものだなどと言う。だから、どのようであっても衆生の心なのだと思う連中がいる。


このことは、仏が在世の時は、人の機をご存知で衆生の機に随って説法されたけれども、弾呵タンカ(方等時)淘汰チョウタ(般若時)の調熟の段階を経て、機を法華時の純一なる円教(『法華経』の一仏乗)に調えなさったのである。


今の「足」・「不足」という言葉もとりわけ分別すべきである。「一方を証すれば、一方はくらし」という意味合いがある。「不足」とは「充足」と理解するのである。「何必カヒツ」という言葉も「見成ケンジョウこれ何必なり」〈見えるものは、何々だと特定できるものではないのである〉とあるのは、有と説き、無と説くことは、皆「何必」(何ぞ必ずしも何々ならん)なのである。必ずいかなるものを「何必」と言うのだと理解してはならないのである。



『正法眼蔵』私訳〕


魚が水を行くとき、どこまで行っても水の限りはなく、鳥が空を飛ぶとき、飛ぶといっても空の限りはない〔、人が環境を行くとき、どこまで行っても環境の限りはない〕。(うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。)


しかし、魚・鳥〔・人〕は昔から水・空〔・環境〕を離れることがない。(しかれあれども、うをとり、いまだむかしより水そらをはなれず。)


ただ、大きく用いる時は大きく使い、小さく必要な時は小さく使うのである。(只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。)


このようにして、個々に空・水〔・環境〕の辺際を尽くさないということはなく、ここかしこで何かを踏んで飛び跳ねるということがないといっても、鳥がもし空を出ればまたたく間に死に、魚がもし水を出ればまたたく間に死ぬ〔、人がもし環境を出ればまたたく間に死ぬ〕。(かくのごとくして、頭々に辺際をつくさずといふ事なく、処々に踏飜せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。)


〔魚が〕水を命とすることを知るべきであり、〔鳥が〕空を命とすることを知るべきである〔、人が環境を命とすることを知るべきである〕。(以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし。)


〔空が〕鳥を命とすることがあり、〔水が〕魚を命とすることがある〔、環境が人を命とすることがある〕。(以鳥為命あり、以魚為命あり。) 


〔空が〕命を鳥とする、〔水が〕命を魚とする〔、環境が命を人とするに違いない〕。(以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。)


この外に、更に歩みを進めることができる。(このほかさらに進歩あるべし。)〔鳥は空を足としても羽としても使うことができる。同様に魚は水を様々に使うことができ、人は環境を様々に使うことができる。だから鳥や魚や人の命の可能性を限ってはならない。〕


修行と悟りがあり、そのはたらきとそのはたらきが終わる寿命があることは、このようなことである。(修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし。)


そうであるのに、水を究めてから、空を究めてから、水・空を行こうとする魚・鳥があるならば、〔悟りへの手順を確認してから、悟りに向かって修行しようとする人がいるならば、〕水にも空にも道を得ることはできず、処を得ることはできない、〔そのような人はどこにおいても、その道も処も得ることはできない〕。(しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかむと擬ギする鳥魚あらむは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。)


この処を得れば、この身心に生じる、見える・聞こえる・香る・味がする・体感がある・思いが浮かぶという自活動〈どうしようと思わなくても自ずから生じる活動・作用〉にしたがって、無我である身心の真のありようが現れる。(このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。)


この道を得れば、この身心に生じる自活動にしたがって現れるのは、無我である身心の真のありようである。(このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。)


この道や、この処は、大きくもなく小さくもなく〔大小を比較する分別作用の中の話じゃない〕、自己でも他者でもなく〔自他を区別する認識作用の中の話じゃない〕、過去からあるのでもなく、今現れるのでもない〔時間の経過という記憶作用の中の話じゃない〕から、たった今目の前に「これ!」としてあるのである。(このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり。)


〔人間の意識の根幹には、無い大小の比較・無い自他の差別・無い過去未来の観念がある。人間は観念世界の中で自分を仮想し、自分に都合の良いように物語を紡ぎ出そうとし、都合良くいかないと苦しんだりする。苦から脱却する根本の解決策は、物語を紡ぎ出したり苦しんだりする自分という観念を忘れ、自分など無いという根本事実に帰着し、今このようにあること、宇宙大の事実そのものに安らぐことである。〈帰家穏坐〉〕


そうであるように、人がもし仏道を修証〈修行が証り〉するときには、一つの法を得てその法に通じ、一つの行に遇いその行を修めるのである。(しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。)


そこに仏法が現前する処があり、そこに道が通じることによって、知られる際が知られないのは、それを知ることが、仏法が究め尽くすこととともに生きともに修行することになるから、知られないのである。(これにところあり、みち通達せるによりて、しらるゝきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽グウジンと同生ドウショウし、同参するゆゑにしかあるなり。)


修行によって体得される処が必ず自己の知るところとなって、思慮分別に知られるだろうと学んではならない。(得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられむずるとならふことなかれ。)


「得一法通一法」が究め尽くす理が速やかに現れるといっても、あらゆるものが本来具有している真如の理〈密有:密なる有り様〉は、決して現れるものではない。見えるものは、何々だと特定できるものではないのである〕。(証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必何ぞ必ずしも何々ならんなり。)


注:《 》内は御抄編者の補足。〔 〕内は著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。


合掌

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