第18話『第一現成公案』第十五段〔人が本来仏であるなら、何故修行するのかという、道元禅師の発心修行の原点〕

〔『正法眼蔵』原文〕                           


麻浴山マヨクザン宝徹ホウテツ禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、「風性常住フウショジョウジュウ、無処不周ムショフシュウ《風性は常住にして、処として周アマネからざる無し》なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ」。


師いはく、「なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらず」と。         


僧いはく、「いかならむかこれ無処不周底ムショフシュウテイの道理」。   


ときに、師、あふぎをつかふのみなり。僧、礼拝す。       


仏法の証験ショウケン、正伝ショウデンの活路カツロ、それかくのごとし。   


常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬおりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。      


風性は常住なるがゆへに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河チョウガの蘇酪ソラクを参熟サンジュクせり。  


正法眼蔵現成公案第一                    


これは天福元年中秋のころ、かきて鎮西チンゼイの俗弟子楊光秀にあたふ。



〔抄私訳〕                                


風の本性は常住(風性常住)である。それなら扇を使わなくても、常住である風はあるはずである。それなのに和尚はどうして扇を使うのかと、疑っていると思われる。まったく、この疑いは当を得ていないから、麻浴は、「お前は風の本性は常住であることを知っているといっても、風の行き渡らない処が無い(無処不周底)という道理を知らない」と斥けるのである。


風の本性は常住である道理の上で扇を使うとしたら、決して常住の道理に背くことがないから、繰り返し扇を使うのである。道理に背くなら、使わない時の扇は何処に置くというのか、いかにも不審である。


これについて、僧の礼拝が当を得ているのかどうかは、この巻の文面に見ることはできないが、礼拝したことは、きっと趣旨を得たのであろう。


また、「仏家の風」は、十方のあらゆる世界が皆仏の風ということである。淡い水、下等な大地であるが、仏の風と説く時は黄金や蘇酪ソラク(乳製品)と成るのである。また、「如何なるか無処不周底の道理」と言うような時は、こぶしを挙げるとか一棒を下すとかしても、その道理は違わない。そうであるのに、このようにすれば扇を使うのをとがめられたように見えるから、繰り返し扇を使うところが、とりわけ、「無処不周底(行き渡らない処が無い)の道理」と一体なのである。 


〔聞書私訳〕                        


/問う僧は世間の風の心を問い、宝徹禅師は仏家の風を答える。例えば、三界は唯一心であることを現成させ、諸法は実相であることを熟成させると言うほどの言葉である。    


/風に関して扇とも説き風とも言えば、仏家の説ではない。         


/しかし、涅槃経を講じた時、その功徳によって地を黄金とし、水を蘇酪ソラク(乳製品)にしたことがあった。《梁リョウの武帝が『涅槃経』を講じた時、天から花が降り、地が黄金と成った。》    


これも俗世間の見解にほかならず、愚かなものを勝れたものに変えたためである。「父母が未だ生まれる前の面目は何か」と問う時、扇を使うことがあった。これこそ爽やかな仏家の風であり、この意によって考えれば、ますます扇を使って風性を示すことが理解できない。また、風を問うているのではなく、また風によって「父母が未だ生まれる前の面目」と言うのでもない。この扇を使うことは特別な事情はなく、ただ、今目の前にあるものによって示すだけのことである。


/繰り返し風の評定について扇を出せば、この風についての見解は世間の見解に惑わされたものとなる。たとえ風性が常住であっても、無処不周(行き渡らない処がどこにも無い)であっても、仏法は世間で吹く風にも限定されず、扇から出る風にも関わらず、黄金を風と使い、蘇酪ソラク(乳製品)も風と使うことができる。地と黄金、水と蘇酪も依然として相対して言う感じであり、仏家の風には依然として及ばない。       


/「風性常住の道理を知ると雖も、未だ無処不周底の道理を知らず」(風性常住の道理を知っているといっても、未だ無処不周底の道理を知らない)とは、


/例えば、「三界は唯一心である」の道理を知っているといっても、「心の外に別の法無し」の道理をまだ知らないようなものである。                    


/「諸仏は常住にして処として周からずということ無し」(諸仏は常住であり、行き渡らない処がどこにも無い)とも言うことができる。   


/「衆生は常住にして処として周からずということ無し」とも言うことができる。    


/「用弄ヨウロウ即弄用ロウヨウ、置即置」と言うことがある。この意は、「必要に応じて弄モテアソび(手に持って遊び)打置く(ちょっと置く)」である。「無処不周」(行き渡らない処がどこにも無い)の上では、扇を使うか使わないかを、ただ心に任せるようなことこそ、「無処不周」の道理であり、このことは、「用弄即弄用、置即置」に当たる。            


/そもそも祖師(麻浴山禅師)は僧の「風性常住」の言葉を許しているようであるが、本当は許していない。「三歳の子供は言い得ても、八十歳の老翁でも行じ得ない」というほどのこともある。つまるところ、「風性常住」と「無処不周底」の言葉は、同じと心得るのである。だから、先師も「風性常住」の御言葉はあるが、「無処不周底」の句は取り上げて論じられてはいない。「風性常住」を論じる所に譲っているからである。                   


/そもそも祖師の言句を、今の『正法眼蔵』に引用して載せられることには、皆理由がある。また、『諸悪莫作ショアクマクサ』の巻には、道林と白居易ハッキョイイの問答がある。これは「諸悪莫作、衆善奉行」の文にちなんで載せられたと思われる。今の『現成公案』の巻に、「風性常住、無処不周底」の公案が出てくることは理解し難いことだが、どうか。        


/答える。確かにこのことに不審が無いわけではない。けれども、衆生と諸仏と、迷と悟とが等しいような時は、「無処不周底」(行き渡らない処が無い)の道理と同じである。大地を黄金と言い、大河を蘇酪と言う、仏家の風もまたこのようであるのは、「諸法〈森羅万象〉が仏法である時節」であって、どんなことにも「無処不周底」の道理であるはずがないから「風性常住、無処不周底」の公案を載せられたのであると理解すべきである。  


正法眼蔵現成公案第一                    


これは天福元年中秋のころ、かきて鎮西チンゼイの俗弟子楊光秀にあたふ。



〔『正法眼蔵』私訳〕                           


麻浴山宝徹禅師が、あるとき扇を使っているところに、ある僧が来て問うた、「風の本性は常に存在し、行き渡らない処がどこにも無いのに、どうして和尚さんは更に扇を使われるのですか」と。(麻浴山マヨクザン宝徹ホウテツ禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、「風性常住フウショジョウジュウ、無処不周ムショフシュウ《風性は常住にして、処として周アマネからざる無し》なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ」。)        


師は言った、「お前はただ風の本性が常に存在するということを知っているが、 行き渡らない処がどこにも無いという道理を知らないな」と。(師いはく、「なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらず」と。)            


僧は言った、「では、行き渡らない処がどこにも無いという道理とは、どういうことでしょうか」と。(僧いはく、「いかならむかこれ無処不周底ムショフシュウテイの道理」。)                   


その時、師は、扇を使うだけであった。僧は、師を礼拝した。(ときに、師、あふぎをつかふのみなり。僧、礼拝す。)           


仏法の確かな証アカし、正しく伝えられた仏法の活き活きとした発現とは、このようなものである。(仏法の証験ショウケン、正伝ショウデンの活路カツロ、それかくのごとし。)〔師が言葉ではなく、扇を使うという行為で示し、その真意を会得できた僧が、言葉ではなく礼拝という行為で応えたところが、仏法の証験、正伝の活路である。〕         


風の本性は常に存在しているから扇を使わなくてもいい、扇を使わない時も風を感じるはずだからと言うのは、常に存在していることも知らず、風の本性も知らないのである。(常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬおりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。)   


風の本性は常に存在しているから、仏家〈仏道修行者〉の風は、大地が黄金であることを現成させ、大河の水を蘇酪ソラク(乳製品)に熟成させるのである。(風性は常住なるがゆへに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河チョウガの蘇酪ソラクを参熟サンジュクせり。)〔道元禅師が、「雲収オサマリて山骨露れ、雨過ぎて四山低し」と詠じられたように、山が「グワーッ」と存在する。自己が忘じられ、すべてと一体である密有なる宇宙的風景が目の前に現れるというほどのものであろうか。〕


〔この段の風〈仏性〉と扇〈修行〉の公案の奥底には、出家された道元禅師が出会われた「本来本法性、天然自性心」(人は本来仏であり、その本性は清浄である)の言葉がある。人が本来仏であるなら、何故修行するのかという、必死の覚悟で荒波を越え南宋に渡り法を求められた発心修行の原点がある。〕 


これで正法眼蔵第一現成公案の巻を終える。(正法眼蔵現成公案第一)これは西暦1233年(道元禅師33歳)中秋の頃、書いて九州の俗弟子の楊光秀に与える。(これは天福元年中秋のころ、かきて鎮西チンゼイの俗弟子楊光秀にあたふ。)


注:《 》内は御抄編者の補足。〔 〕内は著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。


                                 合掌






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