第5話『第一現成公案』第二段 あらゆるものは無我である

〔『正法眼蔵』原文〕                                万法マンボウともにわれにあらざる時節、                        まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。           


〔御抄私訳〕                                                 この「われ」は万法の「われ」〈あらゆるものと一体であり無我である自己〉であり、吾我〈実在していないが、観念の中で在ると錯覚される自己〉の「観念のわれ」ではない。〔観念とは、人間が意識の対象について持つ、主観的な像で、心理学的には、具体的なものがなくても、それについて心に残る印象でしかない。〕この「無し」の語は、有無が相対する「無し」ではない。仏性の上において有無を論じるのは、或いは、「即心是仏ソクシンゼブツ」(この心がそのまま仏である)の上での「非心非仏」(即心是仏の言葉に執着した者に、心にあらず仏にあらずと説いたが、両方同じ道理)であり、会エ(分かる)の上での不会フエ(分からない)、見仏(仏を見る)の上での不見仏(仏を見ない)というほどのことである。しかし、これも現前するあらゆるものが究め尽している時は、諸仏〈無我に目覚めている人〉と衆生〈思いの中にしかない自分に振り回わされている人〉とを分ける境目もないから、これを「無し」と言っても支障はないのである。                      


〔聞書私訳〕                                    /第一段の「有り、有り」を「無し、無し」に替えて、「諸法の仏法なる時節、即ち迷無く悟無く、諸仏無く衆生無く、生無く滅無し」とも説くことができるのである。しかし、仏法で「無明(真理に暗いこと)即(すなわち)法性(法の性質)、法性即無明」などと説いているからといって、善も悪もただ同じことだという誤った考えの連中がいる。このような考えには、十分に注意しなければならない。                           


/例えば、世間に火があり、この火が民家を焼き払い、人畜をも焼き殺し、また堂塔、仏像、経典をも焼くことがあるが、またその後に堂塔を造るときも、仏像を作るときも、火を用い離れることはない。旨として仏には燈明を挙げ焼香を用いる。そうであるけれども、火が及ぼす善悪は天と地ほどの違いがある。このように、目の前のものについても明らかに見ることができる。今の迷悟は仏法上のことである。善悪も迷悟もただ同じことだと言ってはならない。この火の喩えにおいても明らかである。                  


/この第二段は前後に連ねて、前の第一段と同じことを再び説いているのである。「諸法の仏法なる時節」(森羅万象が皆仏法である時節)こそ、この段の「万法のともに我にあらざる時節」〈あらゆるものが皆、無我である時節〉である。前の段で、迷悟・修行・生死・諸仏衆生「有り」と言ったが、どれも世間で言う「有り」ではない。あらゆるものが仏法であるようなときは、迷悟、仏衆生、生滅と言うことはない。今、「無し、無し」と言うのも、前の段でただ「有り、有り」と言うのと同じである。有無の字を世間のように使ってはならない。仏法でない時に、迷と言うことができるであろうか。仏法なる時節にのみ、迷と言うことができるのである。迷だけがあるような時は、誰が迷という名をつけることができようか。


『法華経』の『方便品ホウベンボン』(衆生救済のための便宜上の手段の章)という名は理解し難い。実相(真実のすがた)を説く章であるから実相品とも言うべきか、あるいは方便実相品とも言うことができる。そうであるのに、『法華経』以前に説かれた経を『方便品』と言うのである。〔この一文は御抄の原文が不鮮明のようです。以前の経と今の経で方便の意味が異なることを言う。〕


或いは、二乗(声聞乗と縁覚乗)の教えも、自分自身は方便であると知らないし、方便であると言わない。今の法華の時に、二乗の人がその教えが方便であると知った時に、方便であると説くところに、そのまま実相(真実のすがた)は現れるのである。実相が現れるとき方便の言葉が出て来るように、「迷」とは「仏法なる時節」に言われるものだと知るべきである。


「迷」というのも、「悟」というのも、日頃の我々のものの見方と同じはないから、並べて「迷悟有り」と説くのである。悟も迷に対して理解した時の悟ではないのである。「仏」も「衆生」もまた同じであり、「尽十方界真実人体」(十方のあらゆる世界はそのまま仏の姿であり、仏性の顕現である)の衆生である。仏と説くときは、衆生を残すことはない。悟と説くときは、迷が残ることはないと言う。これも、一重ヒトエ(それ一枚だけで他と重ならないこと)の道理である。親切に言うときは、ただ「迷悟」二つ並べて言っても支障がないことを、「仏法なる時節」と言うのである。      


〔『正法眼蔵』私訳〕                                あらゆるものが皆、無我である時節、(万法ともにわれにあらざる時節、)                迷いと悟り、諸仏と衆生、生と滅とを分ける境目がないので、皆「無し」といっても支障はないのである。(まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。) 


〔『正法眼蔵』評釈〕                                         「あらゆるものが皆、無我、つまり我れが無い時節」と、何を突拍子もないことを言い出すのかと思われるかも知れませんが、それについて少し説明します。


ご承知のように、人間には一般的に五感プラス意識が具わっています。見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るの五感と、思うという意識です。人間以外の哺乳類にも五感が備わっていますが、意識機能は人間ほどには具わっていないようです。この意識機能のお陰で人間は、食物連鎖の圧倒的頂点に立ち、高度な人間文明を享受することができているのです。


一方、人間はこの意識機能によって「我れ有り」と錯覚し、この「自分」が幸不幸を感じ、幸を求め不幸を厭い、期待通りにいかないと怒ったり、悲しんだり、苦悩したりして、悲劇が世界中に溢れ出していると言えるような状況です。フランス哲学者デカルトは、思索の果てに「我れ思う故に我れ有り」と言い、近代的自我という錯覚が誕生しましたが、現代脳科学者たちは、我れ・自分・自我などというものは、大脳や身体や宇宙のどこにも物理的には存在しておらず、「自分という思い」にしかすぎないということを証明しました。


しかし、人類はあらゆるところで「自分という思い」の満足最大化を求めて、戦いを休みなく繰り広げています。「自分という思い」が暴走すると、極端な場合、自分が所有していると錯覚している身体のトータル消去(自死)を企てたりすることがあります。或いは、「自分という思い」の満足最大化を求めるあまり、人間種以外の生命を膨大に奪い続け絶滅危惧種が極端に増え続けています。更には、自国の安全保障を名目に原子爆弾を含む大量人間殺戮兵器を使用して、他国の人間を大量抹殺しても致し方ないとする独裁者が現れ、人類文明社会壊滅の危機が迫っているような感じもし始めています。 


ここで思考実験です。例えば、犬が何かにぶつかられて、大変痛かったとしましょう。犬は、五感機能で「キャン!痛い!」と感じます。しかし、犬は意識機能が人間ほどにはなく、長期記憶もほとんどないようなので、「キャン!痛い!」これで終わりのようです。ついでに言えば、犬は餌をくれる人間を覚えていて、その人間が「ジョン」とか発声すると餌をくれるんだと思い、尻尾をふったりするくらいのことはできますが。一方、人間は犬のようにそう簡単にはおさまりません。「痛い!この野郎いきなり跳び出してきやがって謝りもしない、けしからん、殴ってやろうか」などと思いが次々と浮かんできます。自分が一番大事だという思いでおおわれている個人間、集団間、国家間でいざこざが絶えず、人間種の絶滅の日は近いと警鐘を鳴らしている悲観論者も少なからずいるようです。        


一方、日常生活をしている時の「自分という思い」(自我意識)はどうなっているでしょうか。「自分が〇〇をする」というふうに自分の大脳からの指令であらゆる自分の活動がなされているに決まっているじゃないか、と言われるかもしれませんね。でも、本当にそうでしょうか。例えば、呼吸ですね。自分が呼吸していると意識することは、特別な状況下ではあるでしょうが、大半の時間はほとんど何の意識もなく呼吸しているのではないでしょうか。意識なんかするとかえって呼吸困難になりかねませんよね。食べる時、意識しなくても(思わなくても)食べ物はちゃんと口に運ばれます、目には運ばれませんよね。思おうと意識しなくても自然に思いが浮かんで来るのではないでしょうか。そこには、「自分」という思いは介在していない、のではないでしょうか。ふと、向かうと〇〇がある。見ようと思わなくても(意識しなくても)、見える。聞こうと思わなくても聞こえる。味わおうと思わなくても味がする。同じように、香る、触覚がある、思いが浮かぶ、歩く、坐る、立つ、などなど・・・様々な活動は、ほとんど「自分」が〇〇するという意識なし〈不思量底〉に半自動的になされているのではないでしょうか。 


このような時、意識されませんが、この身心は解脱し安らぎの中にあり、もとから身心脱落・脱落身心しているのです。これが、「万法マンボウともにわれにあらざる時節」〈あらゆるものが皆、無我である時節〉です。このようなありようが、仏のありよう、仏法です。このような法の身であるこの身心の働きに感謝合掌礼拝します。


*注:《 》内は御抄著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は著者の補足。

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