第4話『第一現成公案』第一段その2〔私訳、評釈〕
〔『正法眼蔵』私訳〕
森羅万象が皆仏法である時節、(諸法の仏法なる時節、)
即ち、迷悟が有り、修行が有り、生が有り、死が有り、諸仏が有り、衆生が有ると言うけれども、仏法上で言うので支障はないのである。(すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。)
〔『正法眼蔵』評釈〕
一般に言う「諸法」と、仏法に言う「諸法」とは違うのです。一般に言う「諸法」は、こちらに自分がいて向こうにものがあると見るのですが、「仏法なる時節」には、向こうにものがあると思われているものは、そうではなくて、それは身心の今のありようなんだよ、法身の今の様子そのものなんだよ、それが「諸法の仏法なる時節」なんだよと、道元禅師はおっしゃるのですね。
この身心のすべてのはたらきが、仏法で言う「諸法」(森羅万象)なんですね。向かえばあるのです。見ようと思ったから見えたのではないのです。向かえばいきなりあるのです。音がすればあるのです。聞こうと思ったから聞こえたのではないのです。音がすればいきなりあるのです。それがこの身心のありようなんですね。眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境と一つになって、この法身の今のありようが目の前に現れるのです。縁に触れて理由なく、壁になり、畳になり、鳥の声になり、線香の香りになり、お茶の味になり、暖かさになり、思いになり、苦しみになり、喜びになり、青空になり、夜空になり、月になり、星になり、カーテンになり・・・と次から次へと変化していくのです。すべてこの身心の現れです。森羅万象はこの身心と宇宙と一つになって現れる宇宙の壮大なはたらきです。思いの中にしかない自分という思いが忘ぜられ、「諸法の仏法なる時節」である宇宙がこの身心を通して現れ、この身心を通して壮大な宇宙が千変万化しているのです。〔極小は大と同じく 境界を忘絶す、極大は小に同じく 辺表を見ず。『信心銘』〕
「諸法の仏法なる時節」には、迷と悟、迷悟と修行、生と死、衆生と諸仏など人間の相対概念(他の概念と相関してはじめて存在しうるような概念)は、「迷」〈思い中にしかない自分を中心として振り回されること〉があるから「悟」〈無我に目覚めること〉があり、「迷悟」があるから「修行」があり、「生」があるから「死」があり、「衆生」〈思いの中にしかない自分を中心として振り回される人〉があるから「諸仏」〈無我に目覚めている人〉があるとも言えるのでしょう。同様に、善い悪い、好き嫌い、幸不幸、勝劣、大小、左右、上下、前後などあらゆる人間の相対概念は、一方が有るから一方が有り、一方が無ければもう一方は無いのです。しかも、このような人間の相対概念は、人間が観念の上で想像したものでしかなく〈観念とは、人間が意識の対象について持つ、主観的な像で、心理学的には、具体的なものがなくても、それについて心に残る印象でしかなく〉、物理的には全く存在していません。つまるところ、迷悟も、生死も、諸仏衆生も、人間の相対概念でしかないので、皆有るのでもなく無いのでもない、と言っても支障がないのです。存在するのは、宇宙のはたらきであるこの身心の、法身であるこの身心の今の様子だけです。
実に、諸法は仏法だ、すべては仏だ」と、道元禅師様、あなたはおっしゃるのですね。感謝合掌礼拝します。
*注:《 》内は御抄著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は著者の補足。
合掌
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