堕天使の呪歌

きさまる

堕天使の呪歌

 そこに動くものは何も無かった。

 ただ渦巻く風の音が、不安を煽るコーラスを奏でるだけ。

 遥か彼方まで折り重なる山脈の峰々が見えるのみ。


 彼女は、喉だけでなくその身をもさいなむ呪いの旋律を止めた後、耳を澄ませていたのをやめた。

 だがもはや完全に動かなくなった、かつての仲間達の方へ顔を向ける事は決してしなかった。


 ここへ辿り着くまでに彼女を必死に守ってくれた仲間たち。

 そのうちの一人は彼女が特別な想いを寄せた、戦士にして勇者。

 彼もまた、彼女の恋慕の情を受け止めて応えてくれた。


 だが、彼はもう動きはしないだろう。

 それよりも彼の、勇者の姿を見るのが怖かった。

 あの彼女がときめいた表情を作る事のできる彼が、勇者カルマートが醜く変貌した姿など。



 山頂近くの切り立った崖の上に佇む彼女は、深いため息をつく。

 そして目の前に広がる光景を再び眺めた。

 広がる山脈の峰々が、世界を滅ぼす悪龍たちの背中だとは、倒した本人の彼女が見ても未だに信じがたい。

 だがそれは事実。


 彼女だけが歌える呪いの旋律。

 わざわいをもたらす歌によって、悪龍を全て討ち滅ぼす事が出来たのだ。

 聴く者の精神を破壊し、その肉体をも醜く歪ませ作り替えてしまう呪いのちから


 世界を滅ぼさんとする悪龍を討ち取るには、もはやこの方法しか残されていなかった。

 彼女の呪いの旋律しか、悪龍に通じる攻撃が残っていなかった。



 その代償もまた大きい。

 呪いの歌は、耳を塞いだ程度では防げない。

 ましてや戦いの最中に歌われた時に、耳を塞げる訳がなかった。


 仲間は、そして彼女の想い人は、歌を聴くたびに少しずつ手足が歪み捻れていった。

 それでもその精神は変えず変わらず、彼ら仲間は彼女を守り通した。

 悪龍を全て集めたこの地まで。


 三日三晩。

 集めた悪龍を全て倒しきる為に、彼女は旋律を紡ぎ続けた。


 歌い続ける彼女を悪龍の攻撃から守るため、仲間たちも戦い続け、一人また一人と倒れていく。

 悪龍の攻撃に倒れた者も多かったが、彼女の呪歌に耐え切れなかった者も少なくなかった。

 呪いの旋律を聴いて、限界以上に身体を歪め捻れさせて命を落とした者。


 彼女の想い人である勇者カルマートもまた、その一人だった。


 彼女の口から紡がれる歌の、凄まじい呪いの力に身体をきしませながらも戦い続けた彼。

 肉体が変わりゆく苦痛にうめきながら最愛の女性を守り通すカルマートの姿を、彼女は直視できなかった。

 彼女を守る最後の一人となった勇者の気配が消えた時も、そちらへ顔を向ける事ができなかった。


 今はもう、彼女以外に動く者はいない。



 呪いの旋律は彼女自身をも苛んでいた。

 天使族である彼女の羽根もまた、捻くれ石化していた。

 彼女はもう空を飛ぶ事も、天の仲間の元へ帰る事も叶わない。

 そして恋慕ゆえに地上に降り立った彼女が愛した勇者も、もう存在しない。



 失ったものの大きさに打ちひしがれながら彼女は山を下りた。

 ヒトを救うために地上に降りた天使、その名はカペラ。

 彼女に勝利の喜びは無かった。

 カペラは地面に倒れるかつての仲間の姿から、最愛の勇者カルマートから、最後まで目を逸らし続けて決して視界に入れる事は無かった。



*****



 あの戦いからどれぐらい時間が経っただろうか?

 滅びかけていた世界にも再び生命が勢いを盛り返し、文明が復興していた。

 だがカペラにはそんな事はどうでも良かった。


 山奥に残っていた簡素な石造りの寺院の廃墟を棲家すみかに、世間から離れて隠遁いんとん生活を送っていた。

 かつて一緒に旅をし、共に戦った仲間の思い出を反芻はんすうしながら。

 特に、想い人である勇者カルマートの思い出を。




 彼女の存在はなかば伝説として世に広まり、時折ときおりふらりとカペラの助力を求めるヒトが現れた。

 ヒト……人間ではない。人型をした知的生命体。

 頭部に角を生やした、いわゆる鬼や悪魔と例えられるような種族。


 カペラがまう地までは険しく危険な道行みちゆきになるため、訪れる者は必然に勇者と呼ばれるに相応ふさわしい者となる。

 だが彼等が来てもカペラは陽のあたる窓辺に座り込み、ぼんやりと外を眺めて思い出に浸るだけ。

 それを、勇者の資格無き者だと判断された、と受け取った彼等。

 そうして「勇者」たちは肩を落として帰って行くのが常だった。



*****



 今日もカペラが耽溺たんできするのは思い出の世界。

 困っている人を見ると「助けに行こう」と言って、マントを翻して駆けていく彼の姿が眩しかった。

 まっすぐ前を見る勇者カルマートの、その横顔が好きだった。


 そんな彼女の元へ、また助力を求める者が現れた。

 真っ黒な鎧を着込み、真っ黒なマントを羽織はおり、真っ黒な髪をした立派な角を頭に生やした男。

 マントを翻しながらカペラが座する場へ力強く歩み寄り、自信に満ち溢れた瞳で見つめる。


 その姿は、ちょうどカペラが思い出の世界で一緒にたわむれていた勇者カルマートを想起させた。

 彼女の前にひざまずき、まっすぐカペラを見つめる表情が、思い出の中のいとしき男を連想させた。

 それは眼光の力強さに、思わず彼女が顔を赤らめながら目を逸らすほどに。




 世界を平定へいていしたいのだと角を生やした男は言った。

 いまだ騒乱あふれる世界に秩序をもたらしたいのだと。

 熱っぽく語るその声音にも、かつてカルマートが困っている弱者を助けに行くとカペラに語っていた声を連想させた。


 彼女は男に従ってしまった。

 男の力強い声に、立ち上がりズカズカ無遠慮に近寄る強引さに、有無を言わさぬ傍若無人さに。




 連れてこられたのはきらびやかな堂々たる城塞、目眩めくるめく装飾、彼女へかしずく角を生やした幾多の人々。

 カペラは人の多さに酔いそうになり、男に頼んで閑静な屋敷を与えてもらった。

 男にはそれを簡単に実行できるだけの力があった。

 男は覇王だった。


 おそらくこの覇王の目的は、カペラの呪いの歌なのだろう。

 しかし彼女に近寄ってくる所作に、カペラは勇者カルマートを見てしまった。

 きっと中身は全く違うのだと理性では分かっていても。


 彼に力を貸すのも良いかもしれない。

 カペラはそう考えていた。

 長く一人で過ごしてきたからだろうか。


 屋敷での生活に不自由は無かった。

 カペラの好みに合わせた豪華な食事、毎日のように沐浴もくよくすることの出来る豊富な水源、着回す必要のないほど溢れる服の数々、彼女を大切に扱う人々。

 普通の人が見たなら、不満など抱きようが無い生活だっただろう。


 だが精神的なつながりは無かった。

 皆、誰も彼もが他人を利用し踏み台にする事ばかりを考えていた。

 使用人たちでさえも。


 貴族の世界とは、権力側の世界とは、そんなものかもしれない……と割り切る事が出来なかったカペラ。

 彼女を連れ出した王が足しげく様子を見に来ていたのだけが彼女の息抜きになっていた。

 そうでなければ心が押しつぶされていただろう。




 そしてその日は来た。


 角を生やした人々の軍勢が目指すは、谷間にある簡素ながらも強固な砦。

 そしてその上に立つ見張り、相対するは覇王の率いる軍勢。

 王に連れて来られたカペラは砦の前に立たされた。


 砦の上に立つ見張りの姿は、獣と人間が混ざった見た目。

 角を生やした彼等とは違う方向に屈強そうな空気をまとっている。

 その彼らをまとめ上げているように見えるのが、狼のような顔立ちの気高い雰囲気の男。

 その隣には背が低く腹が突き出た豚のような者。


 いや、豚という言葉でも穏当な表現に思えるほど醜く歪んだ見た目だった。

 ただれたような肌、左右の対称性が完全に崩れた顔立ち、右目の上まぶたが腫れたようにただれており左目だけがギョロリと目立つ。

 あまりの醜さにカペラは思わず吐き気がこみ上げてきた。


 その彼等はカペラの姿を見た途端に、驚愕の表情を浮かべて身を乗り出してくる。

 狼のような気高さを持つ男と、醜く歪んだ豚モドキの者も同じく驚いた様子で。

 砦上の獣人の様子に、カペラを連れてきた覇王は満足気な表情。


 覇王は彼女に言った。

 奴らの信仰の対象が我らにくだった事に動揺したな、良い気味だ、と。

 信仰の対象であるオマエの呪いの歌で滅ぼされるのなら、下等な蛮族の奴等も本望だろう、とも。


 カペラは覇王へ振り返った。そして初めて彼の目を直視した。

 そこにあるのは、彼女をただの武器としてしか見ていない視線だけ。

 権力欲に溺れた、濁った目しか存在していなかった。

 彼に付き従う軍勢がカペラに向ける視線もまた、覇王と同じもの。



 彼らは歌だけを必要としていたのだ。

 私は、自身を彼らに受け入れられている訳では無い。

 この覇王にも!



 それに気付いた瞬間、目が覚めるような感覚と共にカペラの胸を真っ黒な絶望が満たした。

 カペラの口から呪いの旋律がつむがれる。

 忌まわしき歌は、谷間をたちまち覆いつくし人々に襲い掛かかった。


 それは、覇王の軍勢にも分け隔てなく。



*****



 今日もカペラは、山奥の廃墟の寺院で日がな一日を過ごす。

 以前と変わったのは、かたわらで身の回りの世話をする者が増えたこと。


 例の獣人を取りまとめていた、気高さをまとう狼男。

 その隣に付き従っていた、醜く崩れた小さな豚もどき。

 その二人が頼まれもしないのに、甲斐甲斐かいがいしくカペラの生活を取り仕切っていた。


 彼女の身の回りの事をやってくれるのは狼男。

 名はテヌートと言っていただろうか。

 男ながらに手慣れた手つきで、様々な事をやっていくのを疑問に思ったカペラ。


 里の女子供の世話をよくやっていたのだと、テヌートはカペラの疑問に答える。

 いくさの無い時にはよくそうやって女衆にこき使われていた、と彼は冗談めかしていた。

 なんでも先代族長の方針だったらしい。

 戦闘バカになるな、普段は女衆の助けになれ、と。


 もう一人はカペラの視界に滅多に入ってこなかった。

 あの醜い姿を見ると彼女は生理的嫌悪感に襲われてどうしようもなかったから、有難い話ではあったが。

 テヌートが言うには、雑用のほとんどは彼がやってくれているという事だった。


 名前は聞いただろうか?

 聞いたとしても、あのような吐き気を催す見た目の男の名前など、覚えたくもなかったが。

 姿をほとんど見せないのは、向こうもそんなカペラの態度を読み取っているからだろう。



 崩れた豚のなり損ないが公然とカペラの前に姿をあらわすのは、大抵は『勇者』が訪問した時だ。

 彼らの姿にほだされて、助けになろうと廃墟の寺院を旅立とうとした時、必ずと言っていいほど彼女の前に立ちはだかろうとするのだ。

 そして同時にテヌートもカペラの前に立ちふさがり彼女を引き留めようとする。

 いわく、彼等の目的はカペラの災いの歌だけなのだから、協力しても自身を傷付けるだけだと。


 そう、心だけではない。カペラの身体もまた傷つくのだ。

 彼ら二人が彼女の元で暮らすきっかけになった、あの戦いでカペラの口が紡いだ旋律。

 あの時に背中の羽根は、完全に石化して砕け散った。

 そしてその後も『勇者』に協力した先で、かなでた呪歌で、カペラの身体は傷付き続けていた。


 ──左手がじくれた木の枝のようになった。

 ──右足が石化した。

 ──左手も更に石化して砕け散った。

 ──その次に出かけて帰ってきた時など、右目から柘榴ざくろの花が咲いて失明していた。


 それでもカペラは彼女を押し止めようとする二人の獣人を邪険に振り払って『勇者』と出ていく。

 手を貸す『勇者』にカルマートの面影を重ねて追いかけるために。

 ……そして、醜い者を視界に入れたく無いがために。



 最後に戻って来たカペラは、石になった両足が砕けて無くなっていた。



*****



 テヌートが運んでくる食事を、寝床で身体を起こし残る右手で食べるカペラ。


 もう彼女は『勇者』に手を貸すことは無い。

 手を貸すことは出来ない。

 貸すべき手が存在しなくなったから。


 窓際のベッドで一日のほとんどを過ごし、時折テヌートに背負われ外を散策する。

 カペラは初めて、この廃墟の寺院を取り囲む自然の美しさに気が付いた。

 カルマートを連想する『勇者』が訪れなくなったからだろうか。

 彼女は少しずつ思い出の世界以外に意識を向け始めた。


 朝焼けの赤い光の暖かさ、刺すような昼の陽光。

 さえずる鳥の合唱、森の中を駆ける動物の伴奏。

 降りしきる雨音が恵みの低音を木々につぶやかせ、風が枝や葉に囁き声での会話をうながす。

 テヌートの背中から見る世界のまぶしさに、カペラは残された左目から涙を流した。


 身動きままならない彼女の身体を清拭してくれているのはテヌート。

 そうカペラが判断したのは、彼女がうなされて目覚めた時、決まって布を手に持つ彼がかたわらに立っていたからだ。

 苦しむ彼女の顔を見ていたからか、複雑そうな表情で。


 時折、そんな彼より離れた場所から、例の歪んだ豚の男が顔を覗かせている事もあった。

 カペラの視線に気が付くとすぐに姿を消したが、ギラつくその眼光にそのたび彼女は怖気おぞけを覚えた。

 そばに居てくれるのがテヌートだけなら、こんな思いをしなくて済むのに。

 その男を見ると、いつも彼女はそう考えるのがつねだった。


 だがカペラの思いとは裏腹に、テヌートは少しずつ彼女の元を離れることが増え始める。

 食料や衣服の材料を調達するためだ、と言っていた。

 そんな事もう一人にやらせたら良いのに、と彼の言葉を聞くごとにそう考えるカペラ。

 テヌートは心配し過ぎだ彼は決して不埒な男ではないと請け合ったが、あの男の目つきが恐ろしかった。


 だからカペラはテヌートが居ないときは眠れぬ夜を過ごすことになる。

 あの豚の出来損ないの小男にすら抵抗のすべを持たぬ、身動きままならぬ我が身を思いながら。




 久しぶりにカルマートの夢を見た。

 カペラの思い出そのままの彼に、お守り代わりの短剣を贈る夢。

 そうそれは彼女の、遥か昔の遠い思い出。


 勇者カルマートはそのカペラの贈り物を、嬉しそうに受け取ると丁重にふところに入れる。

 つばのところに特徴的な太陽の紋様があつらわれたその短剣を。

 そして光がこぼれるような笑顔になった後、真剣な目つきでカペラに礼を言うカルマート。


 どこかでこれは夢だと分かりつつも、カペラは目に涙が浮かんで仕方がなかった。

 そしていつもの、優しく撫でるように涙を拭き取ってくれる感触。



 そこで目が覚めた。

 いつもなら覚醒まで時間がかかるのに、今回はすぐに意識がはっきりした。

 それはカペラの本能的な部分の知らせだったのかもしれない。


 目の前には彼女に覆いかぶさるように覗き込んでいる、崩れた豚の顔。

 ただれ潰れて外側から見えない右目。

 暗がりだというのにギラギラと輝く左目。

 吐く息がカペラにかかる近さに顔がある状況に、彼女は恐怖の悲鳴をあげた。


 あとの事は分からない。

 気が付けばテヌートに抱き締められていたカペラ。

 右手の感覚が無かった。

 見ると石になって砕けた手首が見えるのみ。


 気持ちが落ち着いて部屋を見回すと、部屋のすみに瓦礫の山があった。

 ちょうど小柄な人間ひとり分ぐらいの量の……。

 カペラはそれ以上考えるのを止め、残った腕の部分をテヌートの身体に回して抱き返した。


 彼の懐に固い感触を感じる。

 見るとテヌートの服の隙間から、装飾が施された短い棒状の物が見えた。



 特徴的な太陽の文様が鍔の部分にあつらわれた、鞘に収められた短剣が。



*****



「食べられますか?」


「いつもありがとう、大丈夫よ」



 返答とともにテヌートの差し出すさじくわえるカペラ。

 辛抱強くかゆをカペラの口へ運ぶテヌート。

 今日も森は静かなさざめきに満ちている。


 あれから二人は廃墟の寺院を出ることにした。

 カペラがあの夜の事を思い出してしまうからだった。

 テヌートが森の中に簡素ないおりを作り、そこでカペラは一日過ごす。


 どこから摘んできたのか、毎日のように風信子ふうしんしの花をテヌートは持ってきて飾った。

 黄色や青い花の色が、不思議とカペラの心を癒してくれる。

 時折、アクセントのように黄色い麝香撫子じゃこうなでしこの花が加わることも。


 それはいまや、何も出来ない彼女の数少ない楽しみになった。

 自分の右目の柘榴の花も、綺麗に咲いていると良いのだが。


 テヌートはもうカペラの元を離れることはない。

 何もできないカペラの代わりに全てを行う彼は、戦わずとも彼女の勇者だった。

 弱き者へ手を差し伸べずにはいられない、心優しき勇者カルマートそのものだった。



「行きましょう。中にこもってばかりいては、心が駄目になってしまう」



 その言葉と共にカペラを背負い、毎日のように森を散策するテヌート。

 涼やかな音色を奏でる小川のほとりで腰掛け、二人でたわいもない話題で談笑する。

 白詰草しろつめぐさの咲き乱れる草原を横切り、緑と白のハーモニーを楽しむ。

 だがカペラは肝心な話をテヌートに切り出せなかった。


 ──貴方は本当はカルマートではないの?


 自分が発した呪いの旋律で狼のような姿に変わってしまったカルマート本人なのでは。

 あの時、テヌートの懐に見えた短剣を見た時。

 そう、遥か昔にカペラがおくったお守りの短剣を見た時から渦巻く疑問。

 鍔の部分の太陽をあつらえた文様は見間違えようが無い。


 ならばなぜ自分に正体を明かしてくれないのだろう。

 記憶を失っているのだろうか?

 今日も自分の中で疑問を堂々巡りさせるカペラ。


 今はただ、この時間が永遠に続いてくれれば。

 結局はそこに思考が辿り着く。

 そしてテヌートの毛が生えたたくましい背中に顔をうずめるのが常だった。




 彼女がそれを胸の内に収めたままなら、いつまでもそんな生活が続いていただろうか?

 だがカペラの疑問は幸か不幸か、現状維持の臆病な心よりも真実を確かめたい好奇心がまさった。


 記憶を失っているのなら、時間をかけて取り戻せばいい。

 覚えているのなら、以前の二人の関係に戻ればいい。

 見た目の変化が何だというのだ。

 自分も昔の姿ではないのだから。




「テヌート、話があるの。貴方の持ってる短剣の事で」



 意を決して切り出した。

 言ってしまえばあっさりしたものだった。

 自分は何故こんな簡単な事に長い時間をかけて悩んでいたのだろう。



「そうですか、俺もそろそろ話すべきだと感じていました。気が合いますね」



 言いながらもテヌートは彼女を背中に背負った。

 カペラは、彼女の勇者のぬくもりを感じながら身体を預ける。かすかに麝香撫子の香りがした。

 そのまま揺られながら、安らぎを感じながら思考する。


 ──今日が私達ふたりの、新たな出発の日になるんだ。




 風信子の花が咲き乱れる平原までやって来た。

 青く晴れた空の下、周囲に立ちこめる香りが鼻腔をくすぐる。

 テヌートはポツンと存在している小さな岩の上にカペラを座らせた。

 すぐに彼女へ背中を向ける。

 しばらくそのまま声を出さなかった。



「この話をする時はこの場所で、と決めていました」



 カペラに背を向けたまま、ようやく言葉を発するテヌート。

 そこで少しうつむき、沈黙。

 何か言葉を選んでいるような空気をまとっている。



「俺の……族長であり、父親でも──義父でもあった男が眠るこの地で」



 ようやく頭を上げると、そう言葉を続ける。

 何故か顔はカペラに向けなかった。

 彼女は昔、テヌートが語っていた事を思い出す。



「あなたに、戦がない時は女子供の役に立てと教えた先代の族長さん……」


「そうです。戦い方も教えてくれて、弱い人を救う心構えも叩き込まれました」



 テヌートはカペラが贈った短剣を持つと目の高さに持ち上げる。

 鞘に入れたまま、それを見つめていた。

 一瞬だけ見えた横顔には悲しみの瞳。



「素晴らしい方だったのですね」


「天使カペラこそが、我が身をかえりみず世界を救った救世主なのだと繰り返していました」



 かつて手を貸した覇王の言葉を思い出した。

 テヌート達の信仰の対象が覇王の側についた事が、テヌート達に衝撃を与えたと。

 それでなくとも彼がカルマートだとしたら、カペラが敵として目の前に現れたら驚愕するだろう。



「あなたを見れば、育てた族長さんがどれほど素晴らしい人だったかよく分かります。一度お会いしたかったですね」


「もう会ってますよ」


「えっ!?」



 テヌートが振り向くとカペラの胸に衝撃が走った。

 見下みおろすと、テヌートが持っていた短剣が突き立っている。

 彼女が贈った、太陽の紋様を鍔にあつらえたあの短剣が。


 痛みを感じるよりも状況が理解できない事がまさりテヌートを見上げた。

 カペラの目の前には表情の消えた狼の顔。

 ただ双眸そうぼうから溢れる涙だけがきらめいている。



「なぜあなたが……」


「この族長の、義父ちちの形見で仇を討つ日を待ち望んでいた。義父の無念を思い知れ」



 テヌートの口から思いもよらぬ形で飛び出した、カペラの想い人の名前。

 短剣を胸から引き抜くと、再び突き立てる。

 狼男の表情は変わらない。



「いつも義父は貴女を見ていた。いつも貴女のために動いていた。貴女に姿を変えられてもなお」



 短剣を引き抜き、突き立てる。何度も何度も。

 淡々と作業をこなすように。涙を流しながらも顔色は変えず。

 その事が、そして抑揚の無い、感情の無い話し方が、逆にテヌートの怒りの深さを実感させる。



「いつも貴女の涙を拭いていたのはカルマートだ。すぐに布を俺に押しつけて姿を隠していた義父だ。見た目が醜くても行為の崇高さは変わらないと俺たち一族に教えてくれた勇者カルマートだ」



 カペラの喉の奥から込み上がるものがあり、吐き出すと真っ赤な鮮血だった。

 テヌートは短剣を持つ手をゆっくりと、しかし躊躇ためらい無く上下させる。

 それよりもカペラは、たったいま耳にした話が聞き間違いではないかと思った。


 ──あの崩れた豚モドキが……そんな、まさか!?



「きっといつかは分かってくれると思っていた。見た目が変わろうとも同じ人なのだから。だから俺は少しでも義父と貴女が一緒にいる時間を作っていた。義父の正体に気付いてくれる事を願って」



 嫌だ。それ以上何も言わないで。

 私の行為の真実を突きつけないで。



「義父の亡骸なきがらは──あの夜いつものように涙を拭いていたカルマートを、あの恐ろしい歌で殺して石に変え砕かれたものは、いま貴女が座っている岩の下に埋めました、カペラ」


「な……ぜ……」



 何故カルマートの正体を初めから教えてくれなかったのか。

 そんなカペラの疑問をすくい取るようにテヌートは続ける。



「義父は、今の姿が貴女に不快感を与えている事に、ひと目で気付いた。そしてすぐに俺に口止めをした。自分が愛したひとに、世界を救った事を後悔して欲しくないからと」



 なぜ私はカルマートの事に気付かなかったのだろう。彼は最後まで一緒に戦ってくれたのに!

 薄れゆく意識の中でカペラは考えたが、すぐに思い出す。

 愛した男が醜く変貌する姿を見たくないからと、倒れたカルマートから目を背け続けていた自分を。


 そして、ああそうだ、カルマートは自分の行いを決して誇ったりはしなかった!

 それは彼にとって当たり前の行為なのだから!



「義父にとっては愛した女かもしれない。だが俺にとっては義父の仇だ。そして俺の一族を皆殺しにした悪魔だ」



 そうだ、テヌートや変貌したカルマートと出会ったあの時。

 覇王に呪いの歌しか求められていない事に絶望した私は。

 あの谷に居た者全てを呪歌で殺したのだ、テヌートの一族もろとも!



「貴女にとって何が一番絶望を与えるかを考えました、カペラ。俺の頭で思い付けたのは、貴女の信頼を勝ち取り、その後に貴女を裏切る事だけだった」



 テヌートは自分の服をはだけた。

 そこには、びっしりと張り付いた麝香撫子の花。

 それを見せつけるようにしながら、テヌートは言葉でカペラを打ちすえる。



「俺も長くは保たない。この花は俺の身体から生えていますから。義父が貴女に殺された時、俺も近くに居たのです。貴女の恐ろしい歌も当然聞こえました。以来、俺の身体はこの花の苗床です」



 カペラの胸に突き立てた短剣をそのままに、テヌートは手を離して地面にひざまずいた。

 肩で息をしながら、もう彼女へ顔を向けない。



「花が咲くたび……はは、この花に命が吸われていくのを感じます。身体が動かなくなる前に事を成せて良かった……」



 テヌートは動かなくなった。

 かすかに、最後に見るのが義父ちちが咲かせた風信子なら、と聞こえた気がした。

 残されたのは、命の灯火ともしびが消えようとしている四肢を失った堕天使だけ。


 カペラは岩の上に倒れた。身体を起こす力がもう無かったから。

 見上げる空はまばゆいばかりに蒼く澄み渡り、世界の全てを包み込んでくれている。

 カペラの残された左目から涙が溢れてきた。

 右目の柘榴の花は、涙を流す事さえ許してくれない。



 何が間違っていたのだろう。


 どうすれば良かったのだろう。



 真っ黒な絶望が込み上げる。

 それは自分へなのかテヌートへなのかカルマートへなのか。


 その絶望が、この理解が追いつかない状況が、やり切れない想いが向かう先。

 それがカペラの口から溢れ出た。

 まるで泣き叫ぶように。



 最後の命の灯火と引き換えに声を張り上げる。

 この世界から自分を消し去りたかった。

 カペラが最後の呪歌に込めた願いはそれだけ。





 風信子の花が咲き乱れる平原に、ポツンと立つ柘榴、足元には黄色い麝香撫子。

 それが周りの花に混じるように咲く。


 花が風を受けて、ささやくようにざわめいた。

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