違和感の正体

 解熱鎮痛薬や漢方薬。必要かもしれないと言われた全ての薬を飲んで、私は横になった。いつもなら大好きなバラエティ番組も全く見る気にならなかった。遠くから娘、果穂の声が聞こえる。


『うん、それじゃキティちゃんと……』


 もうじき4歳になる娘は私の天使だ。娘が元気でいる声を聞くだけで、元気が湧いてきた。その点については、ホテル療養じゃなくてよかったと心から思った。私は用を足すついでに、吹き抜けからちらっと下を覗いてみた。

 娘の果穂が横になりながらテレビを見ている。まだこっちには気づいていない。ふと見上げた時に、こちらに気づいた。はっ、という驚きの後の満面の笑み、それから全力で手を振ってきた。


「おとうちゃーん!」


 私はまるでアイドルにでもなった気分だった。私も思わず手をふり返した。本当なら今すぐにでも会いに行って抱きしめてあげたい。しかし、そうも行かない私は現代版ロミオとジュリエットを勝手に自分に重ねていた。


「あれ、飛沫大丈夫?」


 果穂の横から妻が現れた。マスクの上に覗く目は鋭く、声は冷たい。あんた、他の人にうつしたら承知しないよ、そんな声が聞こえた気がして私は逃げるように用を足すと、隔離部屋へと戻った。

 今から考えるとあの時が一番ましな状態だったかもしれない。地獄は深夜に訪れた。


 高熱とだるさ、頭痛、息苦しさでなかなか眠れず、やっとのことで眠れてもしばらくして目が覚める。息も苦しい、どことなく意識ももうろうとしてきて、その時間はまるで永遠に続いているように思われた。そして夜が明けた。


 時刻はすでに8時だった。ひょっとしたら妻が食事を用意してくれているかもしれない、そう思って扉を開けたが、そこに食事はなかった。


(昨日の19時には置いてあったんだけどな……昨日のこと怒ってるのかな)


 もともと食欲も無かった私は、とりあえず横になることにした。

 テレビを見る余裕も出てきた。ニュースでは宗教団体と政治の話や殺人事件などどの局も同じニュースばかり放映していた。特に興味があったのはコロナ関連だった。幸い収束へ向かっているらしいが、新たな変異株が出現したらしく、感染力は低いが重症化しやすいとのことだった。こんなのに罹らなくよかったな、と思っていると突然扉が開いた。妻が立っていた。私はじっと妻を見た。

 するとしばらくして妻はうつむくと、再び扉を締めた。ピシャリと音が響く。


(なんだったんだ、今のは。よっぽど怒ってるのか……)


 私は何もできず、ただ横になっていた。


 しばらくして尿意を催したため、再び部屋を出た。そしてまた吹き抜けの2階から下を見る。うつぶせの果穂が足をぶらぶらさせている。頬杖をついているのを見ていると、ほんとにかわいいな、と思う。また果穂が上に気づいた。


「あ!」


 黙って手を振ってきた。声を出すと気づかれるのを学習したのだろうか。本当に賢い子だ。すぐさま妻が寄ってきたのを見て、私はさっと隠れた。


「今ね、おとうちゃんが……」

「お父さん? そんなわけないでしょ、だって……」


(まずい、ばれた。隠れよう)


 私は急いでトイレに行った。それからそそくさと隔離部屋に戻った。


(これで昼飯も抜きかな)


 苦笑いをしていた私だったが、結局昼ごはんも来なかった。

 いやそれだけじゃない。夕ご飯も来なかった。いよいよ何か変だと気づいた瞬間、扉が再び開いた。妻が再びアイシールド、N95マスク、ビニールのガウンとフル装備で立っていた。そのまま黙って部屋の中に入ってくると、窓を明けた。それから無言で私が寝ていた布団のシーツを取り上げ、枕カバーなども外し始めた。

 すると階段をトコトコ上がってくる足音が聞こえた。きっと果穂だ。


「あれ? おとうちゃんは?」


 果穂、入ってきちゃだめだ、母さんに怒鳴られるぞ、と言おうと思う前に、妻はしゃがみ込み、涙を流し始めた。


「あのね、果穂。お父さんはもう……」


 ん? 何を言っているんだ。意味がわからなかった私は咄嗟に自分の手を見た。するとそこに手はなかった。足を見た、足もない。


(嘘だろ)


 途端に今見えている景色がぼんやりとし始めた。

 

(昨晩、私の身に何が……?)


 突如、朦朧としていた昨晩の記憶が一気に押し寄せてきた。

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