第9話 引金
「よ」
応接間に戻ると、引金がいた。
俺が普段着ているTシャツを着ている。背丈はそう変わらないので難なく着れているようだった。が。
「そのTシャツ……センス無くて、なんかごめん」
黄色の蛍光色に、中学生が着ていそうな訳のわからない英文が書かれているそれは、自分が着る分には問題ないが、人が着ている姿を見ると若干恥ずかしくなる。というかこの場合、申し訳なくなる。
「あー。これ? いいよ全然。これから居候させてもらおうっていう身だし。こんなことで文句言ってらんないでしょ」
そう言った後で小さく。
「ま、この服に関しては正直君の感性を疑うけど」
と付け加えられた。泣きそうだった。
「ところで。ずっと『君』って呼んでたけど、まだ名前聞いてなかったよね」
頭上には満点の星空が広がっている。
舞台は変わって、ここは雑居ビルの屋上。
俺たちは並んで、冷たいコンクリートの上に座っている。
「外で話さない?」と唐突に彼女が提案してきたのだ。時間が時間だし、近くにそれらしい公園もなかったので、仕方なくここに-----所々錆びた給水塔が寂しく鎮座するこの屋上に来たという訳である。
「ふゆえだなつき……季節の冬に木の枝。季節の夏に樹木の樹で冬枝夏樹」
「……ふーん。冬枝夏樹、ね。冬枝くんのご両親って、君と違ってセンスあるね」
「え?」
しきりに俺の名前を反芻していたかと思えば、彼女は突然そんなことを言い出した。
「だってこの名前、見事に対になってる。冬に夏。枝に樹。ほらね」
「言われてみれば確かに」
もう十七年ほど付き合っている自分の名前だが、その事実には今初めて気がついた。気付いたところで、俺の自分に対する無頓着さが浮き彫りになってしまっただけだったけど。
にしても俺の両親。あんまり彼ら彼女らのことは覚えていないが、確かにセンスはあるようだ。若干安直な感は否めないけれど、少なくとも俺よりはある。
「珍しい名前なんだし気付いてもよさそうだけどな……。ま、自分の名前なんかそうそう気にすること無いか。灯台下暗しってやつ?」
どうやら引金の中ではそういう結論に落ち着いたらしい。何かをやりったという感じで、ぐーっと伸びを始めた。一頻りそうしてから、不意にこちらに向き直って。
「ところで冬枝くん」
「なに?」
「ここからが本題なんだけど」
彼女は真剣な顔で。
「本当にごめんなさい」
そう言って、土下座した。
正直こうなると予想していた節はあった。
実際彼女が俺を怪獣にしたようなものだし。そのことに関して何も思っていないと言えばそれは嘘になってしまう気もするけど……。
「頭あげてよ、引金さん。別にもう気にしてないから」
「………え?」
「君のせいで俺が怪獣になったのは確かだし、そのせいであんな目にあう羽目になったけど。でも、君のおかげで俺は今こうして生きていられる。それもまた確かなんだ」
「………………」
「あのままだったらどの道怪獣に喰われて死んでたし。どう足掻いても死ぬ状況だった。-----だから改めてありがとう。引金さん。俺を、救ってくれて」
「…………………………」
彼女は俯いたまま、動かない。
何かまずいことでも言ってしまったのだろうか。
「…………どうして感謝なんか、するの」
くぐもった声。それは。
「私はあなたを殺したのに。救ってなんかいないのに。死ぬより酷い目にこれから遭うかもしれないのに。ただの『有難迷惑』なのに。どうして、そんなことが言えるの?」
まるで、泣き声のような。
「私は怪人なんかじゃない。人間にも怪獣にも劣る、『害悪』------イヴィル。何をやっても無様な結果にしかならない欠陥品。……どうせなら罵倒して欲しかった。殴り飛ばして欲しかった。殺して欲しかった、のに」
「…………引金、さん」
「残酷だよ。冬枝くん。こんな、半殺しみたいなこと」
弱々しく、引金御伽は言った。
『害悪』、イヴィル、欠陥品、『有難迷惑』。
彼女を縛る名前。
他人から肯定されることに慣れていないのは、どうやらお互い様のようだった。
かける言葉が見つからない。あるいは、独白に余人が入り込む隙など無いということなのだろうか。それともそれすら、思考放棄なのだろうか。
俺はただ、隣にいることしかできない。
今にも壊れそうな彼女の隣にいることしか。
いつか、彼女を救うことができたらいいと思う。
胸を張って、俺は君が救った人間第一号だと、言えたらいいと思う。
月が俺たちを見下して微笑んでいる。
贋作の心の中でその想いだけが、本物のような気がしていた。
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