深海の底、雪原の上
角砂糖
深海の底、雪原の上
重々しい潜水服を着込んだ人間が俺も含めて数十人、真っ暗な部屋の中で蠢いている。後ろから続々と入ってくる奴らとぶつからないよう、前へ前へとぎこちない動きで前進しながら。
少しすると、錆びだらけの扉がけたたましく閉まる音が聞こえた。それから部屋中にやかましいブザーが鳴り響き、同時に大量の水が流れ込む。潜水服を着ているお陰で音がこもっているのが救いだが、どこもかしこも五月蝿すぎやしないか?
少しして部屋の中が水で満たされると、今度は入ってきた扉とは反対側の扉が気だるげに開いた。そこはもう深海。それぞれヘルメットについているライトを点灯し、いつも通り作業を開始した。
俺達最下層に住む人間のほとんどが、このマリンスノーを集める仕事に就いている。動きにくい潜水服で持ちにくいホースを使い、そこら中の雪を吸って。一歩一歩、バランスを崩して転ばないように、ゆっくりと。
そうやって冷たく寒い深海で暫く作業していると、視界の隅にあの男が映る。今日こそは、と男がいつもの定位置で座り込むのを確認してから話しかけた。
『なぁ、あんた』
潜水服の中のマイクが相手のスピーカーに伝わる。ふいとこちらを見上げたそいつは『何か用ですか?』と返事をした。
『いつもここで座ってるけど大丈夫なのか?バレたら怒られるぞ』
そう、この男は他の奴らから死角になる崖っぷちの珊瑚礁でいつもじっと座っている。少しバランスを崩せば危ないこの場所は他に誰も来ないのだろう。もちろんうるさく言うつもりはない。もしサボってもバレない場所なら俺も混ぜてほしいと声をかけたのだ。男は俺の質問に笑っているようで、スピーカーから小さく息が漏れる音が聞こえた。
『ちゃんと集めてますよ。ほら』
言いながら、彼は足元のマリンスノーを指さした。海流の所為だろうか、他の場所よりも随分雪が深い。こうやって話しているだけでも俺達の足元にはどんどん雪が積もっていく。それを彼は座ったままホースで吸い上げていたのだ。なるほど、確かにこれなら歩き回らずとも大量の雪を集められそうだ。『それは悪かった』とその場を離れようとするが、声をかけられ足を止めた。
『折角だし一緒にサボりませんか?』
それが彼との出会いだった。
仕事をサボりたくなった時はその珊瑚礁に行き、他愛ない話をする。もちろん雪集めもやりつつだ。そうしてお互い名前も素顔も知らないまま、俺達は交流を深めていった。
*
その日の俺は真面目に仕事をしていた。
そろそろ腹が減ったなと考えていたら、ヘルメットの内側にへばりついてるランプがチカチカと点滅する。それが休憩の合図だ。嬉々として背中から伸びているホースの根元のスイッチを押せば、後は体を水中に浮かせるだけでいい。勝手に引っ張ってくれる。
深海の出口であり、海底都市の入口である部屋までたどり着くと、朝と同じようにブザーが鳴り今度は部屋に充満している水が抜かれた。余計重くなった潜水服を脱ぎ捨て食堂に赴く。早く温かいものを体に入れないと、海の底深くは寒くて凍えてしまいそうだ。
食堂入口に山積みにされている、代わり映えのしないインスタント麺を手に取ると、お湯を入れて空いている席を探す。
「グソク、あそこ空いてる」
いつの間にいたのか、アンコウが窓際の席を指さした。窓際はしんしんと降り積もるマリンスノーが一望でき、見るからに寒々しいから人気がないのだ。けれど他に空いている席もなし。しょうがないと2人でそこに座る。まぁインスタント麺は温かいし問題はない。
「よぉ二人共、景気はどうだ?」
話しかけられ顔を上げると、今度は腐れ縁の馴染みであるカイワが同じインスタント麺片手に現れた。
「いつも通り、今月の家賃を払うだけで精一杯だよ」
「つまんねぇなぁ。パッと明るくなるようなニュースはねぇのか?」
「ないね」と麺を啜りながら答える。
「ペンダントまだ見つかってないの?」
アンコウにそう聞かれ、俺は肩を竦める。つい先日、親の形見のペンダントを無くした。いつも首から下げているのに、紐が古くなっていたのかいつの間にか消え失せていたのだ。へとへとになるまであちこち探し回っても見つからず、もしや誰かが拾って売り飛ばしたのではないかと普段見もしない店まで覗いたが、未だに行方知れずのまま。
「どっかで見かけたら買っとくよ」とカイワに慰められるが慰めになっていない。
「知ってるか?」
突然聞こえた言葉に、三人揃って昼飯を啜っていた手を止めた。俺達の中の誰でもないその声は、どうやら通路を挟んだ隣りのテーブルから聞こえてきたようだ。数人がヒソヒソと喋っているらしく、つい聞き耳を立ててしまう。
「切符?」
「そう、手に入れた奴がいるらしい」
その言葉に小さく驚く。切符。そう切符だ。この生活から脱出する為の足がかり。
この国はいくつもの層でできており、階層が上がる程裕福、下がる程貧乏と、わかりやすい造りになっている。その中で俺達が住んでいるのは、どの層よりも暗く寒く、貧しい最下層にある深海都市。働いても働いても一向に暮らしは良くならず、その日を生きるのに精一杯な場所。治安も最悪。
けれど希望はある。それぞれの階層は行き来できるのだ。この深海都市にも、上に行くためのエレベーターが一つだけ街の中央に堂々と聳え立っている。しかし、その切符はとんでもなく高額で、借金でもしない限り簡単には手に入らない。欲しがっている人間は大勢いるのに、買えるのはほんのひと握りだけだ。
「誰が手に入れたんだよ」
「オクメって野郎。知ってるか?」
「どこにそんな金があるんだ?借金か?」
「だから噂だって」
そこで突然ブザーが鳴る。休憩時間終了の合図だ。残念だが噂話をしていた奴らはガヤガヤといなくなってしまった。
「さて仕事だ。行くぞ」
そう声をかけられても動こうとしない俺に「まさか今の話信じるの?」とアンコウが驚く。それに対して「いや…」と曖昧な返事をすると彼がボヤいた。
「どうせ持ってないよ。噂なんだから。それにほら、数年前だったかに切符を手に入れた奴いただろ?借金までしたのに、結局上の階層で仕事にあぶれてすぐ戻ってきた。どうせ手に入れたって意味ないんだよ」
そんなこと言われなくてもわかっている。上に俺らの居場所なんてない。それでも成功する奴だってわずかだがいるのは事実だ。その少数に入れるのではと夢を見てしまうのは、悪いことなのだろうか。
「でも怖いのは手に入れた後だよな。確かそいつも上に行くまで『家に泥棒が入った!』とかって騒いでたろ。買うのも一苦労だってのに」
歩きながらもカイワが話を続ける。「しかも俺が疑われたんだぞ」「日頃の行いだろ」という二人のやり取りも、更衣室に到着すると自然に途切れた。潜水服を各々手にしてガチャガチャと音を立てながら体を押し込んでいく。
「アイツだよ。オクメってのは」
突然、隣にいたカイワがボソリと呟いた。顔を動かさないまま、言われた方向に目線だけ向ける。ごった返した部屋の隅に、少し小柄な男が潜水服を着込む様子が目に入った。
「何かするつもりなら俺に相談しろよ」
カイワが冗談ぽく笑い、ヘルメットを被った。そこに「変に煽るなよ」と着替え終わったアンコウがため息をついた。
「別に何もしない」
そう言いながら俺もヘルメットを被り、深海に続く部屋に向かう。そして今しがた口に出した言葉とは裏腹に、バレないようオクメの傍に近寄った。
それと同時にブザーが鳴り、部屋に水が流れ込む。
扉が開くと、各々が腰に着いているホースを外し、地面に向けてマリンスノーの回収を始めた。全員が同じ格好をしている所為で一瞬見失いかけたが、彼が珊瑚礁に向かったのが見えた。
名前も顔も知らない男がいつも座っているあの場所だ。
彼はホースを下に向け、じっと雪を集めていた。あの男と同じように動かず、寒い暗い深海の底で。
*
いつも一緒にサボるあの男がオクメだった。
それを知ったところで何かできるわけもなく、それからもいつもと変わらない日々が続いた。いや、一つ変わったことと言えば、あの珊瑚礁に近づかなくなったことだ。なんとなく気まずいのと、どうせいなくなるのなら仲良くしても意味がない。と、そう思ったからだ。どちらにせよ、本当に切符を持っていたならの話だが。
それだってすぐにわかることだ。切符の日付がいつかはわからないけれど、長くても一、二ヶ月の内にいなくなるだろう。それでもまだいたのなら、タチの悪い噂だったと笑えばいい。
そうしていつも通り仕事をしながら、カイワとアンコウと愚痴りながら昼飯を啜る変わらない日々が過ぎていく。
けれど、その日はやってきた。
仕事も終わり、狭い古い我が家の玄関に帰りついたところ、いくら探しても荷物の中に鍵がない。ひっくり返しても、ポケットをまさぐっても見覚えのある形がどこにも見当たらない。
試しにドアノブを回すがしっかり鍵がかかっている。残念ながら、家に鍵を忘れただけかもしれない、という淡い期待は打ち砕かれた。大きな溜め息を一つついてから、俺はゆっくり帰り道を引き返す。無くしたとなれば、大家にどれだけ文句を言われるか。
しかしどれだけ目を凝らしても見つからず、道中を行ったり来たりを繰り返し、とうとう職場まで戻ってしまった。ほぼ諦めながら更衣室に入り、俺が着替えていた辺りを探す。大家になんて言い訳しようかと思考が泳ぎ始めたところで、なんと床の端っこにぽつんと取り残されているのを発見した。あぁ良かったと胸を撫で下ろし、鍵を拾い上げる。これで先程考えていた言い訳を大家に伝えなくて済んだ。
その時、ふと並んで干されている潜水服が視界に入った。本来なら所狭しと隙間なくぶら下がっているのに、そこにぽっかりと空間が空いている。丁度一人分だ。誰かが雪原に出ている。
確信はなかった。けれど何故か俺はオクメが一人で珊瑚礁にいる気がした。
今なら。今ならなんだ?
俺は潜水服をもぎ取ると体を急いで押し込んだ。
奴は一人だ。誰もいない。誰も見ていない。だからどうした?何をする気だ?
暗い部屋で海水が溜まるのもまどろっこしい。
早く。今なら奴を。奴をどうする気だ?
いつもの場所。確かに彼はそこにいた。相も変わらずじっと息を潜めて海中を見上げている。
珊瑚礁の前は断崖絶壁。真っ暗な、ここよりも寒く深い海の底。目の前でバランスを崩したと言おう。急いで背中のホースを引っ張りあげたが途中で切れていたと言おう。それから……それからどうする?それで切符が手に入るのか?
後ろから一歩、また一歩と彼に近寄る。手を伸ばして、背中に、手が、触れる。
しかし、あと少しのところで彼が振り向いた。
『あれ、あなたも来たんですか』
いつもの調子で、彼の声がヘルメットに響く。伸ばした手は行き場を無くして、不自然な動きをしながらそこらの珊瑚礁に触れた。俺が答える前にオクメが話し出す。
『ここの景色、好きなんですよね。仕事が終わった後でもわざわざ戻ってしまうくらい』
『でも、もう見納めだろう?』
吐き捨てた言葉に自分でも驚いた。けれど、俺の口は喋るのをやめようとしない。
『切符、手に入れたんだよな』
そう詰め寄る俺に、彼は今どんな顔をしているだろうか。潜水服で見えない表情は、より一層不安を募らせる。誤魔化すのか、驚くのか、反応を待つ。けれどその後の言葉は、意外な程呆気なかった。
『あの噂、信じてるんですか?』
酷く素っ頓狂な声に動揺するが、まだこいつが嘘をついている可能性だって捨てきれない。俺が何も言わないままでいると、彼の大きな溜め息がヘルメット内に響く。
『さっきも言いましたけど、僕はここの景色が好きなんですよ。上に行きたいなんて思ったことない。切符なんて手に入れたらさっさと高値で売り飛ばします』
それでも何も言わず、動かない俺に対して『そんなことより』とオクメは自分の背中から伸びている、ホースの根元のスイッチを押した。
『渡したい物があったんでした』
優雅に引っ張られていくオクメに、俺も慌ててスイッチを押す。そのまま二人で更衣室まで戻ると、漸く彼の顔が見れた。怒っている訳でも、悲しんでいる訳でもない。それどころか少し上機嫌にも見える。
彼は潜水服を元あった場所に掛け、自分のロッカーを開けて中から何かを取り出した。
「これ、あなたのですか?」
彼の掌に乗っかっていたのは、見覚えのある綺麗ななにか。
無くした筈のペンダントだ。
親の形見だったのに、大切な物だったのに、今の今まで思い出しすらしなかった。切符のことで頭が埋め尽くされていたんだ。
その瞬間、罪悪感が全身を包み込んだ。自分がどれだけ愚かで恐ろしい行為をしようとしていたのか。もう少しで取り返しのつかない過ちを犯すところだった。
震える声で「ありがとう」とそのペンダントを受け取ると、彼が笑った。違う、違うんだ。俺はついさっきまでお前を、この手で、突き落とそうと、いなくなってしまえと、そう考えていたんだ。
涙が零れ落ちそうになるのを堪えて、俺は精一杯言葉を紡いだ。
「探してたんだ」
その後、他愛ない話を少しだけしてお互い家路につく。また明日、と手を振って。あの場所であの景色を一緒に見よう。
けれど次の日、オクメは来なかった。それどころかアンコウもカイワも来なかった。
*
「アンコウがオクメを襲ったって」
「アイツが?カイワじゃなくて?」
「俺はグソクがやると思ってたわ」
「いやいや、アンコウだと。意外だよな、アイツ『切符なんて…』とかよく話してたのに」
「そう言う奴程裏で何考えてるかわかんねぇだろ」
「そんで?切符は?」
「持ってなかったって」
「うわ悲惨だな。誰も得してねぇじゃん」
「いやいや、一人いんだろ。噂流した奴。誰か知らねぇけど」
「は?なんで?」
「多分だけど、今回の騒動の噂って切符を手に入れた奴が流したんだろ」
「自分が被害に会わないように?酷いことすんなぁ」
「んじゃそいつは今頃エレベーターか」
「いいなぁ。俺も見てみたいわ。一番上の階層にあるっていう『そら』とか『たいよう』とか」
「夢だよな。ま、俺達には一生無理だろうけど」
「なぁ、ところでカイワはどこにいったんだ?」
*
『久しぶり』
部屋から出て、各々ホースを持ちマリンスノーを集め始めたのを見計らってオクメに話しかける。オクメはそこまで酷い怪我ではなかったらしく一週間後の今日、いつも通り仕事にやって来た。
『聞いたよ。その……なんて言ったらいいのか』
話しかけたは良いが、結局言葉に詰まる俺に『良いんです』と彼が笑った。表情は相変わらず見えない。
『死にはしなかったんですから』
そう答える彼にうまい返事ができず、その場に沈黙が流れる。しかしそれにも耐えられなくなり、『いつもの場所に行くか?』と尋ねた。『お願いします』と答えるオクメの手を引いて、ゆっくり一歩ずつ足を踏み出す。珊瑚礁に着くと2人で座り込み、降りしきるマリンスノーにホースを向けた。
『今日も雪は綺麗ですか?』
『変わらずだよ』
俺はこの雪を綺麗だと思ったことはない。忌々しいとさえ感じていた。この深海に俺達を閉じ込める牢獄の様な雪。それをずっと見ていたいと言っていた彼の眼は、もう何も映さない。
マリンスノーはそれでもしんしんと降り積もる。俺達を白く染め、埋めてしまうように。
深海の底、雪原の上 角砂糖 @sugar_box
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