母娘百合

黒澤伊織

母娘百合

 その名前と同じ、百合の花束を渡したときだった。彼女は薄ら微笑んで、翔太の顔をじっと見た。そして、何がおかしいのと尋ねた翔太に、百合ってどんな花か知ってる? と、笑みを崩さず聞き返した。清らかで、弱々しい花だと思う? 薔薇のように派手に美しい、奥様とは正反対の。


 真白いシーツで胸を隠し、解けた長い髪を揺らす百合に、翔太はなんと答えただろう。あいつのことは言わない約束だろと、シャツのボタンを留め続けたか、それともそんな彼女が愛おしくなり、再びベッドへ戻ったか、いずれにせよ、百合がどんな花であるか、聞く機会はその後、永遠に来なかった。梅雨が明け、猛暑日の続く頃、百合の姉を名乗る女から電話があり、彼女は事故で死んだと告げたのだ。つきましては、あなたとの子を引き取って頂きたく、DNA鑑定の結果と共に、お家の方へ送りましたので、何卒よろしくお願いいたします。


 百合とは五、六年の付き合いになるが、子供というのは初耳で、それも翔太との間にできた子だという、慌てて家へ連絡を入れると、妻の瑤子ではなく、母の雪乃が色々と——要約すれば、瑤子は子ができないのだから、この子を跡取りにすれば良い、女の子だが大人のようにしっかりとして、女系の家にふさわしいと、翔太の意見も聞かずに決めたようで、子供の頃から逆らえぬ母親ならば、翔太もその日は定時で帰り、破れかぶれに玄関を開ける。そこで驚き、息を飲む。


「お帰りなさい、お父様」


 その言葉は、背後の雪乃が教えたのだろう、しかし、言った少女のその顔は、まるで百合の生き写し、清らかでか弱い様、さすがに顔はこわばり、笑ってはいないが、優しげに微笑めば、ますます百合に似るはずだ。


「小百合、というそうですよ」


 雪乃が満足げにそう告げる。


「奇妙な名なら、どうしましょうと思ったけれど、これならそのままでいいかしらね」


 いまどき、跡取りなどという言葉が出ようというもの、翔太の家は代々の財産家というやつで、それも雪乃の言う通りの女の家系、名前も気に入らないものならば、無理矢理にでも変えてしまっただろうが——小百合と、翔太は口の中でつぶやく。百合に小百合、あまりにできすぎた名じゃないか?


 未だ飲み込めない翔太を余所に、


「さあ、これから忙しいわよ、色々手続きもあるようだし、そう、お手伝いも探さなくっちゃ。小百合さんの世話をしてくれる人よ——ああ、翔太、瑤子さんには私から言っておくから何も心配はないからね」


 そして、雪乃は揶揄うように目を細め、


「あんたも役に立ったわね」


 女系の顔でにやりと笑う。そうして差し出されたファイルには、小百合との親子関係を示す鑑定結果が並んでいる。


 百合は、いつのまにこんなものを用意していたのだろう。否、いつのまにか妊娠し、出産し、子供を育てていただなんて——百合はどんな花か知ってる? いつかの逢瀬が翔太の脳裏に蘇る。意味深なあの言葉、あれは小百合のことを示唆していたのか? あなたは私がどんな人間だか知らないでしょう、百合は心の中で笑っていたのか?


 その微笑みを、自分で思い浮かべておきながら、翔太は一人苛立った。


 初め、夜の町で出会った百合は、派手さのない大人しい美人で、まさに翔太の思う百合の花のような女性だった。あの日、百合が言ったように、瑤子が太陽に咲き誇る薔薇なら、百合は日陰で人知れず咲いた花。その性格も、ときに男っぽいとすら感じる瑤子とは裏腹に、一人では生きられないのではないかと思うような、弱々しさを持っていた。


 女系の家には似合わぬその雰囲気は、恐らく雪乃には気に入られず、もし百合と先に出会っていても、翔太が妻に選ぶのは、瑤子だろうと思われた。百合には愛人という座がお似合いで、それはどう転んでも変わらなかったし、百合自身もその立場に満足している風ではあった。


 満足? 思い返して、翔太は眉根を寄せる。ならば、この仕打ちは何なのだろう、黙って子供を産み、あまつさえそれを押しつけた、百合の思いとは何だったのだろう。百合ってどんな花か知ってる? ——いや、まったく知らない、その花と同じ名をした女が、一体どんな人間であったかさえ。


 子供が新しい人形を手に入れたよう、小百合に付きまとう雪乃を横目に、翔太は寝室で一人になると、手のファイルに目を通した。


 それによれば、小百合は四歳、ならば百合と関係を持って一年かそこらというところ、しかし、当時を思い出そうと努力をしても、情けないことに何も浮かばない。百合の腹は膨れていたか? 食欲はあったか? 会うのを嫌がるとか、殊更気弱になるとか、他に何か変化はあったか? 会話に何か手がかりは?


 あの頃、百合とはどのくらいの頻度で会っていたか、いまはちょうど途切れていないが、百合一人が恋人だったわけじゃない、もっとも、続いたというのは百合だけだったが、仕事もそれなりに忙しい、ひと月ふた月、間が開くのも珍しくなかったような、そんな気もする。ならば、その間に子供を産んだのだろうか。翔太に一言の相談もせず。


 瑤子に子供ができないことは、翔太が話して知っていたはずだった。もともと、子供が好きではない瑤子である、早々に妊娠を諦め、家の跡継ぎというのなら、養子を取ればいいことと、雪乃と話し合っていたのだ。


 そのため、翔太の浮気も半ば公認状態だったというわけで、それでも百合に子供ができたということは、彼女にとっての大いなるアドバンテージ、その腹の子を餌に、それなりの座を迫っても良かったのではあるまいか。もっとも、それができるような強い女ではないからこそ、誰にも言えずに隠していたのかもしれないが、翔太の渡す金を頼りに、昼の仕事に就いたいまも、母子が暮らすに十分なほどの稼ぎはなかっただろう、おまけに実家にも頼れないのであろうことは、その姉が小百合を押しつけてきたことからも明白だ。そもそも、田舎に生まれ、子供の頃から貧乏だったと、百合の口から聞いたような、そんな気もする。


 ——いまどき、珍しいでしょ、村出身なんて。


 そう、百合の生まれ故郷は、確か隣県の山奥にあるという村だった。いつか翔太を連れて行きたいなどと言うのを、心では行くはずもないと決めつけながら、その場は、いつかねなどと答えたはずだ。都会育ちの翔太に、つまらぬ田舎など興味は無い。それをただの愛人風情が、よくもまあ言ったものだ。


 何を思い出すにつけ、無性に苛々としてくるのは、あの大人しい百合が隠し事をして、翔太を謀っていたと思うからだった。しかも、ただの隠し事ではない。子供という、大事である。翔太と瑤子が望んでも、得ることのできなかったもの。それを百合は楽々と得た上に、長い間、秘密にしていたのだ。


 ——翔太さんは、わたしのものじゃないものね。


 寂しそうに、そんなことまで言ったくせに、一人では生きられないような顔をしていたくせに、ちゃっかりと子供を産み、DNA鑑定などというものさえ用意して、万が一に備えていた、それが翔太には気に入らない。一人で産んだ、それならば、翔太に押しつけることもなく、一人で育てれば良いものを、それができなくなったとしても、あちらが面倒を見るべきだ、確かにいつか養子をとは思っていたが、それとこれとはまったく別、小百合をこの家の跡継ぎになど、まったく迷惑な話ではないか。


 瑤子は何と言うだろう、しかし、雪乃が小百合を手放す気がないのは明らかで、ならば瑤子も雪乃に従うだろう。もちろん、あの雪乃のことだから、取れる手続きはすべて取り、百合の家との繋がりは、すべて断ちきってしまうだろうが、翔太はまったく面白くない、女どもが仕切るこの家に、新たな女主人が誕生するのを見守るなど胸くそ悪い、それが自分を謀った女との子供だなどと思うと、ますます嫌気が差してくる。


 怒りの収まらないままに、改め、ファイルを見れば、そこには戸籍謄本もついている、本籍地の欄には、例の「村」。恐らく、そこに実家があるのだろう、見当を付けた翔太は、勢い、翌日有休を取り、幼い小百合を車に乗せて、その村とやらを目指して走る。


 突然、連れ出された小百合は、それでも泣きも喚きもせずに、どこへ行くの、と翔太に尋ね、百合の実家、つまり君の祖父母の家だとの答えに満足したのかしないのか、黙って外を見つめながら、大人しく山道に揺られていた。雲一つ無い真夏日、眠気覚ましのガムを口へ放り込みつつ、その横顔を横目に見て、やはり百合にそっくりだと、翔太はそう思いながら、ナビの通りにハンドルを握る。空調は最大に効かせているが、それでも日差しは十分に強く、助手席側に太陽があれば、小百合の細い髪は汗に濡れ、頬は赤く上気している。


 この子供は、どんな生活をしてきたのだろう。いや、本心ではこの子供のそれではなく、母親のことを——百合のことを聞きたいという思いはあるが、翔太もそこは大人である、その母を亡くしたばかりの子を質問攻めにするわけにはいかないだろうとわきまえているし、そもそも大人びてはいるが、四歳というその年で、どれだけ質問が理解できるか、答えられたとして、どれだけその答えに価値があるのか、まるで見当もつかないもの、しかし口を開けば、百合のことを聞かずにおれないだろうと、無言を貫き続けている。音楽を聴く気にもなれず、車内は沈黙のまま、しかし、二時間ほど走っただろうか、植林の暗い道を抜け、段々畑に周囲がぱっと開けると、ここ知ってるよ、と小百合が小さく叫んだ。前にお母さんと来たよ、南無南無したよ。


「お墓参りに来たってこと?」


 翔太が思わず聞き返すと、小百合は瞬時に子供らしい顔を引っ込める。大人びた顔をして、きゅっと口を結んでいる。


 墓参りに来たということは、ここにはもう実家はないのだろうか。それとも、実家とは折り合いが悪く、子供を連れて寄らなかったというだけか——翔太は勝手に考える。どのつきそうな、こんな田舎だ。父親のいない子供を連れ帰ることなど、難しいのかもしれない。


 果たして、ナビの言う通りの場所に車を止めると、そこは草が伸び放題になった空き地、かつては家があったのかもしれないが、その痕跡は緑に覆われ、小木までもが生えたそこには、手がかりも見えず、足を踏み入れようという気も起こらぬ、ただ立ち尽くす翔太を尻目に、ミンミンゼミがうるさく鳴く。


 つまり、百合の実家はもうないということか。照りつける日差しに目を細め、翔太をここまで走らせた怒りは、突然、行き場を失った。勢いに任せて来たはいいが、その勢いを馬鹿にするかのように、道は尽き、諦めるんだなと青い山がせせら笑う。なんの、と再び気持ちを奮い立たせようとするが、生い茂る草木に日差しを前に、萎えるだけの翔太がいる。


 と、そのとき、バタンと小さな音がして、小百合が車から飛び降りた。我に返り、帰るぞ、戻れと、口を開きかけた翔太の前で、あっち、と指さし、走り出す。


「待て、待って」


 草ぼうぼうの空き地の脇に、獣道のよう、赤い土が剥き出しになった小道があって、小百合はそこを真っ直ぐに進む。翔太の背丈をも超す草が、小さな小百合を容易に隠す。


「待て、先に行くな」


 しかし、それも束の間、ほんの少し開けた空間に、よくもこれほど風化したというほどの、ぼろぼろの墓石、貧乏故、きちんとした墓石でなく、そこらの山から持ちだしたものなのかもしれない、しかし、そこには紛うことなき百合の苗字が刻まれており、墓前にはカラカラに錆びた缶一つ、こちらは花立てに違いない、触れれば塵になりそうな、枯れた花の跡がある。


「南無南無したのは、これ?」


 尋ねても、小百合は答えない。あの大人びた顔をして、まだらに苔の張り付いた、汚い墓石を見つめている。


 まさか、百合がここへ入っているわけでもあるまいに——そう考えてから、百合のお骨の行方を知らない己にどきりとする。とっさに、その姉という人も何も言わなかったのだからと、言い訳のように思っても、どうも居心地が悪く、靴先で削るように土を蹴る。乾いた土埃がわっと立つ。改めて周囲の様子に気づき、ヤブ蚊が出そうだと退散を決める。


「もういい? 行くよ」


「待って」


 小百合は言うなり、辺りを見回し、草の間に走り込む。


「おい……」


 苛立ち、声を荒げようとした翔太の目に、そのとき、小百合が目指したものが映り込む。それは青々と生い茂る夏草の中、凜と咲いた白い花。真夏に怖じることもない、眩しいほどの白百合の花。


 小百合はその花を幾つか手折ると、墓の花立てに供え、手を合わせ、南無南無、と小さくつぶやいた。いつかその母親に教わったように、南無南無、意味も分からぬだろう、その言葉を。そして、それが終わると、一目散に来た道を駆け戻る。何の未練も無いというように、一度も振り返ることもなく。


 小百合の備えた花を、翔太は見た。それから、その白を振り切るように、小道を戻り、車に乗り込む。エンジンをかける。外の景色とは裏腹の、ひんやりとした空気が車内に満ちていくのを感じながら、ハンドルを切り返し、山道をゆっくり下っていく。大人しくて弱々しい、一人では生きられない日陰の花——そんな翔太の勝手なイメージが、バックミラーに消えていく。大人しそうな百合の顔が、夏の色へと塗り替えられる。私は私の道を生き、死んだのだと、堂々として翔太を見つめる。その横顔が、小百合に重なる。


「なあ」


 山を下り、高速を走り、都会のビルが見え始める頃、翔太はその幼く強い子供に尋ねる。


「……百合って、どんな花か知ってるか?」


 小百合が、ゆっくり翔太を見上げる。それを問う者が、どんな人間であるか、見定めようとでもいうように、もちろん、翔太の尋ねたその答えは、彼女の中にしっかりと存在しているが故に。

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