第9話

 三日後、タルイピアセンター内、歴史文献センターの机に何冊もの歴史関連書籍を積み上げた真は謎に挑んでは苦悶していた。

「大社と神農ねえ、全くリンクしない。こりゃ一体どうしたもんかね」

 一人しかいない薄暗い部屋の椅子で大きく背伸びした真は垂井通史や岐阜県史などはもちろん南宮大社に関わるありとあらゆる資料に目を通していた。

 それでも一向に件の蟇股の名前すら出てこない。

 南宮大社の社史等も調査してみたが、再建の時の金額が記されているだけであった。「かへるまた」の表示があれば良い方で、書籍によってはその文字すら現れない。

「ふうむ、俺の勘ぐり過ぎか。単に神農は彫り師の気紛れで彫られたのか。いや、見当違いじゃないはずなんだが」

 神農、即ち炎帝神農は、古代中国の伝説に登場する三皇五帝の一人で、人々に医と農の術を教え、そのため医薬と農業を司る神とされている。別名、薬王大帝、または五穀仙帝とも呼ばれ今でも人気の神だ。

 何と言っても神農は「神農嘗百草、日遇七十二毒 (神農は百の草を嘗めて一日に七十二回も中毒した)」という凄まじい人体実験を己にかしたエピソードが有名で、それゆえ薬草か毒草かを見分け、人々はその恩恵に与ったという。

 大社の神農がまさにその風聞通りの姿を表している。

 また日本でもその名は最古の本草書『神農本草経』の名にも冠されている。

(神農を祀る湯島聖堂や、大阪の少名彦神社とかならまだしも、南宮大社に神農の蟇股はそぐわないんだよな)

 南宮大社は古来金物、鋳物、鉱物、鉱山の神であり、そこに医療や農業の神が反映される謂れはない。本殿の北の樹下社の祭神・大己貴命は一応医療の神ではあるが、全ての蟇股を考察しても摂末社の神に彫刻が関与している訳ではない。

 大社の楼門の蟇股は簡単に説明すると多くは仙人図であり、他に「八仙」と「二十四孝」をモチーフにした彫刻で飾られている。八仙は道教の代表的な八人の仙人で、七福神のモデルとなったとされ、二十四孝は中国において孝行に優れた二十四人を挙げている。

 楼門の蟇股を見てみると、正面右から囲碁をする二人の「王質おうしつ・または囲碁」、白鶴に乗る「王子喬おうしきょう」、瓢箪から馬を出す「張果老ちょうかろう」、時計回りに、丸太に乗る「張騫ちょうけん」、波の上を剣で乗る「呂洞賓りょどうひん」、鯉に乗る「琴高きんこう」、冬の筍に驚く「孟宗もうそう」、そして件の「神農」、牛を引く「巣父そうほ」、山水で耳を洗う「許由きょゆう」という順に掲げられている。

 王質、王子喬、琴高は仙人で、呂洞賓と張果老は八仙の内の二仙、孟宗は二十四孝の一人だ。巣父と許由は親子共に隠者である。張騫は政治家で、この点は神農と同じ異質さを感じるが神農は神である。どうも神農だけはこのグループに馴染まない。

 神農は養蚕、音楽、商業の神であり、五絃琴の発明者とも言われるが、それであっても大社には共通項が見当たらない。

 全国の寺社の蟇股彫刻に全て意味がある訳ではない。むしろ単なる飾りだろう。しかし真は十二支の蟇股の仕掛けを見出してから大社の彫刻には必ず謎が隠れていると感じ取っていた。ならば神農も何らかの含みを持っているはずである。

「やれやれ、これは別の角度からのアプローチが必要かな……ん、こんな書籍あったっけ」

 一旦休憩しようと立ち上がりかけた真は積み重なった書物の中に緑色が剥げた古い表紙の和本を見付けた。

 本棚からこれぞと思う書物を一度に運んだからその中に紛れ込んでいたのだろう、見た感じは江戸時代中期くらいで、表紙には崩し字で「かなやま禰宜記」と糊付けしてあった。

(これは南宮大社の禰宜が書き記した手記か。こんなものが残ってたんだな)

 古文書も読めた真はパラパラと中身を読み出した。

 内容は真の想像していた通りで、南宮大社の祭祀の様子や、社内で起きた日常が淡々と綴られていた。

「へえ、社僧と社家は祭を廻って言い争いをしてその仲裁を幕府に頼んだのか。それで幕府は均等にという沙汰を下した、と。しかし力関係はやはり僧の方が強いんだな。神仏習合のパワーバランスも研究すると面白そうだ」

 当時の様子が見える資料に食い入っていた真であったが、突然祭事とは関係ない文章に目を奪われた。

【山の悪しき猿の事。里の作物食ひ荒し村々難儀仕候。然りけれど真猿まさるにて射る事能わず、色々な心遣ひ辛苦して苦しめらる】

 どうも悪戯者の山猿が大社の側の里の田畑を荒らして困っているが、猿は日吉社で魔除けの象徴とされていて退治も出来ずに大変困っている、という。

 真は当時の大社に同情した。

 南宮大社は境内に十禅師社(後の樹下社)があり、日吉十禅師を勧請している理由から南宮山で猿狩りをするのは祟りを畏れる以上に比叡山と啀み合いになるから難しかったであろう。

 真は気になり続きを探し、それを見出した。

 そこには悪戯が止まない猿に対し大社は山の神に祈りを捧げたと記されてあった。

 それから暫くしないうちに木の上で柿を囓っていた例の猿が矢庭に枝から落ちてきて動かなくなった。ただ、死んでいる訳ではなさそうなので猟師達は四肢を縄で縛り、伊吹山の麓まで連れて行き、目を覚ました猿をそこで放した、と締め括られていた。

「山の神が願いをきいたのか。興味をそそる記述だな」

 真はそれで事件は終わっていたかと思いページを読み飛ばそうとしていたが、

【同日柿を啄みし烏もまた枝より落ちにけり。暫し飛ばず。霊妙不可思議なり】

 の何気ない文章に眉を顰めた。

「普通のカラスまでもが同じ状態に陥った……。これは本当に祈りのせいなのか」

 妙に気になった真は拳で額を叩いて熟考したが、本題から逸れている状況に気付いた。

「いかんいかん。今は神農の蟇股に集中しないと」

 しかし数時間考え込んでも何の関係性も見出せなかった真は何か見落としがないか再確認するために大社へと向かった。


「うーん、背後の彫刻の植物は単なる大和松なんだよな。特別変わった神農ではなさそうだし」

 真は件の蟇股をミニ双眼鏡で見上げたが、目新しい発見は無く収穫は結局ゼロに終わりそうであった。

 と、その時、南門からやたらざわついている声が漂ってきた。

 今日は平日であるし、何かの祭事日でもない。それなのに首を捻れば門の近くでちょっとした人集りが出来ていた。

 近寄って耳を澄ませてみればどうも登山道の所で何か事件が起きたらしい。

「あ、真」

 覚えのある声に振り返ると南門を出た東側に姫香が手を振っていた。

「お前、その格好はどうしたんだ。今は就業中だろ。サボりか」

 白い道衣に紺袴の、弓道姿の姫香に真は目を細めて尋ねた。

「いきなり人聞きの悪い。今度大社で弓道の奉納試合があって、斎からホームページのモデルにって頼まれたのよ。昔、東海総体二位の腕前を買われた訳。だからこれも業務の一環。それより何か感想はないの」

 姫香はくるりと一回転して道着を見せびらかせた。

「そういえば弓道の道衣ってしっかり見たことないな。俺等の高校も弓道部あったけどこんな近くでは初めて見たよ。成程こうなってるのか」

「誰が構造の感想を求めてるのよ。もっとこう何かあるでしょ、他に」

「他にか、そうだな……、あ、弓はグラスファイバー製か」

 姫香は呆れながら叫んだ。

「何でここで弓なのよ」

「いや、弓道といったら弓か矢だから」

「私のは弓も矢もカーボンファイバーよ……。もういい、期待した私が馬鹿だった」

 がっかりと肩を落とした姫香だったが、真は何のフォローもなく、登山道の参集の理由を尋ねてきた。

 姫香は再度登山道を見返した。

「さっきまで役場の職員と猟友会の人が百連鳥居の近くにいたみたいね。私も現場を見た訳じゃないから子細は知らないけど」

「猟友会って、熊でも出たのか」

「ううん、それが三十分くらい前に登山者が雌鹿が道端に倒れてたのを見付けて授与所に連絡したって。でも大社も動物に対して何をして良いか分からなくて、結局役場と猟友会の両方を呼んだらしいよ」

 雌鹿と耳にして真はいつの日か目撃した鹿を思い出した。大社関係のツイッターを眺めていた際、やたら写真に収められていたから頻繁に山から下りてきていた馴染みの鹿であろう事は容易に想像できた。

「それでその鹿は死んでたのか」

「それがね」と姫香は人差し指を立てて真に寄った。

「死んでると思ってた鹿が急に立ち上がったものだからみんなビックリ。こんな所じゃ銃も撃てないし、為す術無く鹿が山に走ってくのを見てただけだったって」

「生き返ったのか」

「さあ、私にもさっぱりよ。気絶してただけかもしれないし」

(……気絶、あれ、この状況って何かと符合しないか)

 真は腕を組んで暫し黙考した。

「真、真ってば」

 姫香の呼び声に真は我に返った。

「な、何だ」

「真はどうして大社にいるの」

「ああ、それは謎解きの発端を突き止め……」

 という所で咄嗟に口を止めた。だが遅かった。

「何、謎が解けたの。ねえねえ」

 案の定凄まじい勢いで食い付いてきた姫香に真はシーッと大声を制した。どこで犯人が聞き耳を立てているか油断できない。が、今更隠した所で詮方ないと思い直した真は人目を避け蟇股彫刻のミステリーを姫香に小声で話した。

「すっごーい。あのヘンテコな彫刻にそんな秘密があるなんて」

 一通り解説を聞き終えた姫香は顔を輝かせて頻りに感心していた。

 ヘンテコって言うなと真は顰め面で注意した。

「高舞殿の十二支はともかく、神農の謎は一向に解けてないんだ。先走って勝手に記事にするなよ」

「うっ、見抜かれてた」

 ギクリと姫香は後ずさった。

「それとトンビが油揚げさらうな」

「ちゃんと真の名前も入れるよー」

「共著とかの問題じゃない。お前も原稿におこすならきちんと勉強すべきだと言ってるんだ。じゃないと質問された時に困るだろ」

「それはそうだけど、私彫刻なんて全く知らないもん」

「仕方ない。手短に教えてやるよ。ただ、これは謎解きじゃなくてあくまでも俺の『研究』だからな。間違っても斎とかに謎解きとか喋るなよ、他の職員にもだ、いいな」

 妙な念押しだったが姫香は承諾の首を振った。

「じゃ、南門近くから回るか」

 真は双眼鏡を姫香に渡して南大神社の社正面を観察するよう指示した。

 ちなみに摂社である南大神社・高山社・樹下社・隼人社は玉垣内にあり一般人の立入は禁じられていて、回廊の切り抜かれた枠から覗くしか出来ない。つまり双眼鏡か、カメラの望遠を使わなければ蟇股を観察するのはほぼ不可能に近い。

「祭神は天火明命あめのほあかりのみことだ。が、俺が研究してる限り祭神と彫刻に関連性は見当たらない。だから純粋に蟇股だけに集中すればいいと思う。姫香、屋根の下に何の彫刻が見える」

「うーんと、何か帽子被ったおじさんが竹林の中で地面掘ってるみたい」

「そうだ。くわで掘っている。足下に何か見えないか。竹の笹にも乗っている」

「だね、白い塊が」

「それは雪だ。つまりは冬って印。寒さ装備に肩に蓑をつけて藁靴も履いているだろ」

「あれ雪なんだ。それであのおじさんは何を掘ってるの、小判?」

「花咲爺さんじゃないんだぞ。筍だよ。ちっちゃく見えてるはずだ」

「うん、ん? 筍の旬って春じゃなかったっけ」

 双眼鏡から目を離した姫香は真に怪訝な表情で振り返った。

 真は笑みを溜めてそこが話の重点なんだと語った。

「これは『孟宗泣竹図もうそうきゅうちくず』だ。姫香は孟宗竹もうそうちく知ってるだろ」

「竹の種類だよね」

「そうだ。これはその語源なんだ。孟宗は呉の政治家で字を恭武という。貧しかった彼は母の御陰で勉学に励めた。しかしその母が病に倒れた時、母の好物である筍を食べさせようと竹林に入った。しかし季節は雪の積もる真冬、筍が見つかる訳はない。しかし、孝行者であった彼の前に奇跡的に筍が生えてきた。それがこの蟇股なんだ」

「わあ、いい話じゃない。そういう感動もの私好きよ」

「ただ、真冬に筍を探しに行かせる鬼母という解釈もあって評価は二分してる」

「げー、何それ」

 急にトーンダウンする姫香に真は真面目に話した。

「孝行の評釈は時代によって変わるんだ。別の蟇股でも説明するよ。次は高山社だな。姫香、今度は何が見える」

 再び姫香は右隣の社の枠前に移動し双眼鏡で覗いた。

「左に虎、かな。結構大きいね。それに向かって反対側で両手を広げて立ちはだかる人とその後ろの木に誰か隠れてる」

「そう。それは揚香ようこうだ。父親を息子の揚香が虎の襲撃から守っている。親でなく自分だけ食べてくれと天に祈ったら虎は姿を消した。または虎に立ち向かって父を救ったとも。それは扼虎救父図やくこきゅうふずと呼ばれている」

「カッコイイ、素敵」

「まあな、俺も嫌いじゃない伝承だけど」

「何よ、その奥歯に物が挟まった話し方は」

「言ったろう、解釈が多様にあると」

「何でみんな素直に見れないかなあ」

「今だって変わらないだろ。SNSだって様々な見方がある。人間の行動に正解なんてないかもしれない。じゃあ姫香は次の樹下社の蟇股の話聞いて素直に孝行だと認められるかどうか」

「望む所よ」と姫香は鼻息荒く拝殿を越してその右隣にある樹下社の蟇股を覗いてから真に向いた。

「これはダイビングで魚獲ってるの」

 笹の葉の下で褌一丁の若者が一人、腰かごを巻き付けて、下から湧き出てきた魚に手を伸ばしている図に姫香は戸惑った。真は笑った。

「違う違う。それは海中じゃなく氷の上だよ」

「氷? あんな格好で死んじゃうじゃない」

「だから孝行も見方による。それは王祥臥氷図おうしょうがひょうずだ」

「おうしょう?」

「血の繋がりのない継母からきつく当たられても王祥は我慢して継母に孝行を尽くした。ある極寒の日に魚が食べたいと我が儘を吐かれても孝行者の王祥は凍った河に行った。が、そんな氷河で魚が獲れるはずがない。悲しんだ王祥は服を脱いで氷の上に臥した。するとその部分が溶けて魚が二匹出てきた。王祥はそれを捕まえて早速継母に与えたという」

「何それ。何でそんな酷い親に尽くすの。信じられない」

「孝行の基準なんてそんな感じだぞ。そういう時代と思想だったんだ。まだ王祥なんて可愛いもんだ。次の隼人社のなんてもう一つ恐ろしい」

 もはや姫香は嫌々双眼鏡を隣の社に向けた。真は先に説明した。

「松の木の前に二人の人物が向き合って立ってるのが見えるだろう。その二人は夫婦だ。幼子を抱く妻の前で鍬を持っているのが夫。名は郭巨かくきょ。貧しいながら妻と母を養っていた」

「真、私、今の段階で嫌な気がしてならないんだけど……」

「いいから聞け。やがて夫婦には子供が生まれた。祖母は三歳になった孫を可愛がり少ない自分の食事を与えていた。その様を見ていた郭巨は妻に提案した。このままでは母が飢えて死んでしまう。子供はまた授かるから子を殺して土に埋めようと。妻は不本意ながら夫に説得されて渋々従うと決めた」

「ええええええー」

「静かにしろ」と真は興ざめする叫びを上げた姫香の口を一旦押さえた。

「斎にばれるだろう。落ち着け、これは昔の、中国の説話だ。一々感情移入するな」

「ごめん」

「まだ続きがある。郭巨だって喜んで子殺しを望んだ訳じゃない。郭巨は泣きながら子を埋めるための地面を掘った。その時だ、地面から予期せぬ黄金の釜が出てきた。そしてその釜にはこう記してあった。孝行な郭巨に天はこれを授ける。他人の命は盗ってはいけないと。そうして二人は黄金の釜を持ち帰って母に孝行を尽くしたという。それが郭巨埋児図かくきょまいじずだ」

「むう、何だかなー」

 姫香の不興顔に真は弁明した。

「そもそもこの四枚の蟇股は、孝行者が苦しいとき天からの助力で奇跡が起きるという共通のストーリーだ。単刀直入に言うと信仰すれば天はそれに応えるという趣なのさ。だからこれらの蟇股を摂社に掲げたんだと思う」

「成程ね」

「さて、次は回廊の蟇股だな」

 今度は北から南に見ていくか、と真は摂社の前に南北へ長く伸びる回廊の上を指さした。

「回廊の蟇股は全部で十七枚ある。その殆どが花鳥だ」

「カチョウ?」

「鳥と背後に花か植物」

「でも最初のこの彫刻は花だけだよ。この赤いのは何の花」

「それは牡丹だ。別名花王。一番尊いとされている花だよ」

「本当だ。よく見ると牡丹だね。綺麗な彫刻」

「そうだろう。よく見過ごされているが蟇股彫刻は技術の粋を集めていて、鑑賞美術としても品がある。さて、その左隣は何だ」

「えっと、ネズミと葡萄かな」

「惜しい。それはリスだ。その組み合わせは蟇股彫刻では珍しくない。葡萄もリスも共によく増える事から豊さを象徴している」

「じゃあ隣は。目付きの悪い鳥二匹」

「目付きが悪いって言うな。それはウズラだよ」

 と、この様な調子で真は回廊の蟇股の説明を進めていった。

「どれもみんな可愛いね。でもあんまり大社もこれPRしてないね。何でだろう」

 回廊の蟇股を一通り学んだ姫香はぐるりと境内の彫刻を見渡した。奇異の感を抱いた姫香に真も頷いた。

「それは俺も不思議に思ってる。高舞殿の十二支だけは一応さらっと紹介してあるだけで、蟇股を宣伝すればもっと参拝者も集まると思うが」

「ホントだね」

「ああ、そういえば回廊の蟇股でちょっと腑に落ちないのもあるんだ」

「何」

「大社は火事で罹災してるだろ。そういう時は定説じゃないけど、水鳥の蟇股を飾るとかするんだが楼門の鶴以外ここには一羽も見当たらない。それに鷹とか隼とかの猛禽類の蟇股もない。雀とか孔雀とか平和な鳥ばかりだ」

「それはおかしいの」

「いや、本殿周りを飾るには平和な花鳥が相応しいし、玉垣内の摂末社の見えない方角の蟇股には水鳥があるらしいんだが、見える範囲内に一羽もないのがちょっと気になって。もしかすると楼門を飾る蟇股に波や山水関係の蟇股があるから防火の代用されたのかもしれない。あ、そうだそうだ、平和で思い出したけど高舞殿の十二支にも平和を願うものがあるぞ」

 真は拝殿の正面で高舞殿に振り返り、真ん中の蟇股彫刻を示した。

「あれだ、酉年の蟇股。見えるか」

「カラフルな鶏が太鼓の上に乗ってるね。で、何、あの太鼓」

「あれは諫鼓だ」

「かんこ」

「諫鼓苔深うして鳥驚かず。昔の中国の逸話でな、あの太鼓は堯帝ぎょうていという君主が何か諫言があれば民衆が打ってもいいと置いた太鼓でさ。そのいつまでも鳴らない太鼓の上に鶏が暢気に止まっているのは君主が善政を行っていた証なんだ。つまり平和の象徴でもある。この図は太鼓と鶏のセットで諫鼓鶏かんこどりと呼ばれている」

「おや、流行ってないお店がそんな風に呼ばれてる気が……」

「カンコドリが鳴く、か。これはその語源の一つともされるんだが、そっちの『閑古鳥』はカッコウだ。カッコウが鳴く様子が寂しいからその故事が生まれたとされている。さて、じゃあ他の十二支の説明はさっきしたから最後の楼門に向かうか」

「ねえ、真」

 と姫香は楼門に歩いていく後ろから声を掛けた。

「何で大社の蟇股彫刻の色ってこんなに色派手なの」

「良いところに気付いたな」

 真は楼門の前で立ち止まり拝殿の方を向いて説き明かした。

「蟇股彫刻は全て色が着いている訳じゃない。場所によって無着色のもある。それは建築様式に添っていたりする。例えば大社は南宮造りという和唐折衷、日本と中国の混ざった独特の建て方で、社殿は朱塗りだ。赤は魔除けの色でもあるし、塗料の、即ち鉛丹えんたんには防虫・防腐剤の役目もある」

「へー」

「そんな朱色の社殿に無着色の蟇股が似合うと思うか」

「合わないね」

「だろ、だから彫刻は極彩色にしてある。それに再建の資料にも蟇股は極彩色という記載があるんだ。ちなみに遠目だけど朱に塗られていない本殿の蟇股は無着色だ」

「そんな理由があったんだね」

「さあ、いよいよ楼門の蟇股だ」

 真は敵と対峙する顔で楼門を見上げた。

「ここには計十枚の蟇股が飾られている。東に三枚、西に三枚、南に二枚、北に二枚だ。南北の蟇股は築地塀ついじべいを境に外側と内側に一枚ずつ分かれている。そこで俺は便宜上四つのブロックに分類してみた」

 ノートを広げた真は、東の三枚、西の三枚、南の二枚、北の二枚の蟇股図をそれぞれ楕円で囲った。

「四つのブロック?」

「大社じゃ蟇股彫刻が無秩序に設置されている訳じゃない。必ず何らかの意図がある。詳しい解説は後でするが、東の三枚は仙人の神秘譚ブロック、北は隠者譚ブロック、西は英雄譚ブロック、西は……、これが今関連性に頭を悩ませているのでこれは今のところスルーだ。じゃあ問題の西側の右から見ていこう。姫香、あの人物は何をしていると思う」

 姫香は即座に、黒い頭巾を被り、着物を着たままのおじさんが、荒い波の中でさあ行くぞとばかりに右手を挙げて大きな黒い鯉に乗っている、と答えた。

「その通り。あれは琴高きんこう仙人だ。ちょうの人で琴の名手だった。だからその名がある」

「イルカとかドラゴンの背に乗ってる話はあるけど鯉は初めてね」

 姫香は少し笑った。

「琴高は仙人の術を会得してから二百年以上生きたという。それから弟子の前で龍の子を捕まえてみせると宣言して河に潜った。それで水面に出て来たのがこの鯉に乗る蟇股の図なのさ。さて、その左隣の蟇股は、姫香もさっき見ただろう」

 真は左に首を向けた。姫香はその彫刻を見るや目を大きく見開いた。

「あれ、ちょっと構図は違うけど孟宗のおじさんだ。南大神社の彫刻もそうだよね」

 今度の蟇股は鍬を持っておらず雪中に生えてきた筍に驚いて倒れそうになっている孟宗であった。

「そうなんだ。正直この西側のブロックの解読は難解だよ。南宮大社は日光東照宮の様に彫刻の数が多い訳じゃない。それなのに重複している訳が解せない」

 苦虫をかみつぶした顔で真は姫香に隣の神農の解説をした。

「これが一番の骨でな。どうしても繋がりを探し出せない。厄介だ」

「薬の神様か。確かに大社の神様にはピンとこないね」

「今のところ保留だよ。今度は楼門の外と内をまたぐが、南と北のブロックを見てみよう」

 真は次いで楼門を潜り、東に出て南側に設置してある蟇股を示した。そこには頭巾ときんを被り赤い着物を着た男が大河の波の上に浮かぶ丸木に乗り、それを棹で操っている様子が彫られていた。

「あれは張騫ちょうけん図、または乗槎じょうさ図と呼ばれるものだ。張騫は前漢の政治家で、嘗てモンゴル高原辺りを支配していた匈奴きょうどという遊牧騎馬民族の国に対抗すべく同盟国を求めて西域の大月氏だいげっし国へ使者として赴いた。その使いこそ失敗に終わったが、張騫は西域の情報を持ち帰り、それが後に西域諸国との貿易に繋がり、匈奴に対抗する力を得たという。この波乗りの乗槎図は張騫が長い旅を経ている時のイメージとして固まった。槎というのはイカダ。この張騫乗槎説話が日本に入ってきたのは奈良時代以前とされている」

「ううん、私歴史そんなに得意じゃないよ。正直ちんぷんかんぷん」

「今は別に聞き流してくれても構わない。張騫が英雄のような扱いだったと覚えてくれれば。詳しくは改めて教えてやる」

「お願いします、史学博士」

 姫香は殊勝に頭を下げた。

「はは、柄でもないな。さ、また西側に戻るぞ。それから南の一枚を説く」

 真と姫香は楼門の西へ移動し、南側に歩を進めて上を見上げた。

 そこには赤い頭巾を被り、赤と緑の格子柄の着物を着て、前になびく袖で両手を組み、棒に似た物で波に乗る一人の若者が見えた。

「これが仙人の呂洞賓りょどうひんだ。剣の上に乗っている」

「あれって剣なの。木の棒みたい。でも剣なら沈んじゃうじゃない」

「沈まない。仙人だから仙術を使ってる。彼は呂祖りょそとも呼ばれていて、中国で有名な八人の仙人の一人。師である鍾離権しょうりけんに術を学び、終南山で剣を飛ばし魔を退治する天遁てんとん剣法と雷雨を操る雷法を授かった。呂洞賓は英雄で民衆を助けたという伝承が各地に残り、あの関羽と並んで人気がある。道教では孚佑帝君ふゆうていくんの別名で神とされている」

 今度は楼門東の北側に移動して史談を続けた。

「さっきの二枚の共通項は英雄と波乗りだ。そして次の二枚はもっと簡単。これが一番理解しやすい」

「簡単?」

「あの蟇股を見てみろ。橙の着物を片肌脱ぎした男が山から流れる水に手を差し出しているだろう。あれは許由きょゆうという伝説の隠君子いんくんしなんだ。あの水で耳を洗っている」

「隠君子って何」

「隠者、世捨て人だ。彼は俗世間から離れた徳のある人物で、堯帝から帝位を譲ると言わしめた。でも隠者だから俗世間の垢を一番嫌う。帝位なんて冗談じゃない、汚らわしい話を聞いたと自分の耳を潁水えいすいという川の水で洗っているのさ」

「これってそんな裏話があるんだ。ただ手を洗っているようにしか見えないもんね」

「知ると面白いだろ」

「うん」

「じゃ、次は親の方に移動しようか」

 真は楼門西北へ足を向けた。

「親?」

「この北の二枚は親子の連続したストーリーなんだよ。許由の親の巣父そうほが、ほら、青色の着物を着ている男が竹林の前で抵抗する牛の手綱を無理矢理曳いている。あれは子の許由が耳を洗うのを見て、牛にその汚れた水を飲ませる訳はいけないと御している図なんだ」

「……そこまで徹底する?」

 呆れ顔の姫香に真も笑って同意した。

「まあ、隠者の例えとしては察しやすい二枚だな。じゃ、最後に東の三枚を見てみようか」

 そうして二人は楼門の外側に立った。

「右の蟇股から見ていこう。姫香、あの松の木の前で同じ青色の頭巾を被った二人が向き合って椅子に座っているのは何をしている様に見える」

「そうね、碁か将棋をさしてるのかな」

「大正解。あれは囲碁だよ。王質という木こりが石室にいた者と碁を打っているんだ。但し、その相手は仙人だった。王室はとんでもない時間を過ごしていて、自分の仕事道具の斧の柄が腐っているのに気付いた。だから囲碁図は斧の柄がただれたという現象をもって爛柯らんかと呼ばれている」

「斧が腐るって、どれだけの時間が経ってるの」

「仙人の世界では実世界では数時間でも何十、何百年と時が進むとされている。浦島太郎を例に挙げれば納得出来るだろう」

 ただ、と真は口元を歪めた。

「これと似た構図に君子の四芸と尊ばれた琴棋書画きんきしょがの『囲碁』の蟇股がある。実は大社のこの蟇股と日光東照宮の『囲碁』の碁盤がそっくり同じ。人物が着ている衣服の模様も腰掛けている椅子も一部酷似している。囲碁における日光の人物は見物人を入れて三人だが、大社は棋士の二人のみ。それを除けばその二人の人物の構図がまた東照宮の蟇股と同一なんだ。よって彫り手が参考にしたのは間違いない。とすればこれは王質でなく神秘譚の仙人ブロックいう括りから外れてしまう。実はこれもどちらかによって視点を変える必要がある難しい一枚なんだよ。今の所、意匠から王質よりむしろ囲碁の確率が高い」

「いいですか、博士。ちょっと質問があります」

 藪から棒に姫香は右手を挙げた。真は怪訝な顔を向けた。

「もう博士は止めてくれ。何だ」

「今まで変だって思ってたんだけど、何で蟇股って中国の題材ばかりなの」

「ああ、悪い。それを説明していなかったな。もちろん、日本の神話の彫刻もあるにはあるが、大社が造られた時代というのは中国が模範とすべき理想の国だったんだ。それに仙人の蟇股が多いのは不老不死の桃源郷を現している。この大社を再建したのは徳川家光だ。家光が手掛けた日光東照宮にも同じような仙人の蟇股が多数飾られている。大社は東照宮のずっと後に建てられているからその辺りを意識したのは容易に想像出来るだろう」 

「はい、了解しました、博士」

 と姫香は再び手を挙げた。

 すると真は両の拳骨で姫香のこめかみをグリグリと軽く捻った。

「痛い痛い、真、ごめんって」

「おちょくるならこのまま帰るぞ。元々お前の依頼だろうが」

「ごめんなさい。真剣に聞きます」

 へそを曲げる真に姫香は小さくなって詫びた。気を取り直した真は楼門真正面に立って注連縄の上に掲げられた彫刻を見上げた。

 頭巾を被り、緑の格子柄の着物を着て、黄色い袴を履き、口と顎に髭を蓄えた男が素手の両手を胸の前で静止させ正面を向いている。右掌は下を向き、左掌は上を向いている。そしてその男は波の上で大きく羽ばたく白鶴に乗っていた。

「次は鶴に乗る仙人。これは王子喬おうしきょうだ。『列仙伝』では周の霊王の太子晋たいししんとされる。雅楽で使う管楽器の一つしょうを巧みにし、鳳凰が鳴くような音を得意とした。伊川いせん(河南省伊川)と洛水らくすい(洛河とも・洛南県を源とする黄河の支流の一つ)を遊歴し、道士の浮丘公ふきゅうこう嵩山すうざんで出会った。三十数年の後、『七月七日、緱氏山こうしざんで待つように』と桓良という者に命じた。その当日、王子喬は白鶴に乗って山頂に姿を見せたが、人々は遠くから見たものの彼に届かず、王子喬は手を挙げて人々に謝し、飛び去っていったという」

「いやあ、中国の話難しいよ」

「しょうがないだろ。他に説明のしようがない。でも天皇家じゃこの王子喬に関する言葉が今も用いられてるんだぞ」

「何」

「鶴の乗り物という意味で皇太子の乗り物を指す。それを最高敬語で鶴駕かくがという」

「へえ。で、この鶴仙人さんは何を表現してるの」

「知らん」

 真は躊躇わず返答した。姫香は驚いた。

「分からないの」

「正直な。有名な仙人であるのは間違いないんだが、この位置に掲げる訳も今のところ不明だ。仮に同じ仙人の赤松子しょうせきしなら神農の雨師(雨の神)だから結び付きもあるんだが」

「意味付けって大変なんだね」

「そうだな。中国の伝説も一つじゃない。王子喬が太子晋だと定説にはなっているが本当は一説に過ぎない。大事なのはこの蟇股が作られた時代、どういった説が日本に伝来したかによる。例えばこの鶴に乗る仙人は王子喬でなく費長房ひちょうぼうという仙人じゃないかという見方もある」

「そうなの」

「ただ、日本伝来後に逸話が一部変わってるんだ。仙人の壺公ここうに師事した費長房は家に帰る際に竹の杖、または竹竿を渡された。費長房はそれに乗って家へ飛んで帰った」

「魔法使いの箒みたいだね」

「まあな。そしてその竹は実は後に龍だったと分かったんだが、日本では竹では格好がつかないと思ったのかそれが鶴に変えられた。同じ仙人の王子喬と混同したのかもしれない。江戸後期の画家・谷文晁たにぶんちょうも『文晁画談』の中で、世に鶴の乗りたるを費長房といふ。傳(伝)中に杖を龍として費長房を乗せたることはあれども鶴のことなし、と記している。けれども後にオリジナリティーに関係なく王子喬の持ち物は笙、費長房は広げた巻物か、もしくは素手とパターンが定着したようだ」

「ふうん」

「その費長房の巻物だけど元は師匠から貰った護符ともされている。実は昔日本では仙人は僧侶と解釈された時もあり、もしかしたら時代が違うが、随に費長房という教典を翻訳した同じ名前の仏教学者がいる。それらが混ぜこぜになって巻物を持つ費長房という形が出来上がったんじゃないかとも思う」

「話が変わるなんて何か伝言ゲームみたいだね」

 違いないと真は片笑んだ。

「この大社の仙人の素手は一見何かを持っていたんじゃないかと錯覚させる形をしている。しかし、掌の形状から巻物でも笙を持つ形でもない。笙なら腕を狭めて両掌を上に上げるし、広げた巻物なら両横から掴むようにするのが自然だ。でもここの仙人は掌が上と下を指している。まるで仏像の印のようだ」

「うーん、何なんだろうね」

「それは謎なんだが、単に素手を強調したかったのかもしれない。じゃあ費長房かと考えられるがこの蟇股は素手でも王子喬だと思ってる。実は仙人が乗っている鶴は中国では仙鶴せんかくと呼ばれ鳳凰に次ぐ瑞鳥とされた。そしてそれは長寿のシンボルにもなっていた。また仙人だが『喬松之寿きょうしゅうのじゅ』という熟語がある。これは王子喬と赤松子の二人の事で長寿や長命を意味している。王子喬と鶴は重ねてめでたいんだ。鶴の背後の波も洛水かもしれない。そういった理由からこの蟇股は費長房より王子喬の方がはるかに相応しい。が、実際は作り手じゃないと証明は出来ない」

「何か頭がこんがりそう」

「それだけ奥が深いんだよ。じゃ最後の蟇股を見てみるか。あれは通玄先生、別名、張果老ちょうかろうだ」

 真は左手の彫刻を指さした。背景の松の木の前で、黄色い頭巾をつけ、顎髭を生やした青い唐草模様の服を着た男が伸ばした手に何かを持ち、その先に馬がいて男に振り返っている。

「この蟇股の図は有名な慣用句にもなっている。姫香、頑張って当ててみろ」

「うー」

「唸るほど難しくない。仙人が持っているのは瓢箪だ。ヒントは瓢箪から何が出る」

「あ、思い出した。コマだ」

「そう、駒は馬だ。まさにこれはその図なんだ。中国の張果老図と比較してここの人物は不自然に若すぎるけどな。俺は慣用句を知っていたから見分けられたけど、もし瓢箪を持っていなかったら何の蟇股か分からない。そんな慣用句が無い中国の人間が見たらこんがらがるだろうな」

「え、瓢箪から駒って中国の言葉じゃないの」

「ああ、この予想外の出来事が発生するという句は日本で生まれたんだ。ほら、もう一度見てくれ。日本ではこうして馬でも中国ではロバ、瓢箪でなく箱と言われている。張果老は仙人だからロバを紙のように折り畳んで箱にしまい、水を吹きかけたら元に戻る術を使った」

「うわ、めちゃ便利」

「あはは、そういう風に捉えたか。実はこの術、日本の有名な陰陽師も使っているんだぞ」

「まさか、安倍晴明とか」

「さすが知ってるか。そう、晴明の術に式神しきがみがある。式札しきふだという和紙が陰陽師の術で鬼や鳥獣に変化する。これと同じだよ」

「式神、確かに。でもこれ変わった馬だね、いや、ロバなの」

 蟇股を見上げた姫香は不思議そうに頭を捻った。

「は、馬に決まってるだろ、慣用句の語源なんだから」

「でもつののある馬っていたかな。中国ではいたとか、仙人の世界とかに」

「姫香、お前、一度視力検査に行ってこい。どこの世界に角のある馬がいると……」

 真は苦笑してその動物を見たが、急に笑いをピタリと止めた。

「な、何」

 表情を硬直させて真は気忙しく幾通りの角度から動物を観察した。そうしてから姫香に「ちょっとここで待っていてくれ」と一人慌てて高舞殿へ走っていき、一枚の蟇股を凝視してから、酷く考え込んだ素振りで楼門に戻ってきた。

 姫香はその狼狽した様子を黙って案じた。

 すると途端真は姫香の両肩を掴んで大きく笑い出した。一瞬気が触れたのかと錯覚するほど哄笑する様子に姫香は益々不安になった。

 真は笑いを収めて言った。

「悪い。驚かせたか。でも姫香、朗報だ。お前の願いが達成されるかもしれないぞ、観光客を倍増させるというあの望みだ」

「え、え?」

 意味不明な言動に戸惑う姫香へ真は手を離して歓んだ。

「お前のお手柄だよ。俺が馬と勝手に思い込んでいたんだ。ここの張果老が瓢箪から出してる動物は馬じゃない」

「馬じゃないの」

「俺は比較のため今、高舞殿の十二支の午を見てきた。でもこの動物には馬にはない特徴ばかりが備わっている。たてがみがない、顔も細い、尾も短い、鹿の子斑もある。何より角が生えている。生物学的に見てもこれは明らかに馬じゃない」

「じゃあ、何」

「雄の鹿だ。ぱっと見、後ろの松に生えてる地衣類の白い模様に紛れてて、角も小振りだから分からなかったけど、間違いなく鹿の白い角だ。馬じゃなく鹿。端的に言うと日本の慣用句が大社だけは変わっているんだ。これはとんでもない秘宝だぞ。そうか、婆ちゃんのあのコピーの鹿の角切りはこれを指していたんだ」

「じゃ、ワカ婆ちゃんのお宝って」

「この張果老の蟇股に間違いない。思い巡らしてみれば年表の諏訪大社も関連してる。諏訪大社では春の『御頭祭おんとうさい』という大祭で鹿の頭を祀るんだ」

「ぎゃ、鹿の頭を」

「今は剥製の頭を使っているがな。五穀豊穣を祈っての伝統的な祭さ。でもそうか、これで漸く婆ちゃんのお宝が見つかった。姫香、これを大々的に宣伝すれば全国から人がどっと集まるぞ。大社の楼門に『瓢箪から鹿』の蟇股。日本広しと言えど南宮大社でしか見られない江戸時代の幻の彫刻だ。それも国指定の重要文化財での珍事だからな。文化庁の専門調査会ですら気付いてないだろうよ」

「そういう事なの。わあ、真、ありがとう!」

 狂喜して姫香は飛び跳ねていた。

「でも……」

 躍り上がる姫香と逆に真はふと思案に暮れた。

「どうしたの、真。嬉しくないの」

「いや、宝が見つかったのは純粋に嬉しい。でも何で鹿なんだ。俺は色々な寺社で張果老の蟇股を見てきた。それらは全て馬だった。でも何故この大社だけ違うんだ。皆目見当が付かない」

「彫った人が間違えたとか」

「いやいや、それはあり得ない。再建を技術的に指揮したのは徳川の大工頭だぞ。大社においては彫り師に題材が一任される訳じゃないと思う。大社の境内の彫りはタッチが同じだから同一人物だろう。他の蟇股の図案を見る限りでは中国の知識を持っていたはずだ。それに彫り師が無関係なものを勝手には彫れない。裏で依頼か指南している者が必ずいる。その者は恐らく蟇股彫刻のおおまかな絵様えようを与えているはずなんだ」

「絵様?」

「下絵、言わば下書き。だから馬と鹿を間違えるなんてことはない。これは必ず何らかの意図を持っている」

「大社って昔からよく鹿が出てたから、とか。ほら、前も登山道で事件あったじゃない」

 姫香が騒動を思い出すと真は頭を横に振った。

「鹿なんてどこの山にもいるさ。後、考えられるのは梁塵秘抄繋がりで諏訪大社との意味合いを兼ねているか……、さもなくば鹿が神使となっている神社と関わっているか。それならば茨城の鹿島神宮か、奈良の春日大社か」

「あ」と唐突に何か閃いたのか姫香が叫んだ。

「私、分かっちゃったかも」

「何を」

「真、今、春日大社って口にしたじゃない」

「そうだけど」

「この大社って家光がお金出してくれたけど、建て直しを願ったのって春日局じゃなかったっけ」

「あ」

「もしかしたら、家光がそれを記念に依頼して、馬を鹿に変えたってのはどう」

「……お前、面白い観点で思い付いたな。そうか、そういう見方もあるのか。いや、姫香の意見は意外と正しいのかもしれないぞ。婆ちゃんは大社に相応しいお宝って言ってたから、それならしっくり来る」

「でしょう」

 褒めてと浮かれる姫香であったが、突如後ろから耳慣れた声がした。

「とうとう探り当ててしまったのね」

 ギクリと振り返ればいつの間にか斎が静かに立っていた。

 どうやら全ての遣り取りを盗み聞きされていたらしく、二人はどう反応して良いのか迷って押し黙った。

「お二方にお願いがございます。これより社務所へお越し頂けませんか」

 妙に儀礼的な話し方で斎は腰を折った。

 返答に窮した真と姫香は視線を合わせたが、幼馴染みの頼みとされたら断る訳にはいかない。二人は頷いて斎の歩く後をついていった。

 そして誰もいない部屋に入るなり斎は矢庭に両者へ向かって土下座をした。

「不躾ですがあの蟇股の件は口外しないで頂けませんか。これは大社の臨時代表としてのお願いです。どうか、どうかお聞き届け下さいますよう」

「ちょ、斎、そういうの止めてよ」

「そうだ、斎、どうした。それにその話し方も止めてくれ」

 更に当惑を深める姫香と真に斎は曇った顔を上げた。

「真君、姫香ちゃん、ごめんなさい。私、いえ、私達はあの蟇股を秘密にしていました。これは大社の存続に関わる大事な事柄だから黙っているしかなかったの」

「張果老の鹿を知ってたのか」

「ごめんなさい」

 斎は再び深く頭を下げた。真は困却の色を浮かべた。

「もういいから椅子に座ってくれ。それから俺達にその理由を聞かせてくれないか」

 はい、と硬いまま斎は椅子に腰掛け、真と姫香も反対のソファーに座った。

 斎は項垂れて話し出した。

「あの彫刻は、昔、彫り師が馬と鹿を間違えて彫ったらしいの」

「何だって。そんなし損じはあり得ない。斎、それは……」

「大社にはそう伝えられているわ。留守の宮司も承知の上よ」

 斎は真の反論を密やかながら厳しく遮った。

「それにあの蟇股のミスを見付けたのはこれまで真君だけじゃない。明治以降、何人かは見抜いて社に進言してきた。その度に大社は頭を下げて見過ごしてもらったの」

「何でよ、斎。聞いていたでしょ。あの鹿は春日局の鹿かもしれないって」

「それは姫香ちゃんの推察でしかなかったのよ。結局単なる彫り間違いなの」

「でも何故極秘にする。あの蟇股が鹿であるのに何か不都合でもあるのか」

 真は研究者の表情になって問い詰めた。

 斎は大きく頷いて説き明かした。

「大社には様々な参拝の方が訪ねて下さるわ。中には受験や種々の合格を祈願しに遠方からわざわざ足を運んで下さるの」

「そうだな」

「じゃあ真君に尋ねるけど、あの蟇股が世に知られれば何と呼ばれるか想像出来るかしら」

「瓢箪から鹿、の蟇股じゃないのか」

「学者のあなたはそう思うでしょうね。でも一般の方はどうかしら」

「一般の?」

「普通は馬から鹿に変わったというイメージが強いでしょう。だったらそれを踏まえてどんな風に名付けられると思う。そう、姫香ちゃんなら」

「馬鹿の蟇股……」

 仄めかしに振られた姫香は呆然として口を開いた。

 そうだ、あの蟇股は楼門の東にある。当然合格祈願にやってきた人間は嫌でも馬鹿の彫刻下を潜らねばならない。

「姫香ちゃんは察してくれたみたいね」

「とんでもない。待ってくれ、斎。あの蟇股が作られた当時、馬鹿というのは劣っているという意味じゃない。太平記でも馬鹿者というのは狼藉を働く者で……」

「真君、聞いて!」

 斎は俄に黙止を強いた。そして懐から取り出した一枚の写真を二人に差し向けた。

 事前に用意されていたのだろう、それは白い毛に覆われ二本の真直ぐの角を持ち、首元には毛が垂れている高舞殿十二支のひつじの蟇股画像であった。

「これがどうかしたのか」と真は不可解に問い返したが、斎は何故か姫香へ質問した。

「姫香ちゃん、これ、何か分かる」

「ヒツジじゃないの。さっき見たばかりだよ」

「そう、残念だわ。馬を鹿と見抜いたあなたなら気付いてくれると思ったけれど。私の買い被り過ぎだったかもしれないわね」

 らしくない皮肉を混ぜて斎は落胆した。

 その口振りに姫香はカチンと顔を険しくした。

「嫌味なの、それどういう意味」

「ごめんなさい、今のは言い過ぎたわ。ただ、この蟇股が彫り師のつたなさを表しているのをどうしても知って欲しかったから」

「拙さ?」

「端的に言うとこれは羊じゃないのよ。一般的な羊の角は円を巻いていて、顎には髭なんてないの。この動物は山羊なのよ」

「あ、本当だ、ヤギだ!」

 十二支だから当然羊と思い込んでいたのは真の馬と変わらない。指摘されて初めて認識した事実に魂消る姫香へ斎は更に付言した。

「十二支に山羊年なんてあり得ない。そしてもう一つ。呂洞賓が波の上で乗っているもの、あれはどう見ても剣でなくただの木の棒か何かよ。真君も本当はそれに気付いていたんじゃないの」

 向けられた非難に真は押し黙った。斎は動じる姫香に説破した。

「つまりこの蟇股を彫った職人は鹿と山羊、そして呂洞賓の三つの間違いを犯している事になるわ。即ちこれが彫り師の未熟さの証明になるのよ」

「……真」

 姫香は急に不安になって隣の真を見た。しかし当の真は緘口したまま斎を見詰めていた。斎は説得を続けた。

「もし、この誤りの鹿が公表されれば、馬鹿の蟇股と騒がれるでしょうね。それは大社にとっては負の要因にしかならない。これは参拝者を増やす所か減らしてしまうおそれもある。だから私達は蟇股に関してずっと沈黙を貫いてきたの。発見されないよう心の中で祈りながら」

 真は何も言い返さなかった。確かにこの蟇股の件を披露すれば物珍しさに一時は観光客が増えるかもしれないが馬鹿という印象が大社にとって決してプラスにはならないのは想像に難くなかった。

「そういう事情なら口外はしない。約束する」

 少し時を置いて真は目を閉じて忖度した。

「待ってよ、真。さっきと言ってる事逆じゃない」

 思わぬ掌返しに姫香は狼狽えて真を責め立てた。

 真は冷静に前言を撤回し、因果を含めた。

「姫香、南宮大社は垂井観光の要でもある。それを俺達の欲で潰すつもりか。それこそ垂井全体に恨まれこそすれ一文の得にもならない」

「でもでも、私達の折角の発見が」

「お前の気持ちは痛いほど分かる。俺だって遺憾だ、未練もある。だけど幼馴染みの斎のこんな願いを踏みにじる気にはならないだろ」

「う」

 姫香は溜まった気持ちをぶつけたかったが、真の主張には逆らえなかった。

「すまん、姫香。でも俺はお前に大社の敵になってほしくない。お前はそもそも商工観光係だ。これからだって大社と付き合っていかなければならない。だから波風立てなくするにはどうすべきか理解できるよな」

「……分かった。公表もしないし記事にもしない。それでいいんでしょう」

 やむなく姫香は拳を握り、下を向いたまま唇を噛んだ。

「ありがとう、二人とも。理解ある幼馴染みで本当に助かったわ」

 安堵した微笑みで斎は真と姫香に礼を述べた。

 ただ真は最後にこう付け足した。

「そうだな、もし馬鹿説を超えるような別の発見があれば大社もお前も悩まずに済むのにな」

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