第8話
「ごめん、真、あの時は何か頭にきてて」
数日後の休日の正午になって姫香がレストランの謝罪に真の家へ訪れていた。
「折角、ランチまでおごって貰ってあの態度はないよね。ごめんなさい」
玄関先で対応する真に姫香は深く頭を下げた。
「なあ、姫香」
腕を組んだ真は暫し時を置いて話し出した。
「謎解きは中止だ。俺はもう抜ける。お前も大社に拘らず別の観光地に重きを置いた方がいい」
「ちょ、何でそういう話になるの。食事の時の事気に障ってるならもっと謝るから。止めるなんて言わないでよ」
唐突な計画離脱に驚いた姫香は理由を尋ねた。
確かに自分が取った態度は嫌に映っただろうが、これくらいの口争いなど幼い頃から日常茶飯事で真は直ぐに許してくれていた。
しかし今日の真の口調はどこか機械的で変に余所余所しく聞こえた。
「腹を立ててる訳じゃない」
「じゃあどうして」
「俺なりに調べてみた結論だ。斎が断言したように最初から大社に謎なんて無いんだよ。あんなのは婆ちゃんが子供の俺をからかっただけだ」
「それならあの暗号のヒントは何。ワカ婆ちゃんが真を馬鹿にしただけだって言うの」
「多分な。元々悪戯好きな人であったし。危うく婆ちゃんの策に引っ掛かる所だったよ。だからどれだけ探しても時間の無駄。もう止めておけ」
「違う、違う。それは真の嘘だよ」
と姫香は真の顔を指さした。
「斎に嘘の癖あるなら真だって無意識に鼻を指で触る癖あるの私知ってるんだからね」
「そんな訳ないだろう」
真は否定したが鼻尖を人差し指で弾いていた。
「……」
そらみなさいとばかりに無口になった姫香に真も言葉を発しなかった。
「私は私なりに調べてみる」
「は?」
「私、ワカ婆ちゃんを信じている。真だってそうでしょう。真だって本当は謎を解きたくてウズウズしてるくせに」
「お、俺は別に」
ここで真は再度鼻を掻いた。
「いいよ。怒ってないならきっと私に話せない事情があるんでしょ。とにかく私諦めないから」
じゃあねと姫香はそのまま玄関の扉を閉めて出て行った。
「くそ、大失敗だ。恨まれてもいいから喧嘩腰に出るべきだったか」
真はその場に座り込んだ。
万が一を考慮し、姫香は危険から遠ざけたかった。
あのバイクのブレーキ外しが起きてから、真は一瞬警察に連絡する事も考えたが、あの警告文の文面から狙われているのは自分だけだと悟った。
そしてそのまま授与所へ行って斎と、そこにいる神職に聞こえるように事件の顛末を話した。但し、脅迫状の内容は犯人を刺激するといけないので敢えて伏せた。
皆はひどく驚いていて、斎は北駐車場の防犯カメラの録画映像を確認しにいってくれた。
しかし、真のバイクはカメラの画角から外れていて犯人を特定できないという。駐車場にある観光案内所も平日は開いておらず、駐車場を利用するのは不特定多数で誰かがバイクを触っていても修理か手入れとしか思わなかっただろう。
また、駐車場近くの朝日屋にしろ、みどり屋にしろ店頭にいつも人が立っている訳ではないから事実上目撃者は皆無であった。
斎は真を案じていたが、逆に真は内心闘志を燃え上がらせていた。
この程度の嫌がらせなど中国で何度も物騒な目に遭ってきた真には痛くもかゆくもなかった。
(何を知られたくないのかは解らんが俺を見くびるなよ。暗号とこの犯人を一気に暴いてやる)
犯人は大社の関係者、またはそれに関わる者と推理するのが妥当だ。
ただ自分が斎と親しい幼馴染みと知られているならばそれを嫉視する輩の仕業とも考えられる。しかしそれならばメットのシールドを割るとか、バイクを傷つけるとかの方法が一般的だろう。
ブレーキに細工するというのは明らかに重大な犯罪行為だ。器物破損だけでない、状況によっては殺人未遂にもなりうる。
嫉妬でそこまでやるのは余程斎を祭り上げているストーカーかだ。
ただ、それなら婚約者に累が及んでいてもおかしくない。
実は真は気になることがあって姫香と再会した日、滋賀の知り合いに連絡を取り、斎の許嫁である橘和彦の身元を改めて照会して貰っており、やがて顔写真付きの詳細なデータが送られてきた。
橘は三歳年上だが、さすが名の通った神社の次代宮司と目されているだけあって好青年ながら真面目が紋付きを着ているような人物だった。しかし、ネットでの参拝者への対応を見ていると堅物というだけでなく親切で柔和な印象も受けた。
斎の相手が橘家だとの情報は誰にでも手に入る程度のものである。もし彼を襲撃しているならばとっくの昔に事件になっているだろう。しかし橘家にその様子は無い。
ならば今のところ粘着質の異常者が犯人という説は消去して良いだろう。
(うん、状況的に思い浮かぶのは大社の職員、もしくは大社の氏子の誰かという事になるな。と、それより婆ちゃんのヒントが一つ解けたんだ)
真は和室に行き、和佳のヒント集の一枚のコピーを手にした。それは古地図の一部であったが、地名を調べると「駿河台」であるのが判明した。
その古地図と垂井の浮世絵は固く綴じられていた。ならば共通項を探せという暗示に他ならない。
だがそれ自体は難しい作業では無かった。
ネットで「駿河台」「浮世絵」と叩いたら『名所江戸百景 水道橋駿河台』の浮世絵が一発で検索された。それは本郷台地から見える五月五日の巨大な鯉のぼりの絵で、遠くには富士山も見える。そして左には小さく江戸城も書かれていた。
作者は歌川広重。『木曾街道六十九次 垂井』と同じ描き手である。
畢竟、ヒントは大きく「鯉のぼり」に絞られた。
垂井町は三月末から五月の上旬まで相川の両岸をロープで繋ぎ、そこに三百五十匹の鯉のぼりを空中に泳がせるイベントを毎年行っている。
丁度堤防沿いに植えられている二百本のソメイヨシノが開花すると、桜、そして川上の鯉のぼり、そして西には雪を被った真っ白い伊吹山が顔を覗かせる、県内でも有数の花見スポットとなっており、町内のマンホールの蓋にもその絵が刻まれている程、垂井町はこの観光地に力を入れていた。
歴史的な物ばかりに注視していた真は意想外な観光地により思索を深めた。
(後はこの駿河台の浮世絵が大社のミステリーとどう繋がっていくか、だな)
そして真にはもう一つどうしても晴れない
それは大社が今まで蟇股彫刻についてほとんど触れてこなかった事にある。
蟇股は中国から伝わった古建築の部材で、
初期の頃は蟇股も只の板であったものが時代を経るにつれ彫り抜かれ、やがて華麗な彫刻そのものが飾りとして重要視されるようになっていった。
故に大社の蟇股も本蟇股、または「刳貫 (くりぬ)き蟇股」と呼称されている。
刳貫き蟇股では日光東照宮の「眠り猫」や「三猿(こちらは正確には欄間彫刻)」などが有名であるが、全国の寺社の屋根においても決して珍しいものではない。
しかし彫り師の表現方法や時代によって蟇股は同じモチーフを彫ったとしても全く違う表情を見せるのだ。まして大社の蟇股は写実的でなくどちらかといえばポップでモダンなイメージであり、更に女子受けする「可愛さ」を持っている。
観光に利用しようとすれば、花手水に並んで人気になるのは間違いないのだが、何故か大社はこれまでずっとだんまりを決め込んでいる。
(これは絶対裏に何かあるぞ)
益々闘志がみなぎる真であったが途端腹が鳴った。
昼食を未だとっていないのに気付いた真は、今日は冷食でいいやとフリーザーから冷凍炒飯の袋を取り出して皿に空けてレンジのスイッチを入れた。
「さて、何か、変わった呟きはあるかな」
真は調理の間に大社のツイッターとインスタをチェックしていた。
一般人の目線というのは侮れない。大学でもSNSは活用されていていたが、ただ、おかしな投稿があるとそれを学校側が追跡して生徒が注意されたなどの噂も流れたから迂闊な話は呟けないなと恐ろしくもあった。
「お」
レンジのチン音が流れたのと同時に真の目は有る人物の泣き顔のアップに釘付けとなった。
例のパグの飼い主である。
「パグのおっさんか。何で大社のハッシュタグつけてんだ。まさか逮捕とかじゃないよな」
いや、警察に捕まっていたら暢気に呟いてなどいられないだろう。真はツイートを目で追った。
どうやら動物病院から帰って来てからの報告らしかった。
【あれからローズたん何とか意識が戻ったのはいいけどまだぼんやりしてる】
【医者が言うには検査では異常がないって。アホか。異常だからローズたん倒れたんだ、カス医者、検査代返せ】
【ちくしょう、もうあんなくそったれ南宮には二度と行かない。俺のローズたんをこんな目に遭わせやがって】
「何だ、何があった」
真は飼い主のツイートを遡った。すると三日前にいつも通り南宮山でトレイルランニングをして帰ってきたらパグが登山道の途中で痙攣して倒れていたという。
「パグ脳炎なら大変」「糖尿かな」「お大事に」という病気を哀れむリプライ以外に「ざまあ」「いわんこっちゃない、神使のキツネに祟られたな」「犬なんか放してるから神罰です」「二度と山と大社に来るなという神様の警告」とか軽い炎上になっていた。
「間違って鹿とかの駆除剤でも口にしたんでしょうか」と心配するツイートに飼い主は「ローズたんはうちであげてるもの以外は絶対食べないんだけど」と返していた。
確かに広く西濃地方は鹿の食害が酷く、伊吹山では高山植物が食い荒らされ目も当てられない状態になっている。それゆえ防護柵を張って食害をなんとか防ごうとしているのだが野生の鹿は力も強い。柵は突破され被害は収まらない。また、近隣田畑の食害も相当な数にのぼり猪同様駆除対象となっている。
だが、真は心内で二人の遣り取りを否定していた。
鹿の駆除剤は一部学術研究目的に作られてはいるが一般に使用は認められていない。犬が誤って食べるのはありえないのである。
真は念のため犬への毒性植物を調べてみたが、記憶上、登山道に生えている草に該当するものはなかった。恐らく病気か何かだろう。
「でも大社か稲荷に祟られたと思ったのか、あのおっさん。まあ、パグには可哀想だが、これで斎たちが放し飼い云々に悩まされるのはなさそうだな」
真は昼食を済ますと早速ノートとデジタル一眼レフを持って大社へ向かった。
盗難と悪戯防止にバイクは北駐車場でなく、楼門近くの石輪橋の直前に停めて更に購入したディスクロックも付けた。
防犯カメラの位置は確認済で、これでバイクに細工をされる危険はない。まして今日は休日のためそこそこ参拝者が訪れ、近くには露天商も店を出している。
怪しい人間がいればさすがに衆人の視線を逃れられない。
真は安心して境内の蟇股彫刻の調査に入った。
「しかし殆どの人間がこの彫刻を気にも留めないんだな」
昨日大社で結婚式があったため、手水舎の水盤には豪華な花手水が残されていて、参拝者の多くはそれの撮影に夢中になっている。上を向かなければ、蟇股の存在すら知らないだろう。
木を隠すなら森の中とはよくいったものだ、と真は写真を撮っては、ノートに境内図と蟇股の位置とそのラフスケッチを記入していく。
本殿の左右に並び建つ南大神社、高山社、樹下社、隼人社の正面彫刻も望遠で写真に収めた真は嬉しそうに舌で唇を舐めた。
(こりゃあ、思った以上に面白い蟇股が揃ってるぞ。出来れば玉垣内の各社の正面だけでなく残り左右後ろ三面も撮りたいんだが難しいだろうな)
遠目で見る限り彫刻は他の面も有していそうであったが、これは飽くまでも個人的な研究という名目になっているので斎や大社側にあまり無理な要求は出来ないだろう。
何よりあまり刺激をするとまた犯人に何をされるか分かったものではない。仕方なく目に見える範囲で真は回廊にある彫刻データを取り続けた。
それから真は高舞殿の調査に取りかかった。
北正面は西から猪・鼠・牛、東正面は北から虎・兎・龍、南正面は東から蛇・馬・羊、そして西正面は南から猿・鳥・犬の刳り貫き蟇股となっている。
これは方角と十二支を合わせた位置関係で、特筆する内容ではないが、ラフスケッチと実物を見比べていた真はある理を嗅ぎ付けて、これだけでも良い観光資源になると姫香を思い浮かべ頬を緩ませた。
「何か面白い発見でもあったのかしら、真君」
急に背後から斎が遠慮がちに声を掛けてきた。
「何だ、斎、仕事中かと」
「ごめんなさい、真君の姿が気になって。研究のお邪魔だったかしら」
「いや、こっちが邪魔させてもらっているんだから。それより、高舞殿で予想外の事実をいくつか見付けてな。大社の人間からすれば既に知ってる中身ばかりかもしれないが」
「何かしら。差し支えなければ是非拝聴したいわ」
「今更って笑うなよ」と真はノートのスケッチを示しながら説明した。
「斎はここの十二支の配置が東西南北の方位にそってるのは知ってるよな」
「それはもちろん」
「十二支は全面に飾ることで建物を守る意味もある。じゃあこの動物達の彫り物に一定の法則性があるのは気付いてたか」
「法則性?」
「そうだ。普通に眺めているだけでは駄目だ。全体を通して初めて捜し当てれるんだ。十二支をぐるっとよく見てみな」
真の指示で斎は高舞殿の周囲を見上げ東西南北の動物を再度歩いて観察した。
それでも殊更変わった様子は見当たらない。斎は小さく両手を挙げた。
「降参。本当にそんな法則があるの」
「あるよ。牛、龍、羊、犬。他と明らかに違うだろ」
「明らかにと言われても」
十二支は違う動物同士なのだから比較対象の真意が理解できない。
困った顔を向ける斎に真も拍子抜けの顔を返した。
「何だ、本当に気付いてなかったのか。動物の向きだよ、顔とか体の向き。その四体だけ逆向いてるだろ」
「それは彫った人がたまたまそういう風にしたんじゃ」
すると真はスケッチを指で指し示した。
「猪左・鼠左・牛右、虎左・兎左・龍右、蛇左・馬左・羊右、猿左・鳥左・犬右。こんな綺麗な法則性のある向きが偶然であるもんか。これはおそらくカレンダーなんだ」
「カレンダー?」
「昔から十二支が時間と月を表すのはよく知られている。それに則った向きにしてあるんだよ。右を向いた動物の牛・龍・羊・犬は十二支では丑・辰・未・戌。これは暦上で『土用』を指す」
真はスマホで江戸時代の円グラフになった暦図を見せた。それは春夏秋冬の四等分に区切られていて、十八日間との色別のエリアだけが土用と記されていた。
「いいか、土用は夏が有名だが、一年に土用は四回ある。立春の前の、立夏の前の、立秋の前の、立冬の前の各十八日がその土用に当たるんだ。土用は暦でとても大事な時期で、奨励と禁忌があるんだ。斎は土用丑で鰻を食べる由来は知ってるだろ」
「ええ。ウのつく物を食べるといいと。最近では鰻が激減したから代わりに牛の肉を勧めてるお店もあるとニュースでも流れていたわ」
「さすがだ。他に梅干しを作るときの土用干しとか、水田もこの時期には一旦水を抜いて土を乾かすんだ。そうすると根が強くなって良い稲になる。逆に土用には禁忌もある」
「してはいけない事?」
軽く頷いて真は続けた。
「土用は陰陽の神、土の神・
「へえ、そうなのね」
「暦は農業を営む人間にとって欠かせないものだった。もちろん、ここは神社だ。祭事を執り行う者にとっても暦は重要だ。だからこの十二支が土用を示す暦であった可能性は非常に高い。そしてこの高舞殿の蟇股には後二つ細工が施してある」
「まだあるの」
「ああ、皆は単に十二支というとどうしても動物だけに目が行く。しかし、動物の背後には植物が彫り込まれている。それは一目瞭然だろう」
「そうね、確かに」
斎は動物の後ろに花木が飾られているのを改めて確認した。
「斎、ところで高舞殿でいうところの表鬼門はどっちだ」
真は意表を衝いて話題を変えてきた。
「何」
「いいから、方角は」
「それは北東ね」
「そう。陰陽道でいう鬼門は鬼のいる所、または災いが入ってくる、忌み避けるべき方角。表鬼門は特に
真はついてこいとばかりに高舞殿の北東の位置へと移動し上を見上げた。斎もその後を追って視線を空に移した。
「鬼門は凶方位だ。でもそれをそのままにしないのが陰陽道でもある」
「そのままにしない?」
「鬼門封じだよ。良い縁起で悪しきものを封印するんだ。斎、縁起の良い三つの植物を挙げてくれ。正月飾りでも有名なんだが」
「それは、松竹梅だけれど」
間違っていないわよねとの視線を投げる斎に真は黙って丑と寅と卯の蟇股を順番に指さした。着目しろとの暗黙のジェスチャーに斎はその三つの蟇股を見直した。
「えっと、丑年の後ろは松……、寅年の後ろは……竹。えっ、じゃあ卯年の植物って」
斎は慌てて東正面に回り込みその蟇股を唖然と見つめた。
跳躍する白い兎の後ろには紛れもなく紅梅が彫られていたのである。
驚愕の表情で見返してくる斎に真は肩をすくめて笑った。
「丑と松、寅と竹の組み合わせは珍しくない。しかし、鬼門封じとなれば別だ。丑寅に松竹だけではバランスが悪いからそのまま兎を梅としたんだろう。他の神社の蟇股じゃ、兎は波との組み合わせが多い」
「兎と波?」
「醍醐天皇の時の謡曲・『竹生島』の一節だ。琵琶湖の湖面に映った月影が兎が走っているように見えたという。『
何て深い知識と鋭い洞察力を持ってるの、とひたすら瞠目する斎に気付かず真は残る一つの発見を話した。
「さて、最後のは、これは全く寓意が無いのかもしれないんだが」
と前置きして真は切り出した。
「斎は阿吽って知ってるよな、神社務めなら」
「口を開いているのが
斎は躊躇わず返答した。
「はは、巫女にとっては愚問だったな。阿吽は仏教真言で宇宙の始まりと終わりを表現し、陰と陽も定義する。東大寺南大門の金剛力士像の阿吽形が代表だ」
「そうね」
「じゃあ、その阿吽がこの高舞殿十二支にも当て嵌まると言ったら」
「えっ、そうなの」
更なる秘密の現出に斎は驚きを増した。
「俺のスケッチはラフだからそこまで細かく描いてない。自分の目で確かめてくれ。辰年以外は全て吽形だ」
巫女である斎は小走りになりそうなのを我慢してなるだけ早く歩を進めた。
確かに猪は口を閉じている。鼠も口を閉じた吽形、牛も、虎も……全て一周して確認してみたら真の指摘通り龍を除けば全ての動物の口が閉じていた。
「ま、龍の蟇股は大抵口を開けている。だからこれは単に偶然だと思う」
おどけたように真はノートを閉じて軽く笑った。
「ただなあ」
「まだあるというの」
拝殿の前で上部の蟇股を物憂げに見上げる真に斎は迫った。
真は言った。
「蟇股は彫り手によって明確なものとそうでないものがある。例えば、この申年の蟇股なんだが、猿が食べようと狙っているのが
ううむ、と真剣に悩む真に斎は急に口に手を当てて笑った。
「蟇股でそんな思い悩む人初めて見たわ」
「笑われるのは心外だな。いいか、果物一つでも意味合いが全く違ってくるんだぞ。枇杷だったら長寿、栗だったら勝ち栗といって……」
真は真剣に言い解いたが斎は「子供みたい」と余計笑った。
「今日はもう帰るよ」
真は眉を寄せてやや渋い顔で楼門に足を向けた。
斎は急変した態度へ当惑して謝った。
「ごめんなさい、真君。私、不興を買ったかしら。そんなつもりで笑った訳じゃないの」
「いや、勘違いしないでくれ。お前に腹を立てて帰るとかじゃない」
斎を安心させるために真は作り笑いをして手を振った。
「とても難題の蟇股にぶつかったんだよ。それを不意に思い出してな。だから困り果てている。もっと深く研究しなければならない」
「難題?」
「とても難しい彫刻だ。ここに来てから隈無く境内の蟇股を眺めたんだが、どうしても大社に似つかわしくない、場違いなものが一枚だけ混ざっている」
真は楼門西側の正面に立ち、三枚ある蟇股の向かって左を指し示した。
そこには小太りの男が青い
一見するととてもユーモラスなおじさんに思われるが真の目には大いに異なって映った。
「あれは何」と尋ねた斎だったが真の不敵さを
困り果てるなどとは空言甚だしく、真にとって極上の謎は好奇心を満たす恰好の御馳走なのである。
真はその笑みを固めたまま返答した。
「あれこそが炎帝『神農』さ」
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