第6話

【栗原山の中腹及び山麓一帯に昔、『九十九坊』と称する百余坊の寺院があったと伝えられる。淳仁天皇の天平宝寺の頃(七五七~七六四)に既に多芸七坊の中の一ヶ寺として不破郡栗原山に天台正覚院久保寺双寺として九十九坊があったと地元に伝わる古文書に書かれている。鎌倉時代初期には百以上の僧坊が建ち並び、隆盛を極めたと思われる。建武二年(一三三五)足利、新田両氏の戦いで兵火にかかり焼失したと伝えられている。垂井町教員委員会】

 山風に髪をなびかせた真は宮代から南に向かった栗原山に立つ九十九坊跡の史跡案内板を読み上げた。

 目の前の木々の切り取られた斜面には苔生した小さな五輪塔や石仏が無数に広がっている。

 この場合の「九十九」とは数多という表現で江戸八百八町と同じ謂れを成す。

 建武二年(一三三五)足利、新田両氏の戦いというのは「建武の乱」を指し、後醍醐天皇側の新田軍に味方していた久保寺双寺が足利軍に放火されたという。

「ここでもまた付け火か」

 社寺であろうが戦の前では容赦ない。

「だが天台宗というだけで特に大社に関わるものはないな」

 カラスのけたたましい鳴き声が山中に反響する中、真は山を下りてヘルメットを被ると次の目的地にバイクを走らせた。

 栗原山は恋仲を願う連理の榊や秀吉の軍師・竹中半兵衛隠棲地を有するが、真の目指すところは大社の謎解きで、無関係の場所に長く留まる必要はなかった。

(ただ、『幻の栗原京伝説』は面白かったな)

 真は北に進路を向けながら子供の時に読んだ地元の物語集の一つを思い出していた。

 時は桓武天皇の時代、天皇は長岡京から遷都を考え、その候補地を探していた。

 澄海という僧が栗原を訪れ、都を造る土地の条件が合い、実に相応しいと惚れ込んで天皇に栗原遷都を訴えたが、山背国宇太村やましろのくにうだむらを推す和気清麻呂に反対された。天皇はお互い譲らない主張に困ったが、寺の数が多い方を新しい都にしようと提案した。結果、栗原は九十九、宇太は百。僅か一つの違いで栗原京は幻に終わったというストーリーになっている。

 出典も明らかでない、実に田舎の伝説らしい伝説に真はフンと鼻を鳴らして笑った。

 栗原は三方を山に囲まれ、相川・牧田川が流れているとはいえ京・長岡から遠方の美濃の栗原に遷都しようなどとは無謀という他ない。

 平安京から平清盛が一度神戸の福原に遷都を試みたが、長岡から山陽道のなだらかな福原への道程は約六〇キロ、一方、栗原へは東山道を通るのだが、比叡山逢坂の急勾配な難所、そして琵琶湖を迂回して優に距離は一〇〇キロを超える。

 栗原にいくら条件が整おうがとても比較にならない。

 また桓武天皇は平安遷都に先がけて京都・将軍塚から宇太村の様子を観察し、地理的条件を褒め称えている。この時点で既に平安京に決まったといっても良いだろう。

 過去日本は板蓋宮いたぶきのみや川原宮かわらのみや後飛鳥岡本宮のちのあすかのおかもとのみや近江大津宮おおつおおつのみや飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみや、藤原京、平城京、恭仁京くにきょう難波京なにわきょう紫香楽宮しがらきのみや、平城京、長岡京、平安京、福原京、平安京と十五の遷都を経験している。東京都を入れれば十六なのだが、それは別にして最後の平安京が現在の京都府であるのは今更説明するまでもない。

 平安遷都はしかし唯一「早良親王の祟りから逃げるため」のものであったとされる。

 平城京から長岡京への遷都に貢献した藤原種継が暗殺され、その一味の首謀者が早良親王とされ、親王は淡路島へ配流の途中、無罪を憤った上餓死、それが怨霊となり長岡京に災いを及ぼした、と陰陽師に占われた。

 その結果、平安遷都となった。

 桓武天皇は後に早良親王の霊を鎮めるため崇道天皇の称号を贈ったが、それでも災禍は続いた。

「俺は桓武天皇は近畿の逆五芒星を平安京遷都の守護に利用したと思う。元々は平城京を守る最強のレイライン結界だ」

 真は高校の史学部で共に部員であった剣吾が至極真面目に逆さ五芒星の線が引かれた日本地図を見せて自慢していたのを思い出した。

「出たよ、レイラインハンター剣吾」と他の部員が冷ややかに笑う中、スピリチュアルに傾倒していた剣吾の日本地図はカラフルな直線の群れで塗り潰されていた。

 もはや地図なのか線の塊なのか判別がつかなくなっていた。

 ちなみにレイラインとは直っ直ぐに並ぶ古代遺跡を結んだ直線を指すのだが、日本の場合霊的な山や寺社などの建造物を引いた直線と見なされている。

 また近畿の逆五芒星とは京都府・元伊勢内宮皇大神社と淡路島・伊弉諾神宮、和歌山県・熊野本宮大社、三重県・伊勢神宮内宮、そして岐阜県・伊吹山を互いに結んだ五芒星であり、熊野から見れば丁度逆さ五芒星に見える事からそう名付けられた。一辺が全て一一〇キロメートルの正五角形というミステリアスな形でスピリチュアル界隈では聖地のように崇められている。

「あのな、剣吾、その結界の中に長岡京も入ってるんだが」

 長岡京と平安京はそんなに離れていない、守護なら長岡京も災いなんて起きてないだろ、その説には無理があると真は反論した。

「そこをなんとかするのが陰陽師じゃないか。晴明を見ろ」

 森羅万象を木火土水金の五行により説き明かす古代中国からの思想が陰陽道である。日本に伝播してから神道や仏教、道教などが混ざり合い呪術や占術といった独特の陰陽道が形成されていった。

 古代日本では陰陽は律令制において占いの他、天文や時、暦の編纂などを司る陰陽寮おんようりょうに属していた。寮には陰陽師養成の陰陽博士、天文観測による占星術の専門家・天文博士、暦の作成編纂に関わる暦博士、他に漏刻という水時計で時間を管理する漏刻博士が置かれていた。

 そして日本史において最も有名となった陰陽師が安倍晴明で、彼は天文博士であったが、その活躍は後に創作の手が大幅に加えられ、もはやゴーストバスターのような存在に祭り上げられてしまった。

「晴明は関係ないだろ。それにお前は陰陽師に夢見すぎ。結局祈祷の効果もなく早良親王の墓は大和に移されたじゃないか」

 突拍子もない妄言に真は呆れ果てていた。

「いやいや、問題は陰陽の秘術でオールクリア、陰陽師最強、無問題」

 剣吾は誤魔化して声高に笑っていた。

 真はスピリチュアルにはまった剣吾の住み替えの理由を思い起こしていた。

(そういえばあいつが沖縄に移住したのもユタに占われたからだっけ)

 旅行に出かけた際、沖縄の霊媒・ユタからこの地に住みなさいと勧められ、挙げ句速攻で地元の娘と結婚してしまった友人の、ある意味潔さに真は感服した。

 確かに科学が進んだ現代でも理解できない現象が稀に起こる。

 今でこそ落雷の原理や月蝕日蝕の仕組みは説き明かされてはいるが、平安時代などは天変地異の前触れとしか考えられなかった。疫病が蔓延すればそれは祟りと断定され、場合によっては呪いをかけたとして術師や依頼人が罪に問われた。

 現在であれば理不尽この上ないが、それが独特の歴史や文化を築き上げた。祈りや呪いという無形なものより、形として残っている遺産にこそ興味があった。

 それは国を超えて中国史にも関連し、そこに価値を見出すのが真のライフワークになっていた。


 次に真が訪れたのは栗原とは正反対の町北に位置する禅幢寺ぜんどうじであった。

 禅幢寺は竹中家の菩提寺で、垂井竹中とくれば戦国通では知らぬ者がいない軍師・竹中半兵衛重治である。

 竹中半兵衛は垂井で南宮大社に次いで推されている有名人であり、今は関ヶ原合戦にフォーカスされ過ぎているきらいがあるが、間違いなく観光の目玉となっている。

 その証拠に垂井町内には、岩手小学校前、図書館のタルイピアセンター内、垂井駅北ロータリーの三ヶ所に半兵衛の像が据えられている。

 真は新しく作り替えられて時が経っていない、半兵衛と父重元のほこらの前に立ち、西の森を見上げた。

 そこには菩提山城という山上の城跡が残っており、即ち半兵衛の嘗ての城を指していた。

 竹中家は美濃を治めた斎藤道三の家臣で、また道三の息子の義龍が父親と対立し、親子が争う長良川合戦となった折、道三側に味方して、後に勝利者の義龍の家臣に菩提山城を攻められている。幼い半兵衛の機転で敵を追い払ったというエピソードを持ち、龍興の亡き後、酒色に耽る息子の龍興を諫めるため僅かな竹中家の手勢で稲葉山城を奪取した。

 これで半兵衛の高名は日の本中に轟き、興味を示したのが尾張の織田信長であった。

 信長は美濃を平定した後、その半兵衛を家来にして、秀吉の軍監とした。

 秀吉が半兵衛の庵を訪れ自分の臣となるよう頼んだとする逸話は、中国の三顧の礼を模した後世の創作とされている。

 ただ、木下軍でその手腕を発揮し、秀吉の出世を後押ししたのは相違なく、また義にも篤く、信長に毛利家への寝返りを疑われた黒田官兵衛を、人質に取られていた長男・黒田松寿丸(後の長政)が処刑されそうになったのを知恵を用い匿い助けている。

 その影響により黒田家と竹中家は友好を深め、半兵衛が病死した後に、感謝の記念として垂井の五明稲荷の境内に松寿丸は銀杏の木を植えている。

 その松寿丸は成長し、関ヶ原合戦において西軍となっていた半兵衛の息子・重門を東軍に誘い、結果竹中家を救った。

「軍師、か」

 祠の階段を下り、真は砂利と所々雑草が茂る青空駐車場に停めたバイクのシートに跨って半兵衛の絵がデザインされた観光用の幟旗を見た。

 軍師らしく鎧の胴にはそれを象徴するように軍配団扇が描かれている。

 竹中半兵衛・黒田官兵衛に代表される戦国の軍師は、兵法を駆使し敵を攪乱かくらんし勝利に持ち込む、戦略的な任務を司るイメージが浮かぶ。武田信玄の軍師・山本勘助の「キツツキ戦法」もそれである。

 しかし軍師は元来、陰陽道、または占術で戦の吉凶を占った者とされている。

 室町以降の軍配団扇には方位方角、十二支、天文等が箔押しされたものがあり、日が悪い、方角が悪いと戦の方法を決めていた。

 古くは陰陽師が戦に同行していた記録もあり、平家と源氏が海上で争った壇ノ浦の戦いにおいてもこんな軍談が残されている。

「壇ノ浦で一千から二千のイルカの群れが這うように水中を平家に向かって泳いできた。平宗盛がこれは如何なる旨かと同乗していた陰陽師に占わせた所、イルカが息をするため海面に上がれば源氏が滅び、這うようにして平家の舟の下を通ったらお味方は危ういでしょう」

 するとイルカは平家の舟を通り抜け、占い通り平家は滅びた。

 大将に限らず兵士は命懸けで、生死は神仏のみぞ知ると思えば、占いや信仰に頼る。縁起も担ぐ。

 例えば、今川軍との戦を前に熱田神宮に集まった織田軍は白鷺が飛び立つのを見た。信長はそれを熱田の神の守りだと言って味方を鼓舞した。熱田神宮の神体は草薙の剣となっている。そしてそれは同時に嘗てヤマトタケルの武器でもあった。ヤマトタケルは死去の際白鳥となって飛び立った、その故事を重ねたのだろう。それが吉と出たのか信長軍は今川義元を討ち取っている。

 徳川家康も、天正十八年の江戸入城を、実際は既に七月に入っていたのを八月一日にやり直している。旧暦八月朔日ついたちは「田の実の祝い」の日とされ、豊作祈願を行っている。これは鎌倉時代から「八朔の儀」と呼ばれており、後々「八朔討ち入り」として江戸の伝統行事となるのだが、それとは別の説も存在する。

 寅年生まれの家康が、寅年である天正十八年の八月に寅の方角から入城したという。この日にちと方角には一説には陰陽師が関わっているとされる。

 家康は更に居城を江戸から駿府に移す時でさえ、息子の秀忠の行進路を東でなく一旦北に向かわせてから浜松へと転じさせている。これはその日秀忠にとって東が不吉な方角の「方忌 (かたい)み」であったため、目的地が凶とならないようにする「方違 (かたたが)え」という陰陽道の方位術に依っている。

 家康は縁起を最大限に利用した武将かもしれない。

 関ヶ原合戦の折、行軍途中に献上された大きな柿を手に「大柿 (大垣城・三成のいた城)が手に入ったと喜び、初陣場であった岡山を勝山と改名し、関ヶ原に移動した陣場も「桃配山」といって壬申の乱の時に大海人皇子 (後の天武天皇)が兵士に生えていた桃を配り大友皇子に勝利した場所である。ちなみに桃は魔除けの霊力があるとされ、果物の中で唯一「意富加牟豆美命・大神実命おおかむづみのみこと」という神の名が与えられている。

 反対に占いを逆手に取ったのが豊臣秀吉であった。

 秀吉は本能寺変の首魁明智光秀を倒すべく、中国から京へ向かう道すがら立ち寄った姫路城で「本日は主が戻れぬ凶日です」と真言宗の僧に占われた。しかし秀吉はそれは吉兆と喜んで出陣していった。それはそうだ、光秀に勝てば姫路に戻る必要はないゆえ秀吉の判断は正しかった。

 対して光秀は本能寺変前に愛宕権現太郎坊にてくじ引きを三度引き、全て凶を出している。その結果は歴史が証明している。とはいうものの、このみくじの話はどうもフィクションらしく確実な資料には出ていない。ただ、前述の秀吉の逸話も『川角太閤記』が元なので信憑性には欠ける。

(竹中半兵衛と南宮大社は……直接関係ない)

 真は熟考の結果、ここも違うだろうと結論付けた。

 直接は違うというのは、半兵衛の従弟または甥とされる竹中伊豆守重隆が関ヶ原合戦前に家康の代参で大社に勝利祈願に訪れている。その際、斉藤道三の甲冑を奉じていて、それが現在も大社の宝物として社内に保管されている。

 重隆はまた大坂夏の陣前にも家康から大社へ勝利祈願代参を頼まれている。

 真はついでに南宮大社と垂井にまつわる関ヶ原の陣地マップをスマホで確認した。

 垂井城主の平塚為広は関わりがない。東軍諸将も同じで、直接関係があるのは南宮山周辺の西軍に絞られる。

 当時の南宮大社の禰宜・厚見右衛門が伝えた『上月家文書』では九月九日に安国寺恵瓊・吉川広家の両軍が大社に入り乱暴狼藉を働いた上放火したと書かれている。町内の或る郷士の文書は九月十四日が大社の消失日とされる。反面南宮大社の文書には九月十八日に安国寺軍が火を放ったと記されている。

 しかしこれには食い違いが見られる。十八日は合戦の三日後で、逃走した安国寺軍が南宮山に居残っている訳はない。

 南宮山の西軍はほぼ戦いはしておらず傍観を決め込んでいた。

 いや、傍観を決め込むという表現は正しくないだろう。東軍に通じていた吉川広家が戦に逸る西軍諸将を無理矢理止めていた。そのため、他の隊から出撃の時機を尋ねに来ても、毛利の仮大将の秀元は「今、我が軍は弁当を食べている最中だから」と屁理屈をつけて返答を避けるしかなかった。それが「宰相殿(秀元)の空弁当」と後世に不名誉な逸話として残された。

 戦国大名が寺社を焼くのは珍しくない。それに当時南宮大社以外の町内の社も焼失の憂き目に遭っている。恐らく血気盛んな各隊が火を放ったのだろう。

 神殿を焼くとは罰当たりな、と一般的には嫌悪されるが、建築物は再建がきく。比べて武士は負ければ死ぬ。どちらを選択するかとすれば火をかける方を選んだ、それだけに過ぎない。

 そして仮に毛利家が大社を焼いたとてあまり気掛かりはなかったのかもしれない。毛利が信仰したのは厳島神社であって、右も左も分からない美濃の神社ではなかった。だから放火に対して何の抵抗もなかったのだろう。

 ただこれは仮に付け火の原因が毛利としただけで、大社放火の時期と犯人は本当の所判明していない。

 ともあれ、婆ちゃんは放火犯を発見したんじゃないな、と真はメットを被ってエンジンをかけた。

 和佳は大社に相応しい宝と断じていたのが脳裏に甦っていた。

 とても大社炎上の件ではないはずだと行き先は垂井町役場に向いていた。


(ここが一番大社と接点がある場所だと思うんだが、さて)

 真は役場から北に百五十メートル程に位置する祠の前に立って東を向いた。

 境内に生える大木等が空を覆い、芽吹きだした緑の群れが視界を遮り、見えるのは相川河川敷の芝生と不破中橋が覗く程度だ。

 ここから東四キロメートル弱の所に「御首神社」はどっしり鎮座している。

 地元民には言わずとしれた「平将門」の首を祀った神社で、首から上のありとあらゆる病に効くとする霊験あらたかな人気スポットとなっている。

 しかしながら南宮大社とは令和の世であっても敵対していると囁く人間も少なくない。

 そしてまた将門伝説に関与しながらもあまり知られていないのが、この相川堤防の畔に佇む「神明しんめい神社」だ。

 時は天慶二年(九三九年)、桓武天皇の血を引く将門は京の朝廷から離れ、関東で独自に「新皇」を名乗った。将門は朝廷の横暴や地方の国司の勝手次第な政治に立腹しての謀反で、重税に嫌気がさしていた民衆を味方に付け関東八ヶ国を瞬く間に手中に収めた。途轍もない強さの進軍に朝廷は恐れおののき、様々な寺院に将門打倒の祈祷を命じた。

 結果はというと、何せ平盛貞・藤原秀郷らは錦の御旗を掲げた歴とした追討軍、将門は謀反を起こした朝敵となり、やがて将門は討ち取られてしまった。

 と、ここまでは史実として歴史家も反論は無いだろう。

 だが、正伝としては取り扱いにくい問題が将門の負け戦から生まれた。

 敗軍の将となった将門は斬首となり、七条河原で首を晒された。しかしその首は腐敗せず、高笑いして故郷の関東目がけて飛び立った。

 そこで登場するのが南宮大社の隼人社の神・火須勢理命ほすせりのみことだ。火須勢理命、いわば隼人神は京から黒雲と共に火を吐きながら飛来した将門の首を天空目がけ竹製の神矢を放った。その矢は見事に命中し首が地に落ちた場所が大垣市荒尾の御首神社となった。

 一説にはもう首が飛ばないように土深く埋めたというが、では関東の将門の首塚はどう説明するのか。それに滋賀県愛知郡千枝、東京都浅草鳥越、栃木県足利郡小俣など他の地域にも将門首伝説は生じている。

 話は前後するが、実はこの神明神社は隼人神が弓を射た場所、または弓を立て掛けた場所で「弓張ゆみはり明神」を祀っているという。

 しかし現在神社の説明では主祭神は天照大神と豊受大神と記されていて弓張明神の名は無い。

 ちなみに地名の「ゆりの宮」も花の百合ではなく「圦の宮」と書き、これは元は「弓の宮」、または「いりの宮」であったと言い伝えられているためで、弓が飛んでいったルートが後に大垣の矢道町(元・矢道村)となったのは周知の事実だ。

 大社の隼人社の前には弓の材料である矢竹が植えてあるのはよく知られていて、その将門伝説に因んで行われているのが南宮大社節分行事の「大的おおまと神事」であり、これは神職が大きな的を目がけて矢を交替で十二本(正確には十四本)射る。

 またその神事では的の裏に鬼の文字が逆さに貼って厄除けとしている。

 ところでこの将門伝説について真は昔剣吾と一度討論した覚えがあった。

 スピリチュアリストでオカルトマニアの剣吾は神霊が視える特別な人間、または神職か高僧が皆に隼人神が将門の首を神が射貫いたと報告したに違いないと断じた。

 事実、将門が反乱を起こした時、延暦寺の阿闍梨・明達が南宮大社内の南神宮寺で将門調伏の四天王法を行っており、その際とてもくさい臭いが美濃国中に立ち込めたという。南宮大社は乱が鎮まり、庚平年中(一〇五八~六五)の安部貞任さだとう追討の祈祷により後に正一位勲一等が与えられた。

 遡ると大社の神位は八三六年・従五位下、八四六年・正五位下、八五九年・正三位、八六四年・従二位、八七三年・正二位と四十年弱で一気に昇進している。

 更に後の九五七年に将門の霊を鎮めるため追捕凶賊使であった源経基によって隣松寺が建てられている。

 リアリストで唯物論者の真は、剣吾の説は常識に照らし合わせればかなり奇妙であるが、神霊云々というのは非科学的な流言が渦巻いていた当時であればあり得ない話ではないと押し問答になる事はなかった。

「神矢、ね。婆ちゃんが残した例の破魔矢と何か関係があるのか」

 破魔矢は魔を射る厄除けの縁起物だ。その絵馬の裏に密に書き込まれた理解不能な数字の塊、そして何故それが矢にそのまま付けてあったのか。

 真は額を拳でコンコン叩きながら状況を整理しようとした。

 破魔矢に絵馬がついているのは珍しくない。ただ絵馬は破魔矢から離して神社に奉納するケースが多い。しかし和佳の破魔矢は絵馬が購入した状態のままで、且つ子年のイラストが描かれていた新しいもののため、あのヒント集は二年前に作られたと惟るのが妥当だ。

 ネズミと矢とくれば神話の、大国主がネズミに助けられる「鳴鏑なりかぶらとネズミ」が挙げられるが、こだわりの和佳ならば大社で販売している鏑矢にこの絵馬をつけるだろう。しかしここでは普通の破魔矢となっている。だからこれは老齢化した和佳が自分の身に何かあった時のために偶然子年に用意しておいたのだろう。

 ところで破魔矢のルーツは日光山輪王寺(授与を始めたのは東京新田神社。平賀源内が浄瑠璃を書き下ろして宣伝した)とも言われている。仏教の青面金剛に添う烏魔勒伽うまろきゃが手にする金色の弓矢がその嚆矢とされ、輪王寺には徳川家光の霊廟・大猷院たいゆういんがあるが、大社との繋がりは家光というくらいなものだ。

 すると謎は御首神社に隠れているのだろうか。

 真は御首神社の祭神を思い出していた。

 主祭神は無論将門公だ。しかし、合祀された相殿あいどの神は南宮大社の金山彦と神戸西宮の蛭子ひるこ神の二柱となっている。

 南宮大社の金山彦の並びで隼人神が祀られているため、金山彦が相殿となっているのにはまだ納得出来るが、何故西宮の蛭子神なのか。

 それは広く「えべっさん」と親しまれている恵比寿信仰なのだが、恵比寿も発祥は蛭子説、少名彦命説、事代主ことしろぬし説の三つに分かれている。

 将門を祀る東京神田明神は他に少名彦を祀っている。

 しかし、御首神社は西宮の蛭子神、神田を模倣したのかと思えば全く違う。

 また恵比寿は山幸彦という説もあり、それはつまり彦火々出見尊ひこほほでみのみことで、この神は南宮大社・金山彦の相殿となっているので共通点はあるもの何か違和感が拭えない。

 ただ東の相殿舎の「南宮」と西の相殿舎「西宮」の東西で将門公を封じようとしたのか、謎は深まるものの、これは大社のミステリーとは繋がらないなと真はこれで一通りの垂井観光地検証を終了した。


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