第1話

(ここに来ると帰省したって気になるな。高校を出て七年ぶりか)

 濃紺スーツを脱ぎ、ブルーシャツに緩んだストライプのネクタイを軽く締め直した坂城真は、鮮やかに塗り直された朱色が引き立つ十三メートルの楼門を見上げてから視線を落とした。

 門の内部の両側には衣冠束帯の随身像が柵越しに垣間見える。

 江戸初期から門を護っているせいだろう、製作当時は煌びやかだっただろう衣装の色彩もほぼ消え、台座と共に像の表面も年月と共に剥離し朽ちている。

 岐阜県不破郡ふわぐん垂井町たるいちょう宮代みやしろ峯一七三四の一。

 およそ北緯三五度二一分、東経一三六度三一分。

 美濃国一之宮「南宮大社」。

 社伝では崇神天皇の時代に創建されたとされ、官社指定神社一覧である「延喜式神名帳」には仲山金山彦神社と記されている。崇神天皇が実在したかどうかは別にして、延喜式の方は西暦九二七年にまとめられている。資料上南宮大社の存在が現れるのが『続日本後記』の八三六年で南宮の存在は少なくとも平安前期にさかのぼる、全国的に見てもとても長い歴史を持つ神社である。

 そして金山彦神社とあるように南宮大社の主祭神は製鉄の神「金山彦大神」で、金山彦は神産みの父神、伊弉諾尊いざなぎのみことと母神・伊弉冉尊いざなみのみことの間の子であり、火の神・迦具土之命かぐつちのみことを生む際、その熱で産道を火傷した伊弉冉尊はショックで口からドロリとした二柱の神を吐き出した。

 それが夫婦神、または兄妹神である金山彦と金山姫で、その様子が溶鉱に似ている事から鉄の神に変じたと一般には伝えられている。

 門を潜り、境内左手奥の神饌しんせん所の壁を見上げると鎌や包丁、鋏、工業部品などを貼り付けた「金物絵馬」が埋め尽くされている。

 鉄神の象徴だ。

「しかし、相変わらず平日は閑散としてるな。変わったのは手水舎の柄杓が無くなってステンレスのといになった事くらいか」

 三月初旬の冷たい強風でオールバックの乱れたくせ髪を手で押さえた真は静まり返った境内を眺めた。拝殿から高舞殿から楼門を見渡しても参拝者が一人拝殿で手を合わせているだけで他に誰の姿もない。

 人影が見えるのは授与所の中の巫女達と自分、そしてその背後で物凄い怒りの形相で睨み付け、狼のようにうなり声を上げている若い女性役場職員だけであった。

「何だよ、しつこいな。まだ怒ってるのか」

 真は苦り切った顔で彼女に振り返った。

 濃い茶色のショートボブの髪を振り乱した白いブラウスの女性は、切れ長の目を剥いて凄まじい剣幕で憤りをぶちまけた。

「当たり前じゃない、真。高校卒業したら勝手に連絡切っちゃって。剣吾とだけメールして。剣吾にメアド教えるなって注文付けたんでしょ。高校違っても電話なりなんなりしてたじゃない。それなのに東京の大学へ行ったなり全然コンタクトなくなるし。小学校も中学校も幼馴染みで仲良かったのにその急な冷たさは何」

 胸ポケットには力こぶのイラストの上に「かったるくないぞ垂井町」という奇妙なスローガンが書かれた丸ワッペンがカチカチ揺れている。

「それに帰ってきたら帰ってきたで知らせなさいよ。突然職場に来た時は驚いたわよ」

「驚いたのは俺も同じだ」

 一週間前、剣吾に帰郷の報告をラインで送ったらその日の夜に、おお、帰ってきたか、の文字の後にこんな文章が流れてきた。

 剣「そいや、お前今大学の仕事探してるんだってな。じゃあ暇なんだろ」

 真「帰省するなり暇って言い方されると腹立つな」

 剣「悪い。しかし折角その若さで博士号取ったっていうのにどうして東京に残らなかったんだ。史学の大学院五年を三年で短縮終了って優秀だろ」

 真「婆ちゃんの家を守れって遺言なんだよ。親はいつも留守だしな」

 剣「いつまでも婆ちゃん子だな、お前」

 真「ほっとけ。それで何か用か」

 剣「そうそう。いや、俺さ、知り合いから垂井町の町おこしのアイデア考えてくれって頼まれてさ、困ってんだよね。ほら、俺今嫁と沖縄で楽しく暮らしてるから」

 剣吾は青海原に浮かぶヨットで楽しそうに戯れる夫婦のツーショット画像を添付してきた。遠慮無い自慢に真は辟易して返信した。

 真「惚気なら切るぞ」

 剣「あ、そうじゃなくて、その知り合い、役場の産業課に勤めてるんだけど結構切羽詰まってるみたいで。お前一回会って話してくれないか。真、史学博士だろ。相談に乗ってやってくれよ」

 真「おいおい、俺の専攻は主に日中の比較文化論だぞ。観光なんかに役立つ訳ないだろ。そういうのはコンサルタントやってるお前の領分だろが」

 剣「無茶言うな、岐阜は遠いよ。それに真、神社仏閣にも詳しかっただろ。垂井はそういうの多いし。日本史のテストいつも学年一位だったしな。町おこしに適任だってば。だから一応話だけでも聴いてやってくれ。担当さんは気さくな良い人なんだ。助けてあげたいんだよ、頼む、この通り」

 最後に合掌スタンプが送られてきた。

 真「仕方ない。剣吾の顔を立てて一回だけ役場に行く」

 剣「ヨッシャー」

 今度は雄叫びスタンプが来た。

 真「何だ、俺が手伝うのがそんなに嬉しいのか」

 剣「ちょっとまあな。じゃあ先方に会う日セッティングしておくから。決まったらまた連絡する。あ、そうだ、役場移転して新しくなったから古い方と間違えるなよ」

 真「知ってるよ、二十一号のマックの東」

 剣「そうだ。受付、一階にあるから俺の名前で産業課のアポ取っとく」

 真「は、なら俺行けば怪しまれるだろ」

 剣「なんくるないさー。何とか話つけとくから。じゃな」

 おい、と打つ間も無く切られたラインに呆れた真は引っ越しの段ボールが幾分残る自室のベッドにごろんと横になって垂井町役場のホームページを眺めた。

「産業課……、商工観光係、これか。観光課でも観光部でもないし、他は……、企画調整課地域振興係……、ああ、これは観光ではないのか。商工観光係……、商業、工業、労働者支援、観光協会……、観光協会は、別か……」

 引っ越しの疲れも出たのか真はそのまま気絶するように深い眠りに落ちた。

 そして翌日の昼には剣吾からスマホに「例の件、五日後の昼一時にアポ済。ゆたしく(よろしく)」との沖縄方言メッセージが残っていた。


 それから五日後、早いランチを中華楼で済ませた後、スーツで正装した真はリニューアルした垂井町役場へと足を踏み入れた。

 嘗ての商業施設を改良した環境に優しいという触れ込みである。

 実際ガラス張りの玄関から眺望しても広々とした壁のないセクションが一つに集約されている。そして壁や天井のコンクリートに木材を上手く配置させた造りで、且つ、暗く冷たくなりがちな空間をいくつかの吹き抜けで自然光を採りいれ明るさを巧みに広げている。

「何か御用ですか」

 入口で中を見やっていると案内係とタグをつけた女性職員が声を掛けてきた。

「あ、戸塚剣吾という名で産業課に今日の一時にアポイントを取っています。名刺はありませんが、観光の件で」

 役所は正直苦手だ、との空気を悟られないよう出来るだけ丁寧に話したが、係の者はチラチラと胡散臭い視線で「確認致します。少々お待ち下さい」と産業課に向いて歩いていった。

(俺みたいな研究職にこういう場所は不向きなんだよな。それにもともと柔和な顔付きではないし怪しまれるのも無理はない)

 自虐的な自己分析をしつつ真は暫く待った。それから二分ほどして、

「確認取れました。担当者がミーティングルームで待機しております。こちらへどうぞ」

 と硬い表情でついてくるよう手を向けられた。まあ、不審がられて追い返されるよりはマシかと思い直して真はそのまま案内係の後を追った。

「え、ミーティングルームが急遽きゅうきょ使えないってどういう事ですか。それに彼女まだ昼から帰ってないんですか。困ったなあ」

 急に案内係が担当者不在と部屋の利用申請に不具合が発生していたのを課の別の人間から告げられ済まなそうに真に謝罪した。

「申し訳ございません。担当の者は只今席を外しておりまして、もう暫くしたら戻ると思いますので入口近くでお待ち頂けませんか」

 構いませんよ、と小さく手を挙げて真は一人手持ち無沙汰にエントランスの棚に置いてあった観光パンフレットを読んでいた。

 待たされるのは海外で当たり前に慣れている。

 日本は時間に正確で律儀な方だ。国や地域によっては約束をすっぽかされるなんて珍しくないし、袖の下が無ければ順番を先延ばしさせる事すらある。そんな過去を静慮している内に、入口の自動扉が開いたのと同時に小走りで濃紺のパンツルックの女性が息を切らせて駆け込んできた。

 遠目でよく見えなかったが、案内係に急かされてこちらに早足で向かってきて、真の背中に語り掛けた。

「遅れてしまって申し訳ございません。戸塚様からご紹介頂いた史学博士ですね。私、産業課商工観光係の八神と申します」

 八神と名乗ったその担当者は真が振り返るのと同時に名刺を差し出していた。

「……姫香」

 真は向けられた名刺の名前と担当者本人の顔を見比べて固まった。

 首から提げている役場IDカードの名前も間違いなく幼馴染みの八神姫香であった。

 予想外だったのか姫香も真の顔を見て一瞬で凍り付いた。

「ま、真なの」

(さては剣吾の野郎、計りやがったな)

 ヨッシャーとラインで雄叫びスタンプを送ってきたのに合点がいった。大学でお互い連絡を取り合っていた時、個人的な事情や盆正月で故郷に帰ってくる際はやたら姫香と会わせようとしていた剣吾である。

 とにかく徹底的に内緒にしていた真は反射的に、「イイエヒトチガイデス、ワタクシヨウヲオモイダシマシタ」と機械的な返事でその場を離れようとした。

「少々お待ち頂けますか、博士」

 姫香は力尽くで逃げようとする真の右手首を掴んだ。細身だが筋肉質の腕は完全に獲物を捕らえた鷹の爪であった。

 姫香は小声ながら低音で囁いた。

「観光以外でも種々お話を伺いたいのですが」

 姫香のつり上がった目の縁がヒクヒクと痙攣している。

 真は観念して長大息した。

「南宮大社で幼馴染みと会う私用がありますので、そちらでなら承ります」


「怒るわよ、怒るに決まっているでしょ!」

 大社の境内の中でも姫香は手にした半透明ファイルを振ってずっと立腹していた。

「嫌いになったら嫌いになったって突き放せばいいじゃない。私、知ってるんだからね。剣吾だけじゃなく、裏で剣吾を通じていつきとは連絡取ってたの。斎も約束だからって大学の状況とか絶対話してくれないし。なんで私だけ仲間外れにするの。愛想が尽きたならもう二度と近付かないわよ」

 責め立てている内に段々と涙目になってきている。

 真は、悪かった悪かったと謝った。

「いや、お前、卒業間際に同じ弓道部の部長にコクられたって。それで付き合うようになったって耳に挟んだから」

「だ、誰から聞いたの、そんなの」

「剣吾」

「は?」

「それでお前がその部長にバレンタインのチョコ渡して、卒業の前に相思相愛になったって」

「な、な、な、何言ってんのよ。剣吾は話端折はしょりすぎ! あれは高校最後の遊びで弓道部の女子が男子全員にくじ引きで渡しただけだから。誓って変な考えはなかったんだからね」

 慌てて姫香は両手を振った。どうも剣吾にからかわれたようだが、真はそれを聞いて無表情な顔で窘めた。

「お前、そういう気を持たせる余興は男なら引くぞ。それは勘違いされても仕方ない。お前が悪い」

「うう、反省してるよ。訳話したら部長凄く機嫌損ねてた」

「当たり前だ。せめてそれをやるなら最初から義理ゲームですって説明すべきだったな。なら笑って流しただろう」

「そうだね……。あれ、じゃあ私が誰かと付き合ったと思ったから連絡切ったの」

 さも意外そうな顔で姫香は尋ねた。

「別にそれだけじゃない。東京は物価が高いし何かと入り用だ。授業とバイトも掛け持ち、専攻の中国に行くのにも旅費が掛かる。授業とバイトにひたすら明け暮れてた大学、大学院の七年間だったよ」

「でも院ならそこまで忙しくないんでしょ。ならちょっとくらい連絡くれたって」

「あのな、姫香、大学院こそ忙しいんだ。どれだけ過密なスケジュールか知らないだろ」

 今度は真の眉が痙攣した。

「それに高校時代、テスト前の夜中の二時、三時に長電話してくるわ、終わらないメール次々と送ってきたの誰だった。お陰で何度睡眠不足に陥って成績下がったか。何の嫌がらせだったんた、あれは」

「あはは、その節は大変申し訳なく思ってます」

 泣いたカラスがもう笑っていた。

 仕方のないヤツだ、と真も呆れ果てた笑みを返した。

「それはそうと姫香、お前、相も変わらずフィレオフイッシュ好きだな、それもタルタル増量で。ついでにポテトも頼んだろ。昼、マックで済ますにしろ、もう少し落ち着いて食え」

 姫香はギョッと目を瞠った。

「な、何、私をマックで見てたの」

「そんな訳ないだろ。お前が役場勤めだってのもさっき知ったんだぞ」

「だったら何で……」

 と問い返した所で姫香のスマホから着信音が鳴った。姫香は焦れったい気持ちを抑えて電話に応じた。

「はい、八神です。はい、いえ、大丈夫です。はい、その件でしたら商工会の方に昨日書類を作成して送付させて頂きましたが……」

 姫香は境内から南門を抜けて、南宮山登山道の入口にもなっているアスファルト道路の脇に咲き残っている椿の木の下で通話を続けていた。

 真は姫香の電話を待ちながら登山道の緩やかな坂道を少々歩いていた。

 大社には主祭神・金山彦以外にもいくつもの摂末社が点在しているが、森の中の登山道脇にも伊勢両宮や湖千海神社など様々な小社が建てられている。

 そして道の突き当たりの奥には、年月を物語る古びた中型の朱色の百連鳥居がずらりと並んでいる。

 その様はちょっとした伏見稲荷大社のそれに近い。

 それはそうだ、南宮稲荷神社は京の伏見稲荷から文久二年に勧請されている。故に祭神は同じ宇迦之御魂神うかのみたまのかみとなっている。またその古ぼけた鳥居達の両脇には椿の木々が並行して数多植えられている。「千本椿奉献碑」と石碑に彫られているように以前は「献椿」が流行っていたようで、南宮大社が別名椿神社と呼ばれる所以となっている。

 と、その時、鳥居の左横前方からガサガサッと葉がこすれる音が鳴った。

 真は思わず警戒して首を向けた。

 だが出没したのは単に小型の角のない鹿である。

「何だ、雌鹿めすじかか」

 子供の頃から何度も目撃している真は安堵して再度その動物を見た。

 南宮山には昼夜を問わず昔からよく鹿が出る。その雌の鹿は十メートル程距離が離れていた真と一瞬視線を合わせたが、登山客に慣れているせいか、その辺りの草を悠然と食らっていた。

「しかし、姫香のヤツまだ電話してるのか……。ん?」

 鹿に構わず声を張り上げている幼馴染みの役場職員の元に戻ろうと東に歩き出した矢先、真の左目に小さな石垣を昇る階段が飛び込んできた。

「東照宮……」

 真は立ち止まって、基壇きだんと呼ばれる石垣積みの上に鎮座するやや大きめの小社を無意識に見上げた。

 南宮大社も摂末社とはいえよく観察すると全て造り(建築様式)が違う。大社の中の社は七王子社と落合神社以外全て屋根は檜皮葺ひわだぶき、しかし登山道の摂末社は押し並べて銅の屋根となっている。

 固より、南宮東照宮であってもそれは変わらない。様式は一間社流造で、古ぼけてはいるが他の摂末社とは大きさが異なり、空を覆っている森葉の陰が屋根に降り注ぎ、威厳に満ちた重々しさを映すその社が南宮大社にとってやはり別格な存在であるのを改めて抱懐せざるを得ない。

「ま、大社は家光が建て直した神社だからな」

 真は石柱に彫られた東照宮の文字を見て呟いた。

 古より名を馳せた「仲(中)山金山彦神社」、現在の南宮大社は天下分け目の関ヶ原の合戦で全て焼け落ちている。それを徳川幕府が七千両のも金額をかけて再建さいこんしたのがこの神社である。

 徳川三代将軍家光は初代の家康を世界一尊敬していた。

 であるから南宮大社を再建した記念としてこの宮を建てたのだろう。大坂方と戦って兵火に巻き込んだ責任を家康とて多少なりとも感じていたはずだ。しかし大社の再建が終了した時には家康は既に鬼籍に入り、「東照大権現」の名ではるか遠い栃木日光東照宮(宮号が宣下される一六四五年までは東照社と呼ばれていた)に神として眠っていた。祝いも込め家光がこの社を造ったのは想像するに難くない。

「真ー、ゴメン、ちょっと北駐車場に一旦戻るから」

 静けさを打ち破る姫香の大声が響くと草を食んでいた鹿が驚いて山中に逃げていった。

 仕事関係の書類でも確認しに行ったのだろう。ヤレヤレと真は小走りにかける姫香の後をついていった。


「それで、それで」

 北駐車場にたどり着いた時には用務を済ませていた姫香が真を待ちきれない様子で鼻息荒く急き立ててきた。

「何だよ」

「さっきのランチの件。何で私が食べたものまで言い当てたの。それにどうしてマックで食べたって分かったの、ねえねえ」

「いいから落ち着け」

 目を輝かせた姫香の顔から仰け反った真は、簡単な解だ、と前置きして説明した。

「お前、さっき役場にかなり息を切らせて入ってきたろ。時間を守るお前が遅刻してきたってのは多分ランチの中頃、または終わり頃仕事で急な連絡が入ったって所だ、違うか」

「う、うん。その通りだよ」

「役場の正面駐車場はかなり空いてた。職員専用駐車場から戻ってきたならまだしも、正面玄関前の駐車場から人影が走ってくるのがチラリと見えた。自動車で戻ってきたならあそこまで息遣いは荒くないだろう。だからお前は近場で昼を食べて走ってきたと考えたんだ」

「……」

 姫香は不審そうにじっと真を見た。

「何だよ」

「真、何で七年近くも垂井に戻ってきてないのに職員用駐車場の場所知ってるのよ」

「別に驚くことないだろ。前にネットの書き込みで見たんだよ。隣の昔のパチンコ屋を町が買い取って立体駐車場を職員専用で使ってるって」

 ああ、と納得する姫香に真は更に指摘した。

「役場から一番近い飲食店はマックだ。そこなら歩いて帰って来られる。それにお前の性格上、約束の時間に遅れないよう遠くにはいかない。だからマックだと思ったんだ」

「ヨシヅヤでお弁当か何か買って食べたかもしれないじゃない」

 姫香は何とか論破しようと試みた。真は一旦肯定して二本の指を立てた。

「確かにスーパーも近い。その可能性もあった。でも俺がマックだと思い至ったのには二つの確かな理由がある。第一にお前の上着に僅かながらタルタルソースが零れていた。あれはお前がソース増量でやりがちな事だ。そしてフライドポテトの短い欠片がパンツのベルトに引っ掛かっていたのが見えた。そのポテトはもうどこかに落ちたみたいだけどな」

 姫香は、えっと驚いた顔で自分の服を見て慌ててハンカチでそれらを拭い落としてから赤面して言い立てた。

「そういうのは最初に教えなさいよ、バカ、恥ずかしいでしょ」

「お前、激怒していてそれどころじゃなかったろ」

「……そうだけど」

「それよりポテトは決定的だったな。あれでマックだと気付く」

「モスかも」と言い掛けた姫香は口を止めた。モスバーガーも役場の近場にあるが、二店のポテトの太さは全く違う。

「何よりの確証は」と真は姫香の手にしていた半透明のファイルを指さした。

「仕事のファイルにマックの割引クーポンチラシ入れるの止めた方がいいぞ。それ今日の朝刊に入ってたヤツだろ。丁度フィレオフイッシュとポテトのクーポンの所だけ切り抜かれてる」

「相変わらず変なトコ見てるのね。どんな視力してんのよ、変態」

 姫香はファイルを隠しながら目を細めて真を睨んだ。

「変態とは失礼な。単に観察しただけだ。孔夫子こうふしのたまわく、『其のす所を視、其のる所を観、其の安んずる所を察すれば、人いずくんぞ隠さんや』だ」

「コウフシ?」

「孔子、『論語』の一節だよ。人が行動するには必ず動機がある。そしてその行いにどれくらい満足しているかを察知すれば人間は隠すことが出来ない。例えは異なるかもしれないけど、見ると観るの違いだな」

「どういう事」

「同じ目という器官を持っていても漠然と『見る』のか、注意して『観察』するか。要するに意識の問題なんだが。うーん、例えばそうだな……姫香、今ここの駐車場に大型バスとかマイクロとか乗用車何台も入ってきただろ。それを観ると俺が斎に会えるのはちょっと時間が掛かりそうなのが分かる」

 真は各車から降りてきた人間の群れをざっと見渡した。

 大型バスからは明らかに観光客らしい高齢の女性が二十人程、マイクロバスからはしっかりネクタイを締めた黒服を着た男性が十人ほど降車してきた。それとは別に三人ほど乗用車から長い紙袋を手に提げた男性と女性がその荷物に気を付けて歩いていた。

 姫香は意味が理解できずにただその参拝客らしい塊が楼門に向けてぞろぞろと歩いていくのを見つめているだけだった。真は更に予想した。

「斎はこの大社の巫女長を務めているだろ。今はきっと授与所に詰めているはずだ」

「社務所にいなければ多分そうだね。だから何」

 まだ何一つ解せていない表情を姫香は向けた。

 真は参拝者の一行が楼門を潜り終えたのを確認してから、その後を追うように歩きながら説明をした。

「授与所は恐らく人で溢れている。開いている四つの窓口は一杯だろう。職員は対応で大わらわだろうな。だから斎と話すには暫く時間が要る」

「え、そりゃあ人は沢山来たけど授与所にいきなり集まるって訳じゃ……」と論じ返そうとした途端、楼門を抜けた姫香の視線の先に真の指摘通りの光景が繰り広げられていた。

 授与所には大勢の人集りが出来、拝殿にはまだ誰の姿もなかった。

 口をポカンと開けたままの姫香に、「な?」と真は小さく肩をすくめた。

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