ガットの切れ目は
パンッ パンッ
なんとも濃厚な数日が過ぎ去り、今までの平穏な雰囲気が戻りつつある中、俺はいつも通り高架下で壁打ちに勤しんでいた。
動きの感覚は徐々に戻りつつあり、大分マシにはなったとはいえ……全盛期にはまだまだ程遠い。とはいえ、詩乃先生からのお達しで必要以上の練習は禁止されている。
壁打ちは連続10分まで。終わったら必ず水分補給と休憩を挟む。今のところ1日に1時間以上は肘に負担を掛けない。
恐ろしく細かな指示に自分ひとりだったら簡単に破ってしまうだろう。実際昔はそうだった。
ただ、今回は……違う。同じ過ちを繰り返さないと決めて、ラケットを握ったんだ。
タイマーはまだ鳴ってないな? それにしても、バランス崩さなくなったな。最初は跳ね返ったボールに食らいつく事で頭が一杯だった。
けど、今はどこにどう打てば楽に返って来るか。そうする為にはどういう体の使い方で打てばいいのかまで、考えて動けてる。
変わってきた証拠かな? あぁ変わったといえば、あの屋上事件以降……クラスにおける俺のイメージも大分変わったようだ。それも何とも善し悪しが付けにくいものに。
女子からは、特に九条先輩と仲が良いと知られ、尊敬や先輩の話なんかを聞かれる事が多くなった。あとは、学校内での美女たちと知り合いって事で魔性の男疑惑を持たれたりと……なんとも不安定な立場になっている。
一方男子からは、数日はハーレム野郎と罵られたけど……あとから俺経由で、特に桐生院先輩と仲良くなれる可能性を見出した薄情な奴らに変わったよ。まぁ、大体の男子にはなぜか尊敬されてりと、こっちも良く分からない立場になった訳だ。
……とりあえず、クラス全員から怪奇及び怒りの眼差しで見られなくて済んだのは奇跡かもしれない。教室の雰囲気もなんだかんだでいつも通りに戻ってるし。
となれば、俺は俺でやるべき事に集中する訳だっ。
「よっ!」
っ!?
その時だった。ボールを打ち返した瞬間に感じた違和感。手に感じる振動と打球音が、少し変わった気がした。
あれ?
気のせいかと思い、確認するようにもう1度打ち返すと、やはりいつもの軽快な音じゃない。
もしかして……
嫌な予感が過る中、返って来たボールを掴み、俺はラケットへと目を向けた。
そしてその嫌な予感は見事に的中する。
「やっば……ガット切れた」
★
なんて事が昨日あった訳で、今日の自主練は休み。だけど、家に戻るとガットが切れたラケットを手に持った。
「あっ、気を付けて行って来てね? 空くん」
その様子に、先に家に居た美耶さんはいつも通り声を掛けてくれる。ただ、その行先が高架下でない事は知っている。
「わかりました。美耶さん、本当に買ってくる物ないんですか?」
「うん。今のところは大丈夫かな? ありがとう」
「全然ですよ。じゃあ行ってきます」
「はーい」
さて、じゃあ非常事態という事で急遽行きますか。サンセットムーンに。
っと、着いた。
前に美由達と来た複合型商業施設サンセットムーン。平日の放課後に、ここへ来た理由は1つしかない。そう、ガットの張替だ。
ここに入ってるスポーツ店は小さい頃からお世話になってた。前に来た時、変わらず営業してて嬉しく思ったんだ。
その作業の丁寧さは自分が良く知っている。直して貰うならここ一択。
さて行こうか……
なんて思い、入口に向かって歩こうとした時だった。
「そっ、空?」
不意に聞こえてきた声。
しかしながらその声は、聞き覚えがあった。それも嫌な意味で。
ゆっくりと視線を向けると、そこには予想通りの人物が立っていた。
制服に身を包んだ、
「かっ、樫乃」
樫乃茜だ。
最悪だ。ここに入ってる、トマト&トマトでバイトしてるのはもちろん知ってた。けど、まさかこのタイミングで出会うとは。
「なんでここに」
「えっ、まぁ……」
樫乃の俺に対する冷たさは折り紙付きだ。しかも前は、美由と美世ちゃんが、そんな態度に反撃して……いい意味で恥をかかせた。その前例と、2人が居ない今……絶対に倍以上の攻撃をしてくるに違いない。
とりあえず何を言われてもスルーだ。本来の目的を忘れずに、冷静にいこうぜ? 空。
それにしてもあの制服。美由達が前に居た鳳瞭学園のだよな。ここでバイトしてるって事は引っ越しって言ってもそう遠くないだろうとは思ってたけど、まさか名門鳳瞭学園とはな。まぁ俺に対する性格は抜きにして、元々学力も運動神経も高かったもんな。
「って、あんたそれテニスラケット?」
「そうだけど……」
って、来た来た。
はぁ? 今更テニス始めてどうすんのよ。2年のブランク取り戻すのに何年かかると思ってんの? せいぜい地区大会3回戦が良い所じゃない? 的な事、ニヤニヤしながら言うんだろうな。まぁ別に、適当にあしらう……
「テッ、テニスまた始めたの!?」
だけ……だよな?
今までの経験上、樫乃が俺に言うであろう言葉や態度は、何となく想像は出来ていた。けど、そんな考えに反して目の前の樫乃の表情は、目を丸くさせ驚いた様なもの。
そしてその予想外の反応に、頭の中で用意していた返事は全く意味を持たない。
いっ、いやいや。なに驚いてんだよ! くっそ。ととっ、とりあえずなんか返事しとけ。
「あっ、あぁ。怪我が再発しない様にゆっくりとだけど」
予想外だった樫乃の反応に、思わず無難に返事をした時だった。
またしても樫乃は意外な表情を見せる。
「そっ……か。そっか」
顔を俯かせたかと思うと、少しだけ口角が上がったようにも見える。そして顔を上げた一瞬だけ、あの頃の……俺の良く知っている樫乃茜の……笑顔が見えた。
えっ、樫乃……?
「頑張ってね。じゃあ、私行くから」
なんて考えていると、樫乃は駆け足で行ってしまった。目の前に見えるのはその背中だけ。
……意味が分からない。
あれだけ俺の事を見下して、散々冷たい態度をとっていたのにいきなりなんだよ。もう見れないと思ってた……笑顔見せて。
マジで意味分かんないぞ? なぁ……
樫乃茜。
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