砂のさざ波

西野ゆう

第1話

 夕方の砂丘。

 無数の足跡と、人々が築いた砂の山や城のようなもの。少しずつ崩れ、翌日にはまた新たな足跡が刻まれる。

 いつの日か、幼い私が見た光景は夢だったのだろうか。

 足跡ひとつない砂丘。海からのさざ波が、そのまま砂の上まで続いて来たかのような風紋。明るくなり始めた明け方の南の空には、筋雲の合間に下弦の月が淡く浮かぶ。海から顔を覗かせた太陽は、穏やかな海にとろけるように、橙色の絨毯を敷いていた。

 目覚めたばかりのカモメたちは、沖の波に揺れている。仲間を呼ぶ鳴き声は、岸に寄せる波音同様控えめだった。

「キレイだね」

 自分が褒められたようで、少し照れながら海を見つめて返した。

「うん、すごくキレイ。絵を見ているみたい」

 幼いふたりの声も、砂が吸い取っているようで、邪魔するものはなかった。

 ただ、今となっては誰とそう話していたのかも思い出せない。

 どこか遠くの街から来た男の子。それだけしか分からない。

 もしかしたらやはり夢だったのかもしれない。


 そして私は大人になり、誰かの家庭に入ることもなく、ひとりその時が再び来るのを海の近くで待っていた。

 だが、あの光景が奇跡的な朝であったのだと、身に染みて理解するだけの年月が経った。

 夜のうちに乾燥した風が吹かなければ、あの日のような美しい風紋は現れない。

 風が海にうねりを残しては、朝陽の絨毯は現れない。

 当然雲があっては月も見えない。そして、下弦の月は三十日に一度きり。


 風紋ができなくとも、人のいない夜の砂丘は幻想的だ。

 街の明かりの少ないこの場所は、夏には大河が夜空を縦断している。

 砂の山から、夜空を流れ、暗闇の海に流れ込む天の川。

 それだけでも見る価値はある。

 おかげで、私の宿はなんとか成り立っている。


 その初秋の夕べ、宿の周りの掃除に外に出た私は、全身に鳥肌が立つ感覚を覚えた。

「あの時と同じ風だ」

 なぜそう思ったのか分からない。分からないが、海からの風が、その匂いが記憶を呼び起こした。

「いい風が吹きますね」

 夕涼みに外に出ていたのだろう。ひとりで来ていた男性客が、空を見上げて言った。つられて私も空を見上げる。

 まだ陽の光がかすかに残って紫色をした空に、筋雲がいくつか線を引いている。

「今日の月って」

 声に出したつもりのなかった私に、その客は返した。

「下弦ですね。明日は早起きして見ましょうか。あの日みたいな景色が見られるかもしれない」

「あの日の景色」

 私の呟きに向けられた彼の笑顔は、とても柔らかく、懐かしかった。


 翌朝、カメラは持って出なかった。

 夢のようなその景色は、夢に見るための景色だ。

 毎秒、時が過ぎるごとに変わってゆく色彩も、縮まってゆく彼との距離も、全てを自然に委ね、任せ、ただ眺めていた。

「キレイだね」

 何年かぶりに聞いたその言葉の響きが、目の前の景色に、最後の仕上げだと色を添えた。

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砂のさざ波 西野ゆう @ukizm

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