Ⅵ.

 しばらく走り続けたら、濃い霧に撒かれて、自分がどこに向かっているのか分からなくなってしまった。


「っはぁ、はぁっ、はぁっ…!」


 笑い声が消えてしばらく経ってから、私はようやく走る足を緩める。


 ──ここは、どこなんだろう。


 周囲に視線を巡らせても、一段と濃くなった霧のせいで何もかもが分からない。


 ──どこに向かって進めばいいんだろう。


「人は、生まれた時から、ひたすら死に向かって突き進む」


 そう思った瞬間、聞き覚えのある声が霧の向こうから聞こえてきた。


「それと同じ。物語だって、始まりからひたすら終わりに向かって突き進んでいくだけ」


 その声に恐れをなしたかのように、霧がスルスルと引いていく。


「行先に迷う愚か者は、作者マテリアスタだけなんだよ」


 そこは、墓地だった。形も、大きさも、材質も、年代もバラバラな墓標が、見渡す限り無秩序に立てられている。


「ここは、最後デルニエを迎えたモノ達が眠る場所。最高傑作デルニエになれなったモノも、究極デルニエになれなかったモノも、等しく終わりデルニエを迎えればここに埋まる」


 カツリ、コツリと軽いのに鋭い音が響いた。


「どうしてここに来てしまったの? あなたはここに来るべき存在じゃなかったはずなのに」


 少女の手には、夕日の色を宿した羽根ペン。そのペン先は血のインクを吸ったかのように真っ赤な文字を創り出している。


「それとももう、ここに沈みたくなった?」


 その光景に、なぜか息が苦しくなった。ヒュッと詰まった呼吸はまともに次の息を吸わせてくれない。


 私を縛り上げる、恐怖。だけど私には、その恐怖の正体が分からない。


「書かない。創水晶を手に取らない。創造主であることをやめる。それが、あなたがで成した、選択だったんじゃないの?」


 カクリと膝が折れた。ストン、とその場に座り込んでしまった私は、凍り付いたまま少女を見上げることしかできない。


「無から有を創り出す快楽を捨てる代わりに、安穏な生を。何も考えず、何も生み出さない代わりに、何にも思い悩まず、苦しむことのない、真綿に包まれるような安息を」


 歌うように紡いだ少女は同時に手を動かし文字を積み上げていく。


『ある所に、物語が好きな少女がおりました』

『あらゆる書物を読み漁った少女はそれでも満足することができず、自分が満足できる話を自分で創り出すことにしました』

『やがて少女は書き上がった物語を友達にも読んでもらうようになりました』

『友達はみんな、少女の書く物語を褒めてくれました』

『少女はよりみんなが褒めてくれる物語を書くようになりました』

『色んな人が少女の周りには集まり、色んな人が少女に意見を言いました』

『世間で流行っているのはファンタジーだ!』

『いやいや、世はミステリー全盛期!』

『女の子が書くならラブストーリーでしょ!』

『少女はその声に応えました』

『読みやすいと言われる文体、流行りを取り入れた題材、もてはやされている作品に似せた展開、読者に求められるキャラクター。全部全部、取り入れました』


 舞う文字が、私の視界から消えてくれない。


 息が苦しくて、もう読みたくなくて、知りたくもないのに、私の目は霧を追って舞う文字を自分から追ってしまう。


 これが、私の業。


 物語の世界に魅せられ、文字に取り憑かれてしまった私は、目の前に文字があれば、物語があれば、追わずにはいられない。


『いくつもいくつも世界を創り上げた少女は、ある時ふと我に返りました』

【私は一体、何のために書いているんだろう】

『そのことに思い至った瞬間、少女は気付きました』

『自分は、息の仕方を忘れていたのだと』

『慌てて少女は自分が本当に書きたいモノを探しました』

『見つかりませんでした』

『それでも少女は書きました』

『もはや【書かない】という選択肢は少女にありませんでした』

『書いて書いて書いて』

『全てを捨てて、全てを注ぎ込んで、全てがボロボロになって、息の仕方も生きる力も全て失って』

『それでも、かつてのように瑞々しい世界を生み出すことはもはや叶わないと知った少女は』


 ガクリと、視界が傾いだ。私の上半身が地面に向かって倒れたからだと分かったのは、高いヒールが目線の高さに見えたからだった。


『息苦しさから逃げ出すために、息をすることをやめました』


 どこかぼんやりと遠い物語。紡がれた文字は、少女の傍らの墓標の上に降り注ぐ。


 真新しい墓標には、細い文字で言葉が刻まれていた。


『息の仕方を忘れさせた筆、ここに眠る』


 ──これは、私の墓標だ。


 目を見開いたまま息もできず、私は刻まれた文字を追う。


「わたしはエディ」


 意識が遠のいていく中で、少女の名前が、再び聞こえた。


「『葬送のマテリアスタ』デルニエのエディ」


 視界にキラリと、何かが映る。ノロノロと勝手に視線が動いた。


 そこにあったのは、折れた万年筆だった。色を失いつつある万年筆の曲面には、死神のように大鎌を振り上げた少女の姿が映り込んでいる。


「終わりに苦しむあなたが、いっそ全てを終わらせてくれと望むなら、私が全てを終わらせてあげる」


 恐怖は、なかった。


 ない、はずだった。


 でも不意に、芝生と、万年筆と、そこに映り込む少女しかなかった視界に、別の光景が映り込む。


 物が雑多によけられただけの机。場所が空けられた一等地に広げられたノート。そこには何も書かれていないのに、どんな物語を読み始める時よりも、私の胸は高揚していた。


 カツ、コツ、と音を立てる手元。視線を落とせば手の中には使い込まれた青いシャープペンシル。ペン先がリズムを取るために机に落ちる音は、鋭すぎるヒールが石畳を叩いているかのようで。


 その音に背中を押されるように、シャープペンシルの先は柔らかく最初の言葉を紙の上に描き出す。


 すべての始まり。私が紡ぎ出した世界の、創造主としての私の始原の言葉は、自然に滴り落ちてきた極上の甘露に似ていて。


「──っ!!」


 ガキンッと背後で重い音が響く。万年筆を手に転がって刃を避けた私はその勢いのまま片膝を上げて少女を睨み付けていた。


「……ねぇ、どうして書くの? 書かなくても死なないのに」


 そんな私の姿を見た少女から、ストンと表情が抜け落ちた。少女が紡ぐ言葉は、ズシリと私の両肩に重くのしかかる。


「どうしてあなたは、食べる時間を削り、眠る時間を削り、息をする時間さえ削って書くの? 全てを削り、削って削って削り落として、命さえ削り尽くして」


 それでも私は、その重みに抗って地面から膝上げた。


「それでもなお、どうしてまだ書こうとするの?」


 この世界の全てがどこか遠くて、怖かった。


 だけど今は、怖くない。この世界に堕ちてまで求めた答えが、私の中にある。


「そうね、答えは簡単だわ」


 だから私は背筋を正して、傲慢に笑って答えてみせた。



 答えが、力になって巡る。私の言葉に触れた世界が、青い燐光になって弾ける。


「書かなければ、私の心が死んでしまうからよ!!」


 色を失っていた万年筆が燐光を吸い込んで輝く。自らの輝きに耐え切れなかったかのように姿を弾けさせた万年筆は、その残滓で新たな姿を創り出した。


「栄誉? 賞賛? そんな物知ったことか!! 私はっ!!」


 溢れ返る光が、霧も少女が持つ色も弾き返す。


 その光を引き連れて振るった腕の先に、指に馴染んだ感触があった。


「私は……っ!!」


 全てが欲しいと、思っていた。


 でも、違う。逆だった。


 


「誰に必要とされていなくても、私のために、書き続けていなくちゃダメなんだっ!!」


 ただ呼吸をするように。ただ鼓動を刻むように。ただただそれらと同じように、文字を吐き出し、物語を紡ぎ続ける。


 それが私には、生きるために必要なことだった。


 ──嗚呼、なんて業が深い。


『何のために』が存在していないなんて。求めても答えが初めからないなんて。


 それは、なんて深い絶望を湛えた所業なんだろう。


「……それで、いいの?」


 手の中にあるのは、宵闇のグラデーションを吸い込んだシャープペンシル。随分と貧相な筆記用具は、ペンだこがある私の手に吸い付くように馴染んだ。


「そうなってしまって、いいの?」


 少女の問いに答えないまま、私は己の創水晶を振るった。


『その日も、静かな夜だった。常と変わらない闇の中に、水晶を散りばめたような星が光っている』


 シャープペンシルの先から零れた青い燐光は、くっきりと文字を刻み込んでから世界の景色を変えていく。霧が立ち込めていたはずである世界はスッキリと澄み渡っていて、空には水晶の屑をぶちまけたかのように星が輝いていた。


 その空に向かって優雅で狂気的で獰猛な笑みを向けた私は、絶望からの産声を刻む。


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