Ⅴ.

 ──もしかしたら、あの男は。


 老紳士に教えてもらった通りに道を進みながら、私はぼんやりと考える。


 ──本質的には『書けないこと』じゃなくて『息ができないこと』に、絶叫していたのかもしれない。


 老紳士が言ったように書くことがイコール呼吸することであるならば、書き詰まることは呼吸が上手くできないことに等しい。いっそ殺してくれと思うくらいには苦しかったのではないだろうか。


 ──だから、あの医者達は言っていたのか。


 治るのか、いや、死ぬ方が早いかもしれない、と。


 ──だったら、なぜそもそもあの男は、そんな息苦しくなることを始めてしまったのだろう。


 いつかあんな風になってしまうと分かっているなら、最初から書かなければいい。書き始めてしまったから、あんな風になってしまったのではないだろうか。


 ──私みたいに、手に取るのを拒否すれば


 そう心が呟いた瞬間、私はその場で足を止めていた。


 ──私、今、何って


「やぁやぁお嬢さん、物語はいかがかな?」


 不意に、霧の向こうから声が飛んできた。


「素敵なファンタジーを書いてあげよう」

「いやいや、流行りのミステリーなど」

「いやいや、若いお嬢さんは甘いラブストーリーがお好きなはず」


 その言葉が私に向けられていると理解できたのは、ピョンッと人影が霧の向こうから飛び出してきたからだった。次々と現れる人影に驚いた私は、掴んだはずの何かをまた霧の中に落としてしまう。


「どんな物語でも書いてあげるよ」

「あなたが読んでくれるなら」

「それが世間で流行っているならば」

「書くよ」

「書くよ書くよ」

「書くよ書くよ書くよ」


 私に群がるように現れた人影は、みんな同じような格好をしていた。頭からすっぽり被った真っ黒なローブに、派手な装飾が施された白いお面。似たような声で、似たような燐光を散らしながら、人影達は私に迫ってくる。


 私は思わず一歩後ずさりながらも、彼らに向かって唇を開いた。


「あなた達も、マテリアスタ?」

「そうだよ」

「だけどあんな男と一緒にはしないでくれ」

「だって彼は誰にも読んでもらえなかったけれど、私達はみんなに読んでもらえているもの!」


 違う口から紡がれているはずなのに、聞き分けができないくらいそっくりな声。それぞれに言い放った彼らは、続けて歌うように言葉を紡ぐ。


「読みやすい文体に流行を取り入れた題材!」

「もてはやされている作品に似せた展開とそれとよく似たキャラクター!」

「さぁさぁ、君達が求める物がてんこ盛りだ!」


 そう言って、彼らは笑う。歌う。踊る。


 そこに吹き荒れる狂気に、私はもう一歩足を引いた。その分彼らは、笑いながら距離を詰めてくる。


「書くよ」

「だから読んで」

「だから褒めて」

「書くよ」

「読んでくれるなら」

「読んでもらえなかったら意味なんてない」

「流行りに乗らなきゃ生きていけない」

「私の個性なんて!」

「読んでもらえなきゃ」

「誰も見てくれなきゃ価値なんて」

「読んで」

「書くから」

「読んで読んで読んで!!」


 同じような姿。同じような声。同じような創水晶。そこから零れ落ちる燐光の色さえ見分けがつかない。


「……あなた達は」


 一歩、二歩と後ずさるたびに、彼らはそれ以上に距離を詰めてくる。


 そんな彼らを前にして、ポツリと唇から言葉が零れた。


「呼吸が、苦しくないんですか?」


 その言葉に、彼らは互いに顔を見合わせる。


 そして、笑った。


「息なんて!」

「呼吸の仕方なんて!!」

「そんなの気にするなんてナンセンスッ!!」


 ゲラゲラ、ケタケタ、キャラキャラ、ガラガラ。


 こだまする笑い声に叩かれたように、私は身を翻すと道を外れて走り出した。仮面の集団は私を追ってくることなく、ずっとその場で笑い続けている。


 その背中には、みんな大きな酸素ボンベを背負っていた。

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