Ⅲ.

 少女の言葉に半ば追い出される形で、私は少女の家を出た。


 私の頭の中の霧は、少女の話を聞いてから少しだけ遠くなっている。それでもまだ白い霧が詰まった頭では何も考えることはできなくて、私は何も考えられないまま惰性で歩き始めた。石畳に沿って続く町は、私から少しだけ遠くなった霧が漏れ出たかのようにうっすらと霧がかかっている。


「ああああああああぁぁぁぁぁぁっ!!」


 そんな中に、どこかから人の叫び声が響いた。ぼんやりしている私の足さえ止める、悲痛な絶叫だった。


 私は足を止めたまま声が聞こえた方へ顔を向ける。私が足を止めた場所は、道と道が交差する広場であったらしい。真ん中には大きな木が植えられていて、声はその木の下から響いている。


 そこにいたのは、両手で顔を覆い、地面にひっくり返ったまま足をジタバタと暴れさせる男だった。男の周囲には、紙が散乱している。顔を覆う手に何かキラリと光る物が握られたままになっていた。どうやらそれは万年筆であるらしい。


 そこまで理解した私の中で、何かがサワリと動いた。


「ああ、あの男もなっちまったのかい」

「まったく。ああなるって分かってるのに、なんで書き始めるんだろうね」


 そんな私の後ろで、ヒソヒソヒソと囁かれる声。振り返ってみても、誰が囁いているかなんて分からない。広場にいる人間はまるで、彼の姿なんて見えていないかのように自分達の時間を使っている。


「あれは『スランプ』という病らしい」

「ああなってしまっては、元に戻るまでに時間がかかるだろうな」

「そもそも、戻れるのか?」

「死ぬ方が早いかもしれない」


 また囁く声が聞こえる。


 今度は視線を前へ投げれば、のたうつ男から少し離れた所で白衣を着た二人の男が額を突き合わせて議論していた。よく似た容姿をした二人は医者であるのか、首に聴診器をかけている。


 そんな医者達の傍らで、男はまだジタバタと喚いていた。


「あああああ書けない書けない書けない書けないっ!!」


 その声に、私の頭の中に詰められた霧の向こうで、サワリサワリと何かが揺れる。


「あ……」


 それが何かは分からない。だけど私は、そのを求めるようにフラリと、男の方へ一歩を踏み出す。


 カツンッと響く、ヒールの音。


 まるでその音に呼び付けられたかのように、どこからか厳めしい男達が駆けてきて、ガッシリと男の両腕を抱えた。黒い制服に身を包み、黒い警帽を被った男達は、男を抱え上げると無言のままどこかへ走り去っていく。


「僕はまだ書ける! 書けるはずなんだっ!! 殺さないでくれぇぇぇえっ!!」


 薄く漂う霧の中に男の悲鳴が消えた時、そこには今まで通り淡い色彩に満たされた穏やかな町が広がっていた。医者の姿も、囁く通行人の姿もない。改めて視線を向ければ、木の下に散らばった紙さえなくなっていた。


 だけどそこにキラリと輝く何かを見た私は、木の下に向かって歩みを進める。


 光を弾く原因にまで近付いて、私はそっと膝をついた。


 目の前にあったのは、うっすらと淡く紫を帯びた、水晶細工の万年筆だった。長く使われてきた物なのか、ペン軸が指の形に擦れている。


 だけどこれから先、この万年筆が文字を綴ることはもうないだろう。芝生の上に転がった万年筆は、無残に折られていた上に、上半分が紛失していた。


 ──この万年筆を、きちんと葬ってあげないと。


 なぜかそう思った私は、折れた万年筆をそっと両手で持ち上げて膝を伸ばした。胸中にポコリと生まれた思いは頭の中で霧に撒かれることなく、きちんと心に留まったままコロリ、コロリと私を揺らす。


 私はその重みを確かめながら広場を出た。

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