真夜中に海辺にて

 寝息が聞こえてくるほど静かな部屋の中、セーシュがふと目を覚ました。

 殆ど明かりも見えぬ真夜中、眠気はどこかへと消えてしまっている。

 深く息を吸って、ゆっくりと時間をかけて吐き出す。

 眠気を呼ぶための呼吸も、この時ばかりは何も効果を示さなかった。

 一際深く吸いこんだ息は溜息となって、セーシュの外へと抜けていった。


「あぁもう……何なんだ」


 小さな声で不満を口にする。

 体を起こして、ふとミアンの方を見た。

 眠る前は怪物が戻ってこないと心配していた癖に、嫉妬してしまうほどにぐっすりと良く眠っている。

 心配いらないと宥めた甲斐があったと胸中でそう思うセーシュ。


「眠れないのなら、散歩でもいかがです」


 怪物の声が耳元で響く。

 最早慣れてしまって驚きもしない。

 セーシュはもう一度溜息を吐いて、眠るミアンを起こさないように部屋を出ていく。

 静まり返った宿の中を静かに歩いて出入り口まで行くと、人影が二つ見えた。

 一人は眠そうに目を擦る者、短い時間に大きなあくびを何度もしている。

 もう一人はじっと動かずにいて、大きな丸い目で周りを注意深く見まわしていた。

 疑う余地も無く、警備員だと分かる。


「……誰です?」


 大きな丸い目の方がセーシュに気付いて、小さい声で問い掛けてくる。

 少しだけ心臓が跳ねたが、やましいことなどない。


「あー……宿泊客だよ、眠れなくて散歩でもしようかと」


 扉に近づきながらそう答えるが、声を掛けた警備員は怪しんでいる様子を隠さない。

 目を開いた姿がフクロウを思わせる。


「最近この街は治安が悪いのです、特に夜中は危険も多く……」


 そんな話をしていると、眠そうな警備員がまた一つあくびをした。

 大きな目の警備員が眉をひそめて睨みつける。


「行かせてやれよ、町も港も今日は警備が多いし危険はないだろ」


 あくびを噛み殺しながらそう話す。

 複雑そうな顔で眠そうな警備員とセーシュを交互に睨みながら、大きな目の警備員が最後に溜息を吐く。


「……まぁ、良いですが……くれぐれも気を付けてくださいね」


 そう言って扉を開けた。


「ありがとう……ごめんな」


 扉を抜けながらセーシュが丸い目の警備員にそう伝えた。

 町は暗く、月の明かりでも照らせぬ場所が多く見える。

 どこへ行こうかと考えていると、またも怪物の声が聞こえた。


「桟橋の方へ来てください、ゆっくりでいいですよ」


 その言葉に、セーシュは嫌そうな顔を隠そうともしない。

 重なり始めた月を見上げながら、進まない足を何とか前に出す。

 町に人気は無い。

 波の音が一定の周期で聞こえてくる。

 不安になりそうな暗闇の中で、セーシュは少しだけ安堵していた。

 一人でいることが心地良く、普段よりも軽やかな足取りになる。


「ずいぶん楽しそうですね」


 怪物の声に心臓が跳ねる。

 そこまで歩いた覚えもないのに、既に桟橋へたどり着いていた。


「ゆっくりでいいといったのに、早かったですね」


 くすくすといつも通りの笑みを浮かべ、海を背にしてセーシュを見つめている。

 その背後には人が一人倒れていた。

 セーシュが咄嗟に身構える。


「その後ろの奴はどうしたんだ」


 セーシュ自身も理解はできている。

 怪物がわざわざ自分にもわかる程の証拠を残すような真似をするわけがないと。

 それでも体に染みついた動きをとってしまった。


「そんなに怖がらないでください、この方は今、私が見せたものに衝撃を受けて倒れてしまっただけですよ」


 一歩ずつ、ゆっくりとセーシュに近づきながらそう語る怪物。

 セーシュは後ろに下がろうとする足を、何とか押さえつけなければならなかった。


「なんだよ、見せたものって」


 慣れたと思っていたのに恐怖心が湧いて出てくる。

 話すたびに口の中が乾いて仕方がない。

 怪物がセーシュの目の前までやってきた。


「あなたにも見せましょうか、大丈夫、怖くありません」


 嫌だと意思を示す間もなく、セーシュの目の前が歪む。

 一瞬で景色が見覚えの無い場所に切り替わる。

 霞のように広がった黒い煙で視界が狭い。

 石がぶつかり合って崩れる音、水面を大きなものが叩きつける音、悲鳴。

 鼻を衝く焼けた匂いに、セーシュは思わずえずく。

 足に力が入らなくなって、地面にへたり込んでしまう。


「これは明日の出来事です」


 声に驚いて振り向くと、怪物がそこに居た。

 この状況でも表情は笑顔から一つも変わっていない。

 怪物にぐいと腕を掴まれて、強引に立たされた。

 遠くに見える建物が音を立てて崩れていく。


「先ほどの彼はここで気を失いましたが、まだ続きがありますよ」


 怪物が指し示す先に、薄い桃色をしたものが動いているのが見える。

 風を切る音と地面を叩きつける音が同時に聞こえて、それが目の前に倒れてきた。

 表面は得体のしれない粘液に覆われて、てらてらとしている。

 張り巡らされた血管がゆっくりと脈を打っている。

 目を逸らしたい。

 気持ちが悪い。


「明日はあれが暴れてしまうのでこの町は滅びます、もちろん嫌ですよね」


 隣から聞こえる聞き慣れた怪物の声が、セーシュの精神を現実に縛り付けていた。

 セーシュが大きく息を吸って、一気に吐き出す。

 同様に二度、三度と呼吸をして、四度目で咳をしながら落ち着きを取り戻す。


「何をしろっていうんだよ」


 怪物に向かってセーシュがそう言うと、怪物が笑みを一層深めた。


「もちろん、明日あれが町を滅ぼすのを阻止してもらいます、よろしいですね」


 音を立てながら這いずり回るものを見て、気が遠のきそうになるのを堪えて、セーシュが頷く。

 ふと、セーシュの頭に疑問が湧いた。


「あいつには教えたのか?」


 まだ眠っているはずのミアンに明日の出来事について伝えたのか聞けば、怪物が首を横に振る。


「いいえ、あの子には伝えていません」


 セーシュには訳が分からなかった。

 伝えない理由があるのだろうか、巻き込まないつもりなのだろうかと憶測してしまう。


「趣味の為にわざとあの子の反応を観測していませんから、楽しみは取っておきたいのです」


 笑顔と共に伝えられた言葉が、セーシュには妙に腑に落ちる説明に聞こえた。

 こいつは自分の趣味の為に他の奴らを振り回すのだと、改めて理解する。

 気付けば周りの景色は静かな夜に戻っていて、潮風が頬を撫でた。


「さて、明日のために宿に戻って眠った方が良いでしょう、お気をつけて戻ってくださいね」


 怪物が倒れていた人を拾い上げながら、セーシュに戻るよう促す。

 酷い疲れが押し寄せてきて、セーシュはため息をついてしまう。


「……もし次があるなら、あまり疲れない方法で頼むよ」


 セーシュの呟きに怪物が笑い声を返す。


「嫌です」


 返答を聞いてため息を吐きながら、宿への向かう道を進む。

 道中何事もなく宿に辿り着いて、扉をゆっくりと開く。


「おや……お帰りなさい」


 大きな目の警備員がセーシュに気付いて、小さな声で迎え入れる。


「随分顔色が悪いですが、何かありましたか?」


 そう聞かれて少しだけセーシュの動きが止まる。

 一瞬、今見たことを話そうかと考えて、すぐに思い直した。

 首を横に振って部屋に戻る。

 横になって目を閉じれば、意識を失うように眠りにつくことができた。

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