閑話 既知との遭遇
無音、無風の街を逃げるモノが居る。
息も絶え絶え、髪を振り乱し走るが見えない壁に阻まれる。
「ひ、ぃっ……!」
後ろを見れば恐怖の源が迫ってきていた。
艶やかで飲み込まれそうな黒い髪、血の通わない白い肌、見たくも無い星空の瞳が逃亡者を見据えている。
「そんなに怯えないでください」
ゆっくりと歩み寄る怪物から少しでも距離を取ろうと、無様に見えない壁に体を押し付ける逃亡者。
距離が縮まる毎に呼吸が早く浅くなっている。
「やだ、やだやだっ、来ないでよぉっ!何なのよあんたはぁ!」
泣き叫び、怪物に向かって腕を振り回す逃亡者を見下ろしながら、怪物がわざとらしく困ったような顔を見せた。
怪物の瞳の中でいくつもの光が明滅している。
「私は怪物です、そういうあなたは侵入者ですね」
逃亡者と目線を合わせるために怪物が屈んで、逃亡者を指差す。
きょとんとした逃亡者の顔からは、怪物の話が理解できていないことが読み取れる。
怪物が口角を釣り上げて笑顔になった。
「わ、私はただあの男の子と遊んでただけなのよ!?」
「私はあなたを招いていません、ですのでお帰り願いたいのです」
顔をずいと近づけて、逃亡者の瞳を覗き込んで語る怪物。
逃亡者の心臓が大きく跳ねた。
瞳が震えて、視界が滲む。
口を開いて何度も投げかけた問いをもう一度聞こうとして、動きが止まる。
「あぁ、だめです、だめですよ、貴方には目と耳がありますね、口は要件を満たしていませんから」
口を開けたままの逃亡者を見つめながら、怪物は話を続ける。
星空の瞳の中で赤や青、白い光が思い思いに明滅を繰り返す様子を、逃亡者は眺めることしかできない。
「あっ」
逃亡者の口からそんな音が漏れた。
瞳から怪物の目的が聞こえてきた。
鼓膜を撫でられて、過去と未来が見える。
逃亡者の理解が追いつかないまま、正解だけが差し込まれる。
「……ぅぷ」
感覚を揺さぶられて、頭の中身を整理されて、吐き出しそうになったのを喉で押しとどめる。
胸の焼けるような苦痛が逃亡者の意識を繋ぎ止めていた。
「この程度は耐えてくださいね、配慮はしてあげているのですから」
逃亡者を弄びながら、怪物がのんびりと話す。
引き延ばされた感覚の中で、怪物の言葉だけがまともに耳に入る。
後悔の念が油田のように湧き出る。
やがて、怪物からの情報をすべて受け取って、ようやく逃亡者は体を動かすことができた。
「ご理解しましたね」
怪物が口の端を釣り上げて笑顔を作る。
青褪めた顔の逃亡者は、呼吸を整えるのに必死になっていた。
「……こんな、こんなくだらない事の為に!?」
口を衝いて出たのは、怪物の目的に対する感想だった。
怪物を指し示して何度も指を振るう。
「ばかげてるわ!労力に見合わないの!なんで!」
「趣味なんてそういうものでしょう」
狂ったように騒ぎ立てる逃亡者に、怪物が笑顔で答えた。
信じられないものを見るような眼差しが、怪物にぶつかる。
「……実は私、女神として崇められたこともあるの」
落ち着きを取り戻した逃亡者が、空を見上げながら突然そんなことを語り始めた。
「えぇ、そうですね」
怪物の表情がつまらないと言いたげに変わる。
逃亡者はそれに気が付けなかった。
「私なら世界の一つや二つ、貴方に差し出せるわ、それで見逃して」
怪物は首を横に振る。
逃亡者の眉間にしわが寄った。
「だめです」
「お願い、ただの不注意だったの、貴方を不快にはさせないわ」
怪物は首を横に振る。
逃亡者の額に汗が滲んだ。
「あなた程度の行動で不快になることなんてありませんよ」
「じゃあ見逃してよ!先に攻撃したのも謝るから!」
怪物が首を横に振る。
逃亡者の目に涙が溜まって、頬を伝った。
「あの程度が攻撃だと思いませんでしたから、大丈夫ですよ」
「私はこんなところで居なくなっていい存在じゃないの!」
怪物が首を横に振った。
「居なくなっていいですよ」
そう怪物が独り言を発する。
戻ってきた喧噪がそれを掻き消して、誰の耳にも届かなかった。
潮風が怪物の頬を撫でる。
「気を配って動くのも大変ですね」
溜息を吐いて、怪物が大きく伸びをする。
太陽は未だ空高く、怪物が宿を出てから時間が経っていない事を示している。
「つまらない場面でした、せっかく見ないようにしてたのに」
不満そうな顔で大通りを歩く怪物。
前から後ろから絶え間なく押し寄せる雑踏は、不自然なほど怪物を避けていた。
「まぁ侵入してくるようなモノなんてあの程度なのでしょう、ねぇ」
誰に聞かせるでもなく怪物は独り言を続ける。
いつの間にか桟橋の近くまで歩いてきていた。
周りでは、今朝獲れたであろう魚を売る屋台が並んでいる。
怪物がその内の一つへと向かっていった。
「こんにちは、お兄さん」
屋台の前で悩む少年に、そう声を掛ける。
驚愕と困惑が入り混じった奇妙な表情を浮かべて固まる少年に、怪物が話を続ける。
「お悩みですか、買うのならあなたの右手から数えて上に三匹、左に二匹のその子がおすすめですよ」
訝しげに怪物を見つめる少年に、怪物は笑顔を返す。
怪物に言われた通りの魚を見つけて、品定めをして、瞳が一瞬輝く。
「おっちゃん、これくれ」
慣れた様子で店員と話す少年を、怪物は笑顔で見ていた。
「ありがとな……急に声かけられたから変な奴かと思ったけど」
買い物を済ませた少年が怪物の方へと向かってきて、感謝を伝える。
ミアンよりも少しだけ大人びた少年は、日に焼けた健康的な肌と少し長く伸びた髪が印象的だ。
「目的の物が見つかったようで何よりです、私からもお願いをしてもよろしいですか」
微笑みを絶やさないまま、怪物が少年に提案する。
少年もまた白い歯を見せて笑い、肯定した。
「おう、何でも言ってくれ」
怪物が一層楽しそうな表情に変わる。
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