二 繭己

「近頃よく出かけてるよな。友達が増えた? やっぱ彼女ができた?」

「どっちでもないってば」

 ほい、とパスケースを渡しながら聞いてくる倫太郎に、繭己まゆきは小さく笑って応える。

 近頃は週末ごとに定期券を借りているが、倫太郎は特に文句を言わないし、理由を追求しない。むしろ、弟の活動範囲が広がったことを息子の成長のように喜んでいる節がある。

 倫太郎と繭己は五歳差で、親と子というのは些か大袈裟だ。しかし十代の五年には数字以上の隔絶があり、現に二人の間には、既に中学という共有できない時間ができあがっている。なので繭己も、倫太郎の保護者ぶりに時々は腹立を立てるものの、そういうものとして受け入れている。友達から横暴な兄姉の愚痴を聞く時には、充分に歳が離れていてよかったとも思う。

 保護者ぶっていながら定期の不正利用を嗜めもしないような無責任さも、繭己にはちょうどよかった。秋之あきゆきが心配するので調べてみると、摘発された時の罰金は繭己には決して払えない金額になるようだった。繭己のひと月のお小遣いは二千円だ。倫太郎の通学定期は有効期限が六ヶ月のものなので、お小遣いを一年間貯めても罰金には届かない。おそらく倫太郎はその詳細を知らないが、知っていても知らぬふりをするに決まっていた。そういう適当さが、嫌なところでもあり、好ましい点でもあった。

 そうしてこそこそと浮かせたお金は、繭己と秋之の歳の差を、ほんの僅かずつであっても確かに埋めている。飲食店をはじめ、会計を合算できる場では、秋之は当然のように全ての支払いを持ってしまう。本人はそれをどうとも思っていないようだったが、繭己にも子供なりの矜恃がある。せめて自販機でジュースを買うくらいのことは自分の財布でしたかったし、いつかは奢る立場になりたいのだ。秋之と定期的に会うようになってからもう二ヶ月が経ったというのに、繭己が自分で働けるようになるまでは最低でもあと四年はかかるというのが、今は何よりも悔しい。

 秋之との再会[#「再会」に傍点]は冬と春がまだせめぎ合っている三月末のことだった。父は出張、倫太郎が高校の終了式からそのまま打ち上げに参加する日に、母も急な残業が入って、繭己は夜までひとりで過ごすことになった。当人はそれに異論なかったが、自称保護者である倫太郎はひどく気にして、クラスメイトに弟を連れていくと連絡した。倫太郎の友人の何人かとは繭己も顔見知りだったが、それにしても部外者を混ぜる場ではない。とはいえ、兄の気遣いを無碍にするのも憚られて、不承不承指定の駅前で待ち合わせた。そうして向かった先で奇跡的にすれ違ったのが、幼い頃に喪失し、ずっと探していた面影だった。

 繭己は、それが自分の求めていた人間であり、同時にそうでないことを正しく理解した。秋之が「ゆうちゃん」であるなら、この世には二人の「ゆうちゃん」が存在することになる。

 「ゆうちゃん」がただの友人であれば、二人いようと特段の問題はなかった。しかし残念なことに、それは繭己の初恋であり、永遠の憧れの象徴であり、自分の存在と世界の実在を寿ぐ誇りであった。唯ひとりの、替えのきかない存在でなくてはいけなかった。なので、熟慮に熟慮を重ねた末に、繭己は古い「ゆうちゃん」を捨てることにした。

 簡単なことではなかったが、さりとて難しいことでもなかった。既に繭己は「ゆうちゃん」に裏切られ、打ちのめされていたからだ。新しい「ゆうちゃん」が自分を受け入れてくれるかどうかは賭けだったが、どちらにしても行き場を失ってしまうならば、ずたずたに切り裂かれた襤褸のような想いを執念のみで心に宿し続けるよりも、瑕疵のない炎で焼き切って灰にされてしまう方が幸せだと思えた。

 それに、案外分の悪い賭けではないという確信もあった。ほんの一瞬の邂逅だったが、相手もまた、繭己の中に何かを見出みいだした様子を見せていた。きっともう一度会って言葉を交わせば、胸に抱き続けた情熱の一欠片くらいは受け取ってもらえるに違いなかった。

 果たして、その確信は現実になった。次に会った時、秋之は繭己を「ちーにぃ」と呼んだ。それはそのまま、繭己が彼を「ゆうちゃん」にすることの赦しとなった。

 すっかり慣れた道を辿り、なんとなく定位置になってしまった乗車口で電車を待ち、乗り込んだ車内でもいつもの席に腰を下ろす。この席が埋まっていた場合の二番目、三番目の候補もあるが、今のところ利用したことはない。三十分ほどかけて倫太郎の通う高校の最寄駅に着くと、ロータリーのベンチで秋之が待っていた。傍らには先日二人で選んだ水色の自転車が停められている。珍しく携帯端末の画面に集中しているようなので、こっそり近づいて脅かしてやろうとするが、途端に繭己の端末が軽快な音を立てて着信を知らせ出し、もちろん発信者である秋之がにこやかに顔を上げた。

「ちいにぃ、いらっしゃい」

「もー、着いたのわかってるなら改札見ててよ」

「もしかして悪戯しようとしてた?」

「してないけど! いつも通り、手を振って呼んでくれた方がびっくりしないから、そっちがいい」

 図星をつかれて勢いよく否定すると秋之はくすくす笑い、繭己の荷物をすっと受け取って自転車のカゴに入れた。

「先週さ、結構人がいるところでちいにぃって呼んじゃっただろ。なんかやっぱり、不思議そうに見られてたなと思って。人前でとか、大声でとか、控えようかなーと考え始めたわけだよ」

 かたんとスタンドを外して自転車を押し始めた秋之と並びながら、繭己はぎゅっと眉根を寄せた。

「変な目で見る方が悪いんだよ。ゆうちゃんは、折角また会えたのに俺がちいにぃじゃなくなっていいの?」

「それは絶対嫌だけど」

「俺たちと関係ない人のことなんて放っとこうよ。あだ名なんて好きにしていいじゃん」

「ちいにぃは本当にかっこいいなあ。でも、そういうわけにもいかないんだよ、大人ってのは……嫌だ嫌だ……ちいにぃはこんな大人にならないでね」

「ゆうちゃんこそ諦めないでよ。まだ格好いい大人目指せるって」

 別に、格好良くなくてもいいのだが。それよりも、秋之がうじうじしているのが見過ごせない。まだ二ヶ月の付き合いだが、それより前から[#「それより前から」に傍点]自己否定と卑下の気があることを繭己は知っている。つらいことがあって酔っ払ってぐずぐず泣いていたのを、まだ幼稚園児だった自分が必死で慰め、それを父母が笑っていたのを覚えている。そうやって自分の不甲斐なさを恨んだ末に極端に走って、ある日突然繭己の隣から消えてしまったのだ。

「好きなふうにして、街中まちじゅうから嫌われちゃったら俺の家に来ていいよ。会社はちょっと遠くなるけど、家に帰ったら俺がいるって思ったら頑張れるでしょ」

「すごい頑張れる」

「結構本気だよ、俺」

 例えば明日、秋之の家が爆発してなくなってしまったら、死に物狂いで両親を説得して自分の家に招きたいと思っている。だが、理想としてはあと十年ほど待ってもらい、繭己が自立して一人で暮らし始める時に秋之の部屋を用意したいと思っている。

 だが、あまり本気なのが伝わってしまうと、秋之は困るだろうというのもわかっている。繭己が本気でいるのと同じくらい、自分も覚悟を決めなければいけないと思ってしまうはずだ。つまり、繭己を秋之の家に住ませることを本気で検討しなくてはいけないと思い詰めてしまう。

 繭己は自分が子供であることを自覚している。子供の利点も欠点も理解している。かつては、それが理由で初恋を失ってしまったからだ。もう二度と大人に出し抜かれてしまわないよう、よく勉強した。

 だから、自分と秋之の関係が第三者によって犯罪にされてしまう危険性も、充分に知っていた。秋之から何かさせるという状況は、決して作ってはいけない。この関係は、繭己が主導権と決定権を持っていてこそ、安泰でいられるのだ。幸い、秋之は繭己を兄と見做しているので、つまらない争いをする必要もない。ただ、道を決める繭己は常に正しくあらねばならない。

「俺、ゆうちゃんのために東大に入るからね」

「俺は青学だけど」

「駅伝の話じゃないから!」

 秋之の趣味のひとつが大学駅伝観戦だと聞いたのは先々週のことだ。その翌週に出雲駅伝を一緒に見て、隣で嬉々として解説をしてくれる秋之の生き生きとした姿を含めて、繭己もまあまあ楽しんだ。来月は全日本大学駅伝を見る約束をしている。だが、三大大学駅伝のうち最後のひとつは一緒に見ることが叶わないとわかって、繭己は少し落ち込んだ。

 矢野家では、大晦日から元旦にかけては父方の祖父母の家に、二日は母方の祖父母の家に挨拶へ行き、三日を自宅で寝て過ごす。ほかの行事を軽視する倫太郎も、お盆と正月の三が日はきちんと家族と過ごしているから、おそらく繭己も高校を卒業するまでは秋之と一緒に箱根駅伝を見られない。だったらいっそ、見られるようになったらナマで見に行ってしまおうと、予定を楽しいものにすり替えて自分を慰めた。そのためにも高校生になったら倫太郎のようにアルバイトをたくさんするのだと決めていたが、駅伝の常連校に進学するという手もあるというのは盲点だった。

 ——どれでもいいのだ。正しいことだけが重要なのだ。

 秋之を己の手で幸せにして、二人の人生を最善で最良のひとつのものにできる選択をし続けることだけを、繭己は求めている。自分が大学評価の上位校に進むことと駅伝出場の常連校に進むこと、あるいは進学せずに就職すること、何が最も秋之の幸せにつながるかを選定すればいいだけだ。繭己はもう幸福を手に入れた。こんなに早く、幼いうちに得難いものを獲得しているというのは、類稀な幸運だ。あとはそれを失わないよう、損ねないよう大事に扱えばいいだけだ。それ以外の望みはない。

 だから実を言えば、趣味ももう特にない。強いて言えば、秋之と会うことが趣味となっている。けれどそれを悟られたら、これも秋之を困らせることになるのがわかっているので、学校の友達とは友達のままだし、彼らの好むものに積極的に触れている。

 そういった本心を隠しながら、道中立ち寄ったレンタルショップで選んだ映画は、近頃サブカルチャーにかぶれ出した友達が勧めてくれたコメディ映画だった。メジャーになれなかったということは、大多数の人間が共感できる笑いではなかったということだ。どんなものかと試してみた結果、繭己は共感できない側で、秋之は理解できる側だった。だが、自分ばかり笑っていることに気づいた秋之がつまらない会話で吹き出すのをこらえたり、結局こらえきれずに咳き込んだりする様子が面白く、繭己もそれなりに笑った。

 それから少しゲームをして、おやつを食べて、解散。いい加減な兄から電子定期券をぽんと貸し出されてはいるが、繭己には門限があるのだ。冬場は四時、夏場は六時。間の季節は適宜日が暮れる前には家に帰る、という約束を必ず守ってきたことが、倫太郎が深く詮索しない理由のひとつだ。秋之と過ごす時間に満足していなくても、繭己は絶対に夕飯前に帰らなくてはならなかった。

 壁にぶつかるたび、枷に動きを阻まれるたび、繭己は自分が子供であることを呪った。けれど、子供だからこそ、決定的な選択まで時間がある。正しい道を選び取るために知識を蓄える時間がある。

「昔ゆうちゃんがぐずぐず泣いてた時、あれ就活で失敗してたんだよね」

 駅伝を見て、秋之の誕生日を祝い、ついでに救世主の誕生日も祝い、学校が冬休みに入ってから、二人は少しいいレストランで食事をした。小学生である——その割に大人びた面があり、物の価値を理解している——繭己に配慮して、秋之は外食の際はファストフードやファミレスといった低価格のチェーン店を選んでいたが、しばらく会えなくなるからと強引にイタリアンレストランに連れ込んだのだ。

 そこは二人がすれ違ったあのビルの向かいで、繭己を探す秋之が無駄に通いつめた店だった。ここで張り込みをしていたと秋之が告白すると、繭己は隣のドラッグストアからビルを見ていたと返して、互いに複雑な笑いを吐き出しながら、ささやかな思い出話に花を咲かせた。

 それが少し行きすぎて、繭己は遡る時間を間違えてしまった。就活で失敗したゆうちゃんは、秋之ではない。古いゆうちゃんだ。失言に気づいた繭己は、さあっと血の気がひくのを感じた。体の中心を通る管に上から冷気を吹き込まれていくような感覚で、内臓が全てぎゅっと縮こまったような気がした。気持ちとしては、浮気が露見したようなものだった。

 けれど繭己の恐れに反して、秋之は意外なほど暢気だった。少し酒を飲んでいたせいもあったのかもしれない。

「就活の失敗。あったなあ。結局、なんとか内定もらった会社がめちゃくちゃブラックで、二ヶ月で辞めちゃって、半年ウダウダしてから今の会社に入ったんだよ。ちいにぃが励ましてくれなかったら、俺今もニートだったかもな」

「励ましたかな」

「大変励まされました。お前は俺の弟なんだから元気出せって一緒に寝てくれて、一晩中背中とんとん叩いてくれたりした。もう、すごい安心して泣いちゃって、俺」

「そっか……俺も安心した。よかった」

 笑顔を返しながら、繭己は今度は、秋之の浮気を目撃したような気持ちになってしまった。秋之は今、本物の兄の話をしている。だが、真弓千秋は幼いうちに亡くなっているのだから、本当の記憶でもない。つまるところ、それは秋之が愛してしがみついていた、理想の兄の幻覚なのだろう。

 秋之は繭己に対して、欲望をぶつけない。何かをしてほしいと望まれたことがない。ただ一緒にいられるだけで充分だとだけ言われている。繭己の望む、他者に干渉されずに済む関係のためにも、それは嬉しいことだと、これまでは思っていた。けれど、幻想の兄は抱きしめて背中を叩くことを望まれたのだ、と思うと心中を嫉妬が渦巻いた。

 ——これからは俺がゆうちゃんのちいにぃだ。これまでに望まれたことも、これから望むことも、全部全部、俺が叶えてやる。

 秋之に自ら求めさせてはいけない。それは誰かが見た時に、秋之を犯罪者に仕立ててしまうかも知れないから。だから繭己は、秋之が口に出さない望みを、口に出させないまま読み取らなくてはいけない。

 ——ゆうちゃんの話をもっと聞こう。それから、ちーにぃの過去の話も、全部、全部。

「そういえば、俺も年末に実家に帰ることにしたんだ。もうちーにぃに線香あげなくていいんだけど、替わりに中学の制服をあげたいから」

 だいぶ酔いが回っているのか、秋之は兄と繭己を混同したようなことを言い始めた。まだ昼なのに、と心配しつつ、繭己はこっそりウェイターを呼び、秋之の手元のグラスに追加のワインを頼んだ。

「俺、行く中学決まってたの?」

「いや、俺たちの地元じゃごく普通に学区の公立校に進むだけだったから……アキくんから何かあった時の予備にってお下がり貰ってたんだよな。結局、ちーにぃは自分の制服作って貰わなかったけど……俺はあれ、お下がりだけど、ちーにぃの物だって気がして全然着られなくて……でも、年が明けたらすぐ三月だろ? で、年度が変わったら今度こそ中学生だ。今度こそ中学生だから……」言いながら矛盾に気づいたのか、次第に声が震え、目が次第に潤んでいく。「だから、俺と同じ制服、着てほしい……」

 繭己はたおやかな笑みを浮かべて、ぐずぐずと鼻をすすり出した秋之を見つめた。

 ——ゆうちゃんは、生きているからこそ、俺を裏切り続ける。ちーにぃは、死んでしまったことで、この人を裏切った。俺たち、本物よりずっとうまくやっていける気がする。

「ゆうちゃん、実家から制服持ってきていいよ。俺、ゆうちゃんの母校も進学先の候補に入れてあげる」

「あっ、いや、それは……遠いからいいよ」

「実際どこにするかは全部の学校を比較して決めるよ。でも、ゆうちゃんの母校もほかよりいいところがきっとあるから、迷っちゃうかも」

「だめだめ、全然いいところないから。ちゃんといいところ選んであげるから候補のリストみせて」

「じゃあ、制服と交換ね」

「それは卑怯だ」

 そう言いながらも、秋之の顔には安堵の色が滲んでいる。繭己はうっとりとその表情を見つめた。これで秋之と同じ学校に通ったかも知れない千秋は消し去れる。

 ——またひとつ、ちーにぃを俺に置き換えた。

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プロキオンの密葬 烏目 @cornix

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