一 秋之

 女子の会話が羨ましくて、こっそり聞き耳を立てていた学生時代を思い出す。

 羨ましいのは今も変わっていない。ただ、歳をとり、身を置ける環境も立場も変わり、耳をそばだてて聞こえる会話の質が少し変わって、羨望を自覚する機会が減っただけだ。だからあの時の彼女たちと——秋之あきゆき自身と同じ年頃の少女たちが賑やかにはしゃいでいるところに行き合えば、今でもその感情が湧き上がる。

 別の誰かが何かを話していても遠慮なく声をかぶせ、全員が同時に喋っているようでありながら、無秩序に交わされているような言葉のほとんどがきちんと把握されている。話題をひとつつまんだら隣で交わされる別の話題に加わり、熱く語り合っていたかと思うとまたもとの話題に戻ってすんなりと馴染む。忙しなく、かしましく、遠慮がなく、エネルギーの奔流そのもののような会話。

「みっこ、町田に告られたってほんと?」

「やー、うそ、知ってるの? なんで? やだあ恥ずい。いや、まあ、ね、られましたけどね、でも即行でフったから!」

「うっそ! なんでなんで、矢野いいなーって言ってたから? でも町田わりと格好良くない?」

「まあー……いいかもだけどお」

「みっこ様のタイプではない?」

「ではなくもないけどお!」

「やっぱ矢野が好き?」

「いやー、リンリンはいい奴だけど好きとかは違うなー!」

「なんだあ? 焦らすな焦らすな!」

「もー……町田ってさあ! 格好いいはいいけど、本人がそれを鼻にかけてない? こう、俺格好いいですが何か? みたいな顔してない?」

 一瞬の空白。ボックス席に座っていながら別の会話で盛り上がっていた二人も携帯端末に集中していた一人も、全員が顔を一点に向けて静まりかえり、次の瞬間一斉に笑い声が弾けた。

「わっかるわかる」

「してるねー体育で女子とかぶった時とか露骨じゃない?」

「いやいやあいつは歩いてるだけでもめちゃ露骨だよ」

「生きてるだけでイケメンですが何か?」

「はいイケメン通りまーすって顔して便所行って毎回個室入るんだ」

「その顔やめろって」

「似てない?」

「似てないよ」

「なんで個室?」

「イケメンは立ちションしないから」

「イメージ重視かあ」

「本人聞いてたらめっちゃ名誉毀損だけど」

「でもわかる。普段イケメンぶってるぶん、イケメンぶれない場面に弱そう」

「弱、ってひどい」

「イケメンの立ちションポーズとかどんな?」

「ダビデ像みたいな」

「ダビデ像に失礼!」

「ダビデはおしっこしてない!」

「やば、えりりんがダビデガチ恋みたいなこと言ってる」

「事実やろがーい」

 息つく間もない勢いで、下品で下世話で無責任な会話が流れていく。

 実際のところ、全員が本音で話しているとは限らない。町田少年は、彼女たちの連帯のために茶化して遊ばれているに過ぎないのかもしれない。それでも、向かいのソファ席からひっそりと耳を傾ける秋之の心には、馴染みの羨ましさが浮かび上がっている。

 男だって異性の話はする。誰が好きだの告白されただの、今し方聞いたような話題もなかったわけではない。ただ、男の——少なくとも秋之たちの場合、その話題の基準は常に「可愛さ」だった。可愛いから好き、可愛いから許す、可愛いから付き合ってもいい、可愛くないのに付き合うのか、可愛くないからふった。好きな相手の可愛さを否定されても、美的感覚の相違として、自分には可愛く見えると答える。

 容貌が貶された時、性格や素行など、別の美点を持ち出すことには意味がない。何を言おうと結局、会話は可愛さの評価に回帰する。どれほど優れた点があろうと、可愛くない、という事実は覆らない。男同士の恋愛話に、優しいところに惹かれただの自己陶酔気味なのが気に入らないだのと、本音を覗かせるのは禁物だった。本気の恋愛感情を晒し合うことがタブーだった。逆に言えば、それを打ち明けられる相手が親友ということになるのだが、残念ながら秋之の人生にはそうした存在は現れなかった。

 目の前の女子高生たちのように、冗談まじりでいいから「可愛さ」以外の話ができていれば。そうすれば、秋之の叶わなかった恋の亡霊も、声に出すたびに少しずつくうに溶けて消えていたかもしれない。

 羨望は常に、喪失と絶望に結びついている。

 ランチタイムぎりぎりに駆け込んでハンバーグ定食を押し込んだ胃がグッと絞られるような感覚があり、秋之は鞄と伝票を持って席を立った。

 その動作を女子高生の一人の視線が追っていて、気づかれないと思っているのか気づかれても構わないのか、「今のひと格好いくなかった?」と言うのが小さく聞こえた。「うそ、どんなだった?」「もっと早く言ってよお」「シュッてしてるときの山﨑賢人」「つっちーの似てるはアテにならん」「シュッとしてる時とポニャってしてる時あるよね」「本当にイケメンだったもん」「早く言えー」

 臓腑を締め付けるような重苦しさに唇の内側を噛みながらも、秋之は鼻から笑いをこぼした。彼女たちの明け透けさが愛らしく、眩しかった。

 会計を済ませて店を出て、階段へ向かおうとして、やめる。ファミレスが入っているのは狭い商業ビルの三階で、普段ならば待つ時間の方が無駄だと迷わず階段を選ぶが、今は少し胃腸を気遣った方がよさそうだった。エレベータのボタンを押せば、二階から上がってきたカゴは予想通り三階を素通りし、焼肉屋の入っている六階で止まる。数人が乗り降りするだけの時間のあと、すぐにまた下りてきたが、潰すほどでもない、さりとてぼうっと無視できるほどでもないこの時間が、秋之は苦手だ。

 ポーンと電子音が鳴ってのったりと扉が動き出すと、開き切る前にカゴに入り込んで操作パネルの「閉」と「1」を乱暴に押す。音もなく静かに下降し出しす感覚に、少しの安堵を覚えて目を閉じた。

 秋之の初恋が散ったのは十歳の時だ。相手は可愛い女の子などではなく、なんでもできて、優しくて、それを驕ることのない格好良い——自慢の兄だった。それが恋なのかどうか、昔からずっと考えている。憧憬、理想、親愛——子供の感情は鈍く未発達であるから、少しでも似た感情を恋と間違えているのではないかと、何度も何度も確認した。暗示のように、勘違いだと言い聞かせもした。それでも、友人たちがわざとらしく、或いは深刻ぶって口にする恋の話を聞くたびに、秋之の心は兄を求めてざわついた。彼らが「可愛い」恋人に求めるあらゆるものを、兄に与えられることを願っていた。

 実際にそうすることができれば、何かが証明されていただろう。ひょっとすれば、恋は散らず、水面みなもに溶ける氷のようにゆっくりと静かに消えていたかもしれない。けれど、秋之が愛情の深さや種類を理解する前に、兄の千秋はありきたりな交通事故でこの世を去った。おそらく彼自身、複雑な感情の存在さえ知らなかったであろう幼さで。

 先ほどの女子高生の一人が自分だったらどんなことを言っただろう、と考える。もしも自分が、告白されたというあの子であれば。断った理由を聞かれた秋之は「好きな相手がいるから」と答えて、どんなところが好きかをひとつひとつ数え上げるだろうか。友人たちは、また言い出したと呆れながらも応援してくれるだろうか。「もう亡くなってしまったんだけどね」と続ける秋之に慰めの言葉をかけてくれるだろうか。それとも、これはただの逃避だろうか。現実の自分が決して持ち得ない属性を持つことができたらと夢想をするのは。それはそうだろう。女子には女子の、男子には知り得ないルールや不文律があるはずだ。

 益体もない考えをぼんやりと弄んでいるうちに再び電子音が鳴り、微かな振動と共に機械が停止する。二階層ぶんの移動はあっという間だ。長い瞬きを終えたような気持ちで目蓋を持ち上げれば、扉は悠揚に開き出すところだった。乗り込むとき同様、その動きが止まるよりも早く秋之は動き始める。開きかけの扉の向こう、進行方向に人影がないことをさっと確認し、念のため一拍置いてエレベータから降りる。

 待っている者はいたが、昇降口を避けて行儀よく並んでいた。秋之は何の気なしに彼らを一瞥する。それぞれに無関係そうな四十がらみの男性が二人むっつりと立つ後ろに、親しげに言葉を交わす少年が二人。歳の離れた兄弟なのだろう、身長にはずいぶん差があり、背の高い一人は制服、幼なげなもう一人は私服だ。秋之たちは年子だったので、兄が存命だったとしても、こんな光景は存在しえない。それでも、久しぶりに苦い羨望と向き合った直後のせいか、必要以上に彼らに視線を向けてしまう。

 その不躾な視線に気づいたのか、或いは前へ進むよう促されたからか、年下の少年が顔を上げ、秋之と目があった。子供相手といえども無作法を見咎められるのは気まずく、反射的に視線を逸らそうとする。けれど、できなかった。それどころか一瞬、もつれたように脚が止まってしまった。

 それは、兄の顔だった。

 今し方、羨望とともに思い出していた苦い記憶。喪ってからもずっと、忘れることを己に許さず、求め続けていた面影。どんなに大切にしていても、記憶はいつか風化する。その度に実家の仏壇に飾られた遺影を拝みに行き、さほど多くはないアルバムの隅々までを眺めつくし、あらゆる表情を、仕草を刻み直した。脳の機序が秋之の想いを単純で真っ直ぐで瑕疵のないものに歪めてしまわないよう、何度も何度も。そうして延々と守り続けてきた兄の顔貌が、目の前にあった。過去を確かめるための記録としてでなく、今、ここで、鼓動を打ち、思考をし、滑らかな筋肉と柔らかな膚を動かしてこちらを驚嘆の目で見つめる存在として。

「ゆうちゃん」

 兄の——十四年前の真弓千秋の顔をした少年が、ぽつりと呟いた。秋之は足を止めたまま目を見開いてしまう。千秋と秋之、文字を知らない頃でも互いの名前が似た音を持つことには気づいていたから、彼らはごく自然に音の違う部分で相手を呼んでいた。「ちーにぃ」と「ゆき」。

 ——そう、兄は俺をゆきと呼んでいた。今、兄と同じ顔の少年はなんと言っていただろうか。ゆき、と呼んでいなかったか。

 もはや礼儀など忘れて、秋之の目は少年の姿を追った。しかし少年は、優しく背中を押す兄に従って既にエレベータに乗り込んでいた。そこに追い縋るまでには理性を失ってはおらず、秋之はただ呆然と、閉まっていく扉の向こうで穏やかに微笑む顔を見送るしかなかった。

 にわかに襲ってきた動悸に知らず知らず胸を抑えながら、追うべきか否かを考える。エレベータの停止階は頭上の表示器で確認ができ、三階と五階、六階にランプが灯っている。このビルはワンフロアに多くて二店舗しか入っておらず、全てが飲食店だ。各店を確認し、先ほどの少年を見つけることは容易だろう。

 だがそもそも、今見たもの——聞いたものが正しく現実であったか、秋之には自信が持てない。生まれ変わりなど信じていないし、死んだ人間が蘇るにも遅すぎる。詮ない夢想のせいで白昼夢を見たと考えた方がよほど納得できた。たとい顔が似ていたことが事実であっても、他人の空似だ。それ以外は全て秋之の願望が見せた幻に違いなく、少年と接触する意味も、必要もない。

 ひと呼吸、ふた呼吸、深い呼吸を繰り返して、秋之はエレベータに背を向けた。今日までの十四年、たまたま遭遇せずに済んでいただけで、よく似た他人は存在する。今後また似たようなことが起きたとき、毎度毎度うろたえるわけにはいかない。いよいよ、無理やりにでも未練を手放さなくてはいけない時なのかもしれない。

 ビルを後にし地下鉄で会社に戻る間も、定時を少し過ぎてて勤務が終わるまでの間も、秋之は財布に忍ばせた写真を捨てることを考えていた。一枚だけ手元に置いている、兄の最後の誕生日の写真。それを廃棄すればきっと未練も共に切り捨てられる。自宅に帰るまでも、夕飯をとっている間も、入浴中も、就寝前の微睡の中でも、秋之は考え続けた。だが結局、翌日どころか翌週になっても決意を固めることはできなかった。長年放置していた問題に改めて向き合ってわかったのは、自分があまりにも未熟で幼稚だという事実だけだった。この恋着の正体を見極めることはできず、しかし思い切って捨てることは心が拒絶する。兄の死からずっと、秋之は答えを出すことから逃げ続け、驚くほどに何も変われていない。

 邂逅から二週間が経つ頃には、秋之はむしろ、あの日少年の後を追わなかったことを激しく後悔し、機会を見つけては例の商業ビルに立ち寄るようになっていた。

 考えれば考えるほど、己が何に執着しているのか、恋とはなんなのかがわからなくなり、その全ての解決の糸口を見知った顔をした赤の他人に求めていた。自身が大人で、相手が子供であることを気にする余裕などまるでなかった。

 しかし、人を探すにあたって頼れる情報が、何の変鉄もないビルの入り口付近での一度きりの邂逅のみというのは、実に心許なかった。付近に住んでいるのかも、頻繁にそこを利用するのかも、何もわからない。それでも一縷の望みにかけるしかなかった。

 日中は真っ当な大人のふりをして仕事をこなし、一般的な夕飯の時刻より早く立ち寄れる日には、自宅とは逆方向の地下鉄に乗って二駅先の繁華街に通った。休日も、特に用がなければその辺りをぶらついて過ごす。気づけば秋之は、安価に長時間滞在できる馴染みのファミレスではなく、そちらをよく観察できる、向かいのビルの一階に入った小洒落たイタリアンレストランの常連になりつつあった。

 少年を探し始めて三ヶ月もする頃には、今までなかった出費が懐に与える痛手を感じ始めて、出勤時の昼食に弁当を持参するようになった。自分で握ったおにぎりが二つばかりであったり、前日にスーパーで買った弁当であったりしたが、おおむね八百円以内で済ませていたそれまでの生活からどの程度節約できているか、新たな出費と相殺できているかを考えるとついため息が漏れた。

 一応営業部に所属している手前、張らねばならない見栄もあり、外回りで一日を終える日もあり、自然と手近な公園などでひとり手弁当を食べる日が増えた。その事実の侘しさに更にため息をつきながら、それでも、秋之はあの少年を探すことを諦められなかった。

 そうして自身の思考や行動の軸として常に意識を向けているうちに、やがて秋之の中の兄と少年の境目は薄れていった。どちらも同じ顔をしていて、手の届かないところにいて、自分だけが必死に追い求めている。きっと秋之を導いてくれる存在。両者の違いはもうほとんどなく、写真に写った姿を兄として見ているのかあの少年として見ているのかも曖昧になっていた。

 だからか、探し始めて四ヶ月が経ち、ついに求めていた姿を認めた秋之は、相手のことをごく自然に「ちーにぃ」と呼んでいた。

 兄弟の間でしか通用しないその呼び名を、しかし彼はかつての邂逅と同じように泰然と受け止めた。

「ゆうちゃん偉いね。お弁当作ってるんだ」

 まるで知己に話しかけるような気安さとてらいのなさだった。はじめましても久しぶりもなく、いつも通りであるかのような、不自然な自然さ。だが、秋之には違和感や疑念などはない。ただ、ようやく会えた安心と喜びだけがあった。

「ちーにぃが……何も教えてくれないから、探すのにお金がかかったんだよ」

 一応の大人として屈託のない感情を表すことに抵抗があり、誤魔化すように俯いて、弁当をつつく。侘しさを少しでも忘れられるよう見栄えのする弁当箱を買い、作り置き惣菜にも凝り始めていて、それなりに体裁が整っている。ひと月前の、ラップに包んだおにぎりとパックの野菜ジュースという情けない食事を見られずに済んだことに、秋之はひそかに安堵した。

「俺のこと探してくれてたの?」

「そんなの当たり前だろ。探さないわけがない」

 意外そうな反応に、そんなに薄情に見えるのかとむっとして返す。だが、そんな子供じみた不機嫌さなど意にも介さず、少年は花が咲くように笑った。それが真底嬉しそうで——実際そうなのだ。それが心から喜んでいる時の表情だと秋之はから、自分がしかめ面をしているのが馬鹿馬鹿しくて、ふにゃりと相好を崩した。

「俺がゆうちゃんを見つけただけだと思ってた。ゆうちゃんも俺のこと見つけてくれてたんだ」

「俺もおんなじ。自分だけがちーにぃを見つけたんだと思って、いらない回り道をしてしまった」

 互いに同じことを考えていたとわかって、二人はくすくすと笑い合った。

 しばらく、言葉もなく肩を震わせてから、少年はするりと秋之の隣に座った。互いの脚が触れ合うほどに近く、弁当箱を支える腕に華奢な肩が押しつけられていたが、秋之にはむしろ心地よい重さだった。

「それにしても、ゆうちゃんがここにいるなんてびっくりした。俺の家、ここから十分くらいだよ」

「うそ。俺、ここの駅の反対側の……オフィス街のほうにしょっちゅう来てたよ。うわ、こんなに近いのに馬鹿だなあ……全然思いつかなかった」

「えーっ、それ、俺の方がもったいないことしてたじゃん! こんな、ちょっと公園に来るだけでよかったなんて詐欺じゃん!」

「俺だって、前に会ったビル……あそこに通い詰めて結構貯金を減らしたよ。こっちに営業来た時に西口側に来るだけでよかったなんてアホみたいだ」

「もったいないってお金のことだけじゃないかんね! それに、ゆうちゃんの百円と俺の百円は価値が全然違うんだからね。手伝いとかテストとか頑張っても、もう中学生になるまでお小遣い増やさないって言われたんだから」

「そっか……そうだ、ちーにぃは十一歳なんだ」

 ごく自然に親しく語り合う中で、秋之ははっと意識を遠い過去に向けた。兄は——千秋は十一で死んだ。ならばこの少年も同じ歳に決まっていた。

 それは正しかったようで、少年は秋之の肩にぐりぐりと頭を擦り付けて喜びを示した。

「そう! 今年で十二歳! 誕生日より早くゆうちゃんが見つかってよかった。ゆうちゃんもお祝いしてくれる? 二月十五日」

 千秋の誕生日は九月だった。秋之は十一月。名前に秋の文字が入っている理由のひとつでもある。だが、些細な違いも当然だと受け止めた。この少年は、兄であって兄ではない。

「バレンタインの次の日だ。絶対忘れないよ」

「バレンタインの売れ残りとかだったら怒るからね」

「するわけないだろ。バレンタインはバレンタインでちゃんと準備するんだから」

「あっ、え、そうなの。そっか。くれるんだ。ふうん」

 誕生祝いはねだったくせに、バレンタインは予想外だったらしく、少年は素っ気ない返事をする。頬が緩み、耳が赤くなっているあたり、照れ隠しなのは明らかだった。そんな様子が愛おしく、同時に新鮮で、秋之は深い感慨を覚えた。

 兄の人生は十一で途切れた。だが、今からまた、その先を見守れる。共に過ごすこともできる。こうして馴染みのない顔や知らない顔を見つけることも、これからどんどん増えていくに違いない。秋之はその全てを手に入れたいと思った。特別な相手にしか見せない特別な顔も含めて、これから秋之の知らない時間を過ごしていく彼の全てを、余さずに手に入れたい。これは単なる執着ではなく独占欲であり、彼の人生と自分の人生を分かち難く繋ぎ合わせたいという欲望であり、つまり、これこそ恋に違いなかった。

「ゆうちゃんは今どこに住んでるの?」

 話題を変えるように尋ねる少年の耳は真っ赤なままで、そこに触れたいと思いながら、秋之は答えた。

「前に会ったところから地下鉄で五駅。ここからだと……少し遠いか。乗り換え一回で四十分かもうちょっとかな」

「じゃあ兄ちゃんの高校からだと近いんだ」

 そう言って挙げられた校名は、確かに自宅付近でも通りのよい学校のひとつだった。秋之の職場と自宅のだいたい中間地点に設置されている。通勤に使わないので忘れていたが、そういえば別の路線も近隣に通っっていて、そちらに高校の最寄駅があるのではないか。思い出したことを伝えると、少年は嬉しそうに皮算用を始めた。

「休みの日とか、兄ちゃんの定期借りちゃおうかな。そしたら、ゆうちゃんともいっぱい会える」

「それ、本当はだめなことなんだよ。バレたら結構大変なことになる。俺がこっちに来るからいいだろ」

「うちの近くなんてつまらないよ。普通にしてたらバレないでしょ」

「でもお兄さん高校生なんだろ? 小学生は子供料金だから、ちーにぃはもう少し大人っぽくしないと」お互いのずるさに苦笑しながらそこまで言って、秋之は決まり悪くなって首元を掻いた。「そうか、今はちーにぃにもお兄さんがいるんだ。変な感じだな。なんて呼んだらいいかな。ちーにぃのお兄さんだから——」

 大兄、とふざけて言おうとしたが、割り込むように少年の声が大きく響いた。

「だめ。ゆうちゃんのお兄ちゃんは俺だけでいいよ」

 驚いて口をつぐむと、少年は思いのほか真剣な顔つきをしていた。その瞳に、責めるような、苛立つような感情を見てとり、秋之は背筋に痺れが走るのを感じた。

 ——この子もまた、同じ思いを自分に向けている。

 それは秋之にとって祝福に等しかった。好意を向けている相手から好意を返されたという、単にそれだけのことではないのだ。秋之にとっての千秋のように、この少年にも失った「ゆうちゃん」がいる。「ゆうちゃん」に向けていた感情、向けたかった激情、向けてよいか躊躇っていた恋情を、彼は秋之に注ぐことを決めている。これはお互いに初めての恋、そして最上の愛だ。

 だから秋之は、年甲斐もなく真っ赤になってにやける口元を隠した。

「これからずっと、ちいにぃだけが俺のお兄ちゃんだよ」

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