プロキオンの密葬
烏目
序 悠二
複数の、別の人間に同じあだ名をつける者は滅多にいない。
だから聞き慣れた声が「ゆうちゃん」と呼びかけるのを耳に捉えたとき、悠二もすぐにそちらを振り返った。
自分を呼ぶ甥の声に間違いなかった。仕事の都合、赴任先での妻との出会いと結婚、出産や育児、諸々の都合で直に対面することこそ久しく——実に七年ぶりのことだったが、技術の進歩は海を超えた交流を当たり前のものにしている。電話やビデオチャットで兄一家とは頻繁に連絡を取り合っていたし、甥の成長も、同じ家の一階と二階とで同居しているかのように見守ってきた。そろそろ反抗期がきてもおかしくない年頃だからか近頃は些か素っ気なく、通話の頻度も落ちてはいたが、間違いなく甥の声だと悠二には確信が持てた。デジタル処理を経た声を聞き続けてきたせいか、かえって声の特徴に鋭敏になっていた。
「
故郷についたことも兄に連絡したばかり、人で溢れかえる駅前広場で鉢合わせるなどすごい偶然だと驚きながらも、自然と湧き出た笑みを抑えることなく浮かべ、視線をさまよわせる。一度、二度と往復すると、人垣の向こう、十メートルと離れていないところに、記憶にあるよりもいくらか大人びた格好の甥が見えた。やはりと悠二は笑みを深めたが、同時に言い知れぬ不安が心をよぎった。
「繭己——」
再び名を呼び、手を挙げて振ろうとするが、その腕が鉛のように重い。人違いのはずはない。ヘアセットや服装で大人びて見えるものの、間違いなく悠二の甥だ。顔立ちも、ぴしりと背筋の伸びた立ち姿も、声も、自分の名を呼んだことも、全てが悠二の知る甥と合致する。他人の空似とは思えない。それでも、違和感が拭えない。俺も気づいたぞ、と身振りで示すことも、声をあげることもできない。
——伝えられない。
そう考えたとき、悠二は慄然とした。不安の正体に、違和感の理由に気がついてしまった。繭己は——甥の姿をして自分を呼んだ少年は、悠二のほうを見ていなかった。
「まゆ……」
弱々しく、それでも
そんなばかなと思いながら、甥であるはずの少年を凝視する。軽やかに跳ねるような足取りで彼が対面した人物を見て、悠二はいっそう寒気を覚えた。
その顔には覚えがあった。身に、覚えがあった。何百回、何千回、ひょっとしたらもっと多く、見た覚えがあり、見られた覚えがあった。
繭己が楽しげに声をかけている相手は落ち着いた様子の男で、二十代前半か後半か。三十には達していないように見える。足を止めた彼らの周りを忙しなく行き交う群衆のほとんどより頭ひとつ分背が高く、その背をわずかに丸めて繭己と言葉を交わしている。何か冗談でも言い合ったのか、繭己と同時に口元に手を当てて笑う。その顔は、まるで鏡でも見ているように悠二にそっくりだった。
悪い夢でも見ているようで、悠二は一瞬気が遠くなるのを感じた。甥としか思えない少年と、自分そっくりの男。もしかすると、長く過ごした異国の地から祖国に戻ったばかりで、なんらかの幻覚でも見ているのだろうか。
だが、そうではないことを悠二は理解している。青年の顔は、その笑い方すらも、悠二に覚えのある自身の姿とまるで同じだ。けれどそれは——すでに悠二が失ったものでもあった。
無情な時の流れと己の身なりに無頓着な生活習慣によって、ここ数年で体型も人相もだいぶ変わったことを、彼自身が自覚している。繭己と
ふらつきかけた体を、すぐ脇にあったボラードに片手をつくことでなんとか支える。ありえるはずのない光景に喉が引きつるのを、幾度も咳払いをしてどうにか抑え、一歩、二歩と彼らに歩み寄る。本当に地面に足がついているのかもわからなかったが、きちんと歩けていたようで、すぐに距離が縮まった。
明らかに自分を目指している人影に気づいた甥が、怪訝な顔をするのが見えた。しかし、声をかける間もなく、かつての悠二の顔をした男が、甥を庇うように悠二との間に割って入る。
それは気味の悪い感覚だった。過去の自分が、今の自分を見つめている。敵意を持って睨み付けられている。甥を庇うという行動も、かつて兄夫婦に子守を頼まれた時の自分と同じだ。悠二は気分の悪さをこらえるために、惨めに視線を落として、ぽつりと甥の名前を呼んだ。
「あれ、もしかして、叔父さん?」
明るい声で応えがあり、悠二は瞠目して顔を上げた。やはり間違いなく、この少年は甥なのだ。だが、では、この青年はなんなのか。それに、甥の言葉の耳慣れなさ——叔父さん、と呼ばれたことは、記憶にある限り一度もなかった。
「知り合い?」
青年が首だけで後ろを窺うと、朗らかな肯定が返される。
「お父さんの弟。こっちに帰ってくるよー、っては聞いてたけど、今会うとかびっくりした」
「親戚の近寄り方じゃないから変質者かと思ったよ。失礼しました。叔父さん、いつもこんな感じなの?」
「ええ、どうだろ。会うの久々だもん」
「そっか。あの、具合でも悪いんですか?」
青年は繭己と言葉を交わしながら、合間に悠二にも儀礼的に声をかける。それがまた、幻覚でないと念押しをしてくるようで、悠二は目眩がした。それでもなんとか思考をまとめて、言葉を捻り出す。
「繭己の、叔父です。君は……その、友人と言うにはちょっと……年が離れている気がするけれど……繭己と、親しくしてくれてるようだね。差し支えなければ、名前を聞いてもいいかな」
本来ならばどういった知り合いなのか確認するのが先だとわかっていながら、悠二はそれを尋ねずにはいられなかった。当然、悠二とは違う名前が出てくるに違いない。しかしもし、その名を名乗られたら? 青年がなんと答えることを期待しているのか、なんと答えてくれば安堵できるのか、もはや悠二にはわからなかった。それでも、聞かずにはいられなかった。
青年はかすかに口の端を引きつらせたように見えたが、すぐに隙のない笑顔に切り替えた。
「俺は真弓あ」
「ゆうちゃんだよ」
だが、青年の言葉を遮るように声変わりを控えたアルトの声が大きく響いた。近くを歩いていた人々が何事かと視線を向け、一瞬足を止めるが、大したことでもないと見てとってそのまま歩き去る。繭己が真弓と名乗った青年の腕にしがみつくようにして悠二を見据える様子は、はたから見れば単に知り合いを紹介しているだけに見えただろう。けれど悠二だけは、繭己の目を正面から見つめている悠二だけは、その異様さを味わっていた。
繭己の顔からは一切の感情が削げ落ちていた。悠二の記憶に間違いがなければ、早生まれの繭己は十二歳で、まだ中学生になったばかりだ。それに日本を離れる前、五歳だった繭己は当たり前のように無垢で、無邪気で、愛らしく、喜怒哀楽を全身で示してはしゃぎ回っていた。その明るい性格は回線越しの関係になってからも変わらず、近頃素っ気なくなってからも、つんと澄ました顔には強がりや苛立ち、自信や喜びが垣間見えていた。しかし今は本当に一切、感情がない。色素のやや薄い茶色の目は、空恐ろしいほど無機質に見えた。
「繭己……」
何を言えばいいのかもわからず、ただ甥の名前を繰り返す悠二に、無表情だった繭己は暗い笑みを向けた。
「あのね、叔父さん。今のゆうちゃんは、俺のことちいにぃって呼ぶんだよ」
それがどういう意味かも、悠二にはわからなかった。ただ、久々に対面した——かつては懐いてくれていたはずの叔父に、特段の感慨も示さずそんな会話をして背を向けた繭己に、後を追う青年が「ちいにぃ」と声をかけた気がした。
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