第五章 ヘヴィ・レイン Heavy_Rain

ヘヴィ・レイン 1

 屋敷を出ると、外はもう完全に暗くなっており、しかも予報にない大雨だった。

 二人はメイドから譲り受けたビニール傘を差して、第一三総合体育館前の岸壁バースで貨客艇を待った。

 次の便は7分後。本数が微妙に少ない。


 バケツを引っくり返したような大雨が降る土曜日の夜。

 外を出歩く者はほとんどいない。水路を行くふねもまた少ない──たまに通りがかるのは中型の物資輸送艇トラックぐらいだ。

 地面や海面がバタバタと雨に打たれる。傘はほとんど意味をなしておらず、服はもうずぶ濡れになっていた。

 布地がぴったりと肌にくっついてきて気持ちが悪い。しかも低気圧の影響か、まるで脳みそが漬物石になってしまったかのようなとうつうが誓の頭を苛んでいた。


 そんなただでさえ陰鬱な気分の上に、さらに小夜村の話が思い起こされてきて、心が沈む。

 君のははぎみを無害化する。彼らは君のははぎみを殺すことを試みた。魔法戦力を一個大隊ぶんも投入して……。

 メイドは『計画に反対してた』のあたりからは真に受けるな、と言っていたが、逆に言えばそれより前に聞いたことはある程度信用していいということだ。

 つまりこれらの発言内容は、真実である可能性が極めて高い……。


「……ねえ、誓」

「なあに?」

「さっきの話さ、どこまで信じる……?」


 満里奈はか細い声で言った。

 その声の震えは間違いなく雨に濡れた寒さからだけではなかった。


「ANNAの機動部隊がママを、って……ほんとなのかな……?」

「……あのさ、満里奈」

「なに……?」

貨客艇バスが来るまで、手、握っててもらえないかな」

「っ……。い、いいけど……いきなりどうしたの?」

「私も不安だから。手を握っててくれたら、ちょっとは落ち着けるかなって。ダメ?」


 誓は傘を左手に持ち替えて、右手を満里奈に差し出した。

 満里奈はほんの少しだけ逡巡してから……


「……貨客艇バスが来るまでね……?」


 と、傘を右手に持ち替えて、誓の手を握ってくれた。


§


 こんな風に手を繋ぐのは久しぶりだ。緊急時にとっに手を取るなどはともかくとして。

 最後にこうしたのはいつのことだったか。きっと中学二年とかの頃だろう。

 満里奈の手はひんやりと冷たく、それでいて柔らかくて、自分のよりも小さくて。

 陰鬱な気分を忘れるのには十分どころか、少々過剰ですらあった。

 気まずい沈黙が流れていたが──満里奈がそれを破った。


「なんか誓さ、おっきくなったよね」

「そうかな?」

「うん。背だって昔はわたしの方が高かったのに……一体どこで差がついちゃったかなぁ」

「ちっちゃい頃の好き嫌いが後々響いてきたんじゃない?」

「んなっ……そ、それは関係ないと思うけどなー!?」

「でもお野菜たっぷりの中華料理に囲まれて育った私は、この通りだよ。栄養のバランスは大事だと思うけどなー」

「うぐっ、ぐ、ぐうの音も出ない……」


 懐かしい記憶が誓の脳裏に蘇ってくる。

 そう、昔は満里奈の方が身体が大きかった。誕生日も満里奈の方が早かったので、事あるごとにお姉ちゃん風を吹かされたものだった。

 ピーマンも人参も食べられないような少々情けない『お姉ちゃん』だったが、お姉ちゃん風を吹かすだけのお姉ちゃん力を発揮している場面も一応ちゃんとあった。とんでもない泣き虫だったかつての誓が、外で転んで擦り傷を作って泣き出したとき、満里奈はいつも頭を撫でて『痛いの痛いの飛んでけ』をしてくれた。

 それが今となっては身長差15センチである。学校にせよANNAにせよ、二人が同い年の幼馴染だと初見で見抜けた人は今のところ一人もいない。

 大抵満里奈の年齢が二つ──最も酷かった例では五つ──マイナスされたり、誓の学年なり階級なりが一個盛られて、先輩後輩コンビというふうに誤解されるのだ。

 そういうわけなので、今では誓の方が『お姉ちゃん』だ。


 それはそう、なのだが。


(……やば。なんかそう思ったら満里奈が余計に幼く思えてきた……)


 逆に。

 満里奈がなんだか『妹』みたいに見えてきてしまった。

 そもそも全体的に幼めの面立ち。ぱっちりとした大きな碧眼。髪に結び付けられた二つの大きな青いリボン。低い身長に狭い肩幅。同年代の女子と比べても数段高い声。

 未だに──という表現はよくないのだが──女児向けの魔法少女アニメにハマっていて、グッズもたくさん買っていて。居室の机やベッドにはぬいぐるみがたくさん置かれていて。

 母親のことを今でもママと呼んでいて、父親のことを『お父さん』と言うようになったのも実は比較的最近のことで。美味しいものを食べると、ぱあーっと満面の笑顔になって。

 もう慣れたけどなんて言いつつ、初対面の人に子供扱いされるとちょっと不機嫌になって、あとからぷりぷり愚痴を漏らす。

 そんな満里奈のことが、可愛らしい妹のように思えてきた。


 ……誓は自問した。こんなことを考えるなんて、頭が疲れているのかな?

 それから自答した。うん、きっと疲れているんだ。あんな話を聞いたあとだから。


 なら満里奈はもっと疲れているに違いない。

 満里奈にとってあの話は自分の実の母親、身内の中の身内のことだったのだから。


 で、あるならば。


(抱きしめたり)


 だったが故に。


(頭を撫でたり)


 だったからこそ。


(してあげたい……)


 時に。

 どうしてこんなことを考えるのだろう?

 

(頭が疲れているから?)


 それだけのはずはない。

 ただ脳みそが疲れているだけならもっと知能指数の低いことを考えるはずだからだ。あっ、今通り過ぎていった輸送艇トラックげんそくにタコさん描いてあって可愛いなー、とか。

 だのになにゆえ、満里奈を抱きしめたいとか、頭を撫でてあげたいだなんて考える?

 ……その答えは簡単だ。


(やっぱり、満里奈のことが、好きだから)


 だったらどうする?


(この子のそばにいる……。私だけはずっと。他の誰と敵対することになっても)

「……い? ちーかーいーっ」

(たとえそれが、ANNAであっても──)

「園寺さんの誓ちゃーん?」

「──はっ、へっ!? な、なにっ!?」

貨客艇バスが来ましたよー」

「あっ、ホントだ……」

「こっちが話しかけてるのにぼーっと遠くを見ちゃって……頭が疲れておいでなのかな?」

「あはは、そうかもね……」


 誓が苦笑しながら水路の向こう側を見ると、赤、緑、そして白の航海灯をつけた自律中型艇が近づいてきていた。臨港第二都心行きのふねだ。


「じゃあ帰って早く寝なきゃねっ」


 満里奈はそう言って誓の手を離し、地べたに置いていた武器ケースを背負い上げた。


「うん、そうだね」


 誓もすっかりびしょ濡れになってしまった武器ケースを担ぎ上げた。

 そうだ、何はともあれまずは休息が必要だ。

 頭を冷やし、先ほど聞いた話を整理しなくてはならない。

 あらゆる害意から満里奈を護るという決意は揺るぎないとしても、ANNAが彼女の母親を殺した非道な組織で、潜在的な害悪であるとまで断ずるのはまだ尚早だ。

 武器ケースのファスナー付きポケットから乗艇代の小銭を引っ張り出す。百円玉2つと十円玉1個。

 この料金はどれだけ乗っても一律であり変わらない。かつて在りし旧都営バスの頃からそうらしいが、なかなか不思議な仕組みだよなあ、と誓は思う。ちゃんと説明を聞けば納得はいくのだろうが。


 ふねが至極滑らかな動作で岸壁バースに近づいてくる。岸壁バースから短いアームが伸びていき、げんそくのフックを掴んでがっちりと固定する。艇体が引き寄せられる。

 舷窓スカッツル越しにキャビンの中が伺える。……やけに乗客が多かった。数はおよそ7名。


「?」


 誓はいぶかしんだ。

 今は土曜日の夜で、それもざあざあ降りの大雨である。

 そしてこのふねは臨港第二都心行き。

 こんな時間帯のこんな天気の下、こんな集団で都心へ向かうとは……一体何をしに行くのだろうか?


 ステンレス製のスロープがぱたっと降りてきて、キャびんの扉がぷしゅーっ、と開く。

 ……誓はその瞬間、猛烈に嫌な予感を覚えた。

 もっともその予感はあまりに『遅すぎる』ものであったのだが。


 ふねを降りてきた“彼ら”が、誓たちを素早く包囲するなり。

 ジャキッ、と。

 大口径のハンドガンを構え、銃口を向けてきたのだから……!

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