下品
呼び鈴らしきものはなかった。
サヘラベートは悪態をついて、「おい、」と力なく叫ぶ。
「伯爵夫人様はいらっしゃるか!」
しかし屋敷のなかから反応はなく、その声を無視するかのように、シインとした空気が流れるばかりである。
「早く出てこい! あの人を解放しろ!」
ドンドンと扉を強く叩くが、依然として扉は固く閉ざされていたままだった。
数分ほどそんなことが続き、まさか誰もいないのか、という考えが浮かんできた頃合いだった。
扉の向こうから、「少々お待ちください!」という声が聞こえてきたのだ。ようやく聞こえてきた返事に、サヘラベートは急いで叫ぶ。
「早くしろ! ……まったく、訳の分からない連中だ」
貧乏ゆすりをしながら待つこと、数十秒。
ようやく、重々しい音を立てながら屋敷の扉が開いた。
「申し訳ございません! ちょうど今は立て込んでいまし、て…」
扉を開いて出迎えたのは、ラムールであった。
彼は驚いたような顔をすると、マシェリーの両腕に巻き付けられた縄を見て、顔をしかめる。
「…どういったご用件でしょうか」
明らかに、先ほどよりも声色が低くなっていた。
しかし、そんな様子を気にすることもなく、サヘラベートは偉そうにして言う。
「こちらに、伯爵夫人様がいらっしゃるだろう。このメイドと引き換えに、返していただきたいのだが」
「……そのメイドは、そのことを承知しているのですか」
「何故メイドごときの意思を聞き入れなければならないんだ。この者が気に入らないのならば他を用意するから、早く返していただきたい」
「……」
信じられない。そんなことを言いたげだった。
ラムールの、サヘラベートを見る目が鋭くなっているのが分かる。
「あいにくですが、伯爵夫人様はいらっしゃいません」
「何だと?」
ため息交じりに言うラムールに、サヘラベートは怪訝そうな顔をした。
「貴様、召使いの分際で嘘をつくのではあるまいな」
「私には嘘がつけません」
「では、何故いないのだ」
常に上から目線の言い方に、ラムールは嫌そうなのをこらえているかのように答えた。
「たしかに、先ほどまではいらっしゃいましたが」
「やはり来ていたのか!」
「ええ、しかし、もういらっしゃいません」
「では、どこへ行かれた」
「お屋敷に戻る、とおっしゃっていましたが」
はあ? という顔をするサヘラベートに、彼は言い聞かせるように言った。
「伯爵夫人様は確かにこちらへはいらっしゃいました。しかし今はもういらっしゃいません。……ですので、早く彼女の縄を解いてくださいな」
明らかに嫌悪の意を示す彼にようやく気付き、サヘラベートは嘲笑した。
「……そうか、貴様があの、よく伯爵家の屋敷に侵入していたという奴か」
ラムールは目を見開いた。しかし、その瞳は鋭いままである。
「警備の者から聞いたぞ。このメイドと会っていたそうじゃないか」
「手紙の受け渡しをしていただけです。彼女はなんの関係もありません」
「そう怒るな。貴様がこの女を利用していたのは知っている」
「は…」
ギュウ、と彼の拳が音を立てた。
「頻繁に会っていたそうじゃないか。しかも、警備の目をかいくぐって。伯爵夫人様を攫うためだったのだろう?」
何を言っている、と、そんなことを言いたげな目だった。
「そんな、まさか」
「良い、隠すな。俺とて、同じようなものだからな」
「違う!」
彼は耐えきれなくなったように叫んで、懇願するかのようにマシェリーを見た。
しかし、彼女が目を合わせることはなかった。いや、合わせることが出来なかったのである。
彼女は拒絶したわけではない。むしろ、ラムールを信じたいと思っている。
しかし彼女の脳裏に、馬車の中での下卑た会話がよぎってしまったのだ。
そのときに覚えてしまった、「もしも」の事を考えてしまった。
その不安によるものであった。
しかしその時の、彼の悲哀に満ちた声。
彼女は、すぐに自らの行動に後悔した。弁明をしようと彼に顔を向けるも、そのラムールの表情は、今までに見たことがなかった。
サヘラベートは、そんな様子を横目にして、嘲笑する。
「どうやら違わないようだがな」
「…」
サヘラベートは勝ち誇ったような顔をして、気取ったように言った。
「もういい。あの方は確かにここを去ったのだな」
「…はい」
「ならばここに用はない。二度とあの方に近づくのではな…」
その言葉を言い切ることはなかった。
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