01.はじまりの日

「天におられる私達の神たちよ。御心が天に行われる通り、私たちの住まうこの地にも行われますように。私達の日ごとの糧を今日もお与え下さい。どうか、私達の罪をお許し下さい。私達を誘惑に陥らせ得ず悪からお救い下さい」


 じめじめと湿気の多い部屋の中。シスターの祈りに続いて、ルーディも小さな手のひらを合わせると、壁の窪みに祀られた女神像に祈りを捧げた。


 祈りを捧げるのは、この世界を守護する神たちの一人、――女神ゼルナス。


 女神像が作られた当時には美しい顔も彫られていたようだが、長く人々の祈りを受け止めてきた顔はのっぺらぼう。それでも日々磨かれる女神像は粗末な蝋燭の火だけでも十分に、美しく輝いている。


「今日も一日を終え、明日も神のご加護の元この地で生活できることを感謝しましょうね。さあみなさん、いただきましょうか」


 長机を囲んだ十数人の子供たちが目の前に配膳された食事に一斉に手をつける。子供の拳サイズの小さな麦パンが二個と器の底が見えそうなほどに薄いスープ、夕食と呼べるのはただそれだけ。十分もあれば完食できそうな程度の量を、二倍の時間をかけ味わうようにして食べる。


 けれど、ルーディはもちろん、食事を前にした子供たちは誰も不満を口にしたりはしない。この日常が彼らにとって当たり前で、そして子供ながらに自分たちの置かれている状況をよく理解しているから。日に三度、街で暮らす人々よりも一層に祈り、感謝を捧げることも、自分たちが生きているのは人々が寄せる神への信仰があってこそだと理解しているから。


 ゼルナス教会に併設された孤児院では、下は赤子から十五歳までの子供たちが教会の庇護のもと共同生活を送っている。親に捨てられ、魔物に殺され、身内もおらず引き取り手がいないなど、それぞれ同じような境遇の子供達だ。


 そして、ルーディもその一人。


 今年十歳になるルーディには親の顔も生まれた場所も記憶にはない。物心ついたときにはこの孤児院にいた。


 なんでも、一糸まとわない状態で教会の軒下に捨てられていたのだという。しかし、赤子を捨てたとはいえその人物には愛情の欠片くらいはあったのだろう。ご丁寧に教会に捨てられたルーディは、魔物の住む山のなかに放置されていた孤児と比べれば、まだ恵まれていると言える。


 生まれてから今日までルーディの世界はこのゼルナス孤児院でしかない。

 だからこそ、ルーディにとっての実家は孤児院、そして親といえばシスターミラエラのことを言う。


「ほら、ルーディ。パンの欠片が頬についていますよ」


 ミラエラはそう言うとちょんちょんと自分の頬を指した。


 ついこの間三十歳の誕生日を迎えたばかりのミラエラは、孤児院を切り盛りするシスターのなかでも一番若い。素朴で慈愛に満ちた笑顔、金色の髪は後ろで束ねられ、厳しくも優しい彼女のことをルーディは母親のように思っていた。


 それはミラエラにとっても然り、敬虔な信徒であるミラエラにとっては孤児院にいるどの子供も神の子であり無償の愛情を注いでくれていた。


 だから、ルーディは自分が孤児だからといって少しも辛くも寂しくもなかった。ミラエラや他のシスターたち、兄姉、弟妹と呼べる子供達がいて、そして居場所がある、それだけで十分。


 これが、―—ルーディの生きる世界の全てだ。


「さあ、みなさん明日はお兄さんお姉さんたちが神の庇護の元、この世界で神の子として巣立つ日です。みんなに感謝と、おやすみの前にもう一度神に祈りを捧げましょうね」


 いつもと変わりない食事を済ませたあと、ミラエラが言った。


 毎日変わり映えない日常を過ごす孤児院の子供たちにも、年に一度特別な日はやってくる。それがミラエラが言った「神の子として巣立つ日」である。別称で「成人の儀」と呼ばれることもある年に一度の日は、十五歳を成人とみなすこの世界において、十五歳を迎えた子供が正式に成人として認められる日だ。


 つまり、この孤児院からまた数人が旅立つ日でもある。


「ミーシャ、ライナ、ルイス、ミランダ。私があなたたちと初めて会った日はあんなに小さかったのに、立派になりましたね。特にミーシャ、おてんばだったあなたが今では素敵な女性になったということをとても嬉しく思います。もちろん、ライナもルイスもミランダも。みなさん本当に大人になりました」


「ありがとうございます、シスター」


 名を呼ばれた子供たちが声を揃える。


 ミーシャ、ライナ、ルイス、ミランダは、いずれも今年で十五歳。


 お転婆と称されたミーシャは、ルーディが孤児院に捨てられたその日から生活を共にしてきたということもあって、実の弟のように可愛がっていた。

 だからこそ、明日はルーディ―にとって、めでたい日であり、それと同時に数人の兄姉との共同生活が終わる悲しい日でもある。


「あなたたちはこれから自分の道を歩いていくの。広い世界を見て、多くを学んで、成長して。辛いこともきっと多くあるでしょうけど、そうなればいつでも此処に顔を出してくれて良いのですからね。いえ、やっぱり辛くなくても元気な姿を見せて頂戴、——寂しくなっちゃうから」


 毎年子供達を孤児院から送りだしているとはいえ、きっとルーディと同じように悲しい日でもあるんだろう。それぞれの顔を見渡すミラエラの瞳には寂しそうな影が宿っていた。


(僕も、あと数年もしたらミーシャ姉さんみたいに孤児院から出ていく日がくるんだ)


 大人になるというのは、どういうことなのか今のルーディには分からないが、きっと夢に満ち溢れたものなのだろうと漠然と思う。


 成人を迎えるミーシャ、ライナ、ルイス、ミランダの目はミランダの寂し気な瞳とは対照的にいつもより輝いているように見えた。





 夢の世界に身体を預けそうになったとき、コンコンと扉をノックする音でルーディは眼を覚ました。


「ルーディ、夜遅くにごめんね。わたし」


 ベッドから起き上がると、寝ぼけまなこをこすりながら夜更けの来訪者を迎え入れる。


「ミーシャ姉さん――どうしたの? こんな夜中に。なにかあった?」


「ううん。ごめんね。ちょっとだけ、寂しくなっちゃってさ。少しお話しない?」


 献金によって得る蝋燭は一本も無駄に扱うことは出来ず、いつもであれば無駄な火を灯すことを口煩く注意されるものだが、今日くらいは良いだろう。きっと神も許してくれる、そう信じて一度火を落とした蝋燭に再び火を入れる。


 ぼやっと橙色の光が部屋を照らした。


「なんだか眠れなくてさ」そう言ってミーシャはベッドに腰掛けた。


「ほら、隣においで」


 胸下まで伸びた赤色の髪、つり目でくっきりと大きな瞳。一年で十センチも伸びたという身体つきは女神像のように美しい曲線を描いている。


「背、伸びたね」

「あなただって大きくなってるわ。すぐ追い抜かれちゃうよ」


「――いよいよ明日だね。ミーシャ姉さん。僕も少し寂しい」


 ミーシャの隣に腰掛けるとベッドが軋んだ。


「うん。なんだか不思議。今までは早く大人になりたいなんて思っていたけどさ、いざそのときが来ると明日から大人だ、なんていう実感はな~んにもないんだ。まだまだ私も子供なんだろうね」


「僕からしたらミーシャ姉さんはずっと大人だけどね」


「この色男め。どこでそんな口説き文句を覚えたの」


 わしわしとルーディの頭を撫でる。


 不器用ながらの照れ隠し。昔からこうだったと思うと、寂しいという想いが大きくなってきた。


「……それで、ミーシャ姉さんは冒険者になるってことだけど、明日からどうするの?」


「ん。そうだね。流石にいきなりひとりでっていうのは怖いからさ。どこかで一緒に仕事をしてくれる仲間を探そうと思ってるんだ」


「ふーん。でもさ、姉さんなら冒険者なんてしなくてももっとたくさんお仕事がみつかりそうなものだけどね」


 成人を迎える前に、大体の子供は働き先が見つかっていることが多い。それは、とある貴族の使用人だったり護衛だったり、各組合が運営する施設の職員だったりだ。


 そして様々ある職業のなかでも完全実力主義で報酬を得る冒険者というのは、安定性には欠ける職業といえる。もちろん冒険者として成果をあげればそこらの貴族よりも富も名声も得られる夢のある職とも言えるのだが。


「――色々と難しいのよ。認めたくないけど、私たちがこれから他の人と同じように見てもらえるようになるにはさ」


「そんなことないよ。姉さんはずっと凄いじゃないか。ライナ兄さんもミランダ姉さんも言っていたよ。ミーシャ姉さんは天才だって」


 ミーシャには魔法の才があることをゼルナス孤児院の誰しもが知っている。十にもならない歳で保有する魔力量は成人を超え、中級魔法程度であれば扱えるといった類希な才能を幼くして開花させていた。そして努力家であるミーシャの性格が後押しし、今やその実力は計り知れない。


「強いだけじゃ駄目なの。きっとルーディも大人になれば分かるわ」


「それは才能ある人だから言えるんだよ。僕なんて――、魔法のひとつだって使えないんだからさ」


 ミーシャに魔法の才があることをゼルナス孤児院の誰しもが知っているように、ルーディに魔法の才が無いことを誰しもが知っている。


 誰もが当たり前のようにできることが、ルーディには出来ない。

 小さな火を起こすことも水を出すことも、風を吹かせることも。


 「どうやったら魔法が使えるの?」といつかミーシャに聴いたことがある。けれど、いくらミーシャの言う通りにしてみても魔法どころか、みなの言う魔力の存在さえ身体に感じることができなかった。もしかすると、神様への祈りが足りないのかも――と思い、心の底から感謝を捧げ続けていたけれど何も変わることはなかった。


 だからみんなが当たり前のように使える魔法が使えないことは、ルーディにとって鳥の羽が自分にはついていないことと同じだった。


「ルーディ。焦らなくていい。あなたは毎日熱心に神に祈りを捧げているじゃない。だからきっと大丈夫よ。気づいたら使えるようになっていました~!なんてことになっているわ」


「そうかな……自信ないや、僕」


「ほら、いつもの悪い癖。明日から私はいないんだから、ルーディも強くならなきゃね。そうだ、あなたも成人を迎えたら私と同じ冒険者になったらどう? 私のパーティーに入れてあげる」


「なんの役にも立たないよ」


「まだ五年あるじゃない。今から一生懸命頑張ろう。魔法が使えなくたって剣術でも体術でもあるでしょう。もし万が一魔法も剣術も体術もダメでもさ、やれることは沢山ある。私と一緒に外の世界を見てみない?」


「ふふ、こきつかわれそうだね」


「なにそれ、素直じゃない」


 そう言って笑うが、ミーシャの真剣な眼差しに彼女が本気でルーディを誘っているのだと気付いた。


 魔法のひとつも使えない自分が冒険者になる、そんなこと一度も考えたこともなかったが、家族であるミーシャと一緒に居られるのだ。そう考えれば悪くはない。


 昔のこと、これからのことをぽつりぽつりと話しているとあっという間に時間は過ぎてしまう。気づけば深夜を知らせる夜鳴き鳥の声が聞こえてきた。


「さて、夜遅くにごめんね。私はそろそろ部屋へ戻るわ。ルーディ、あなたもおやすみなさい」


「うん、ミーシャ姉さん」


「最後に、いつもの」とミーシャはルーディの額に自分の額をこつりと合わせた。こうして話をしたあとは欠かさずにおこなっている二人だけのおまじない。

 視線が交差する。


「あなたの瞳は幸せを運んでくる幸運の瞳、私がいなくても、ずっとあなたのことを守ってくれますように」


「――綺麗だなんて言うのは姉さんくらいだよ。この間も魔物の目だって街の子に石投げられたんだから」


「そんなことする悪ガキは殴っちゃえばいいのよ。あなたの瞳はとっても綺麗なんだから。そう――、いつまでも見ていたくなるほどに」


 何もない、何もできないルーディ。


 生き物にはなにかしら見た目に個性があるというが、ルーディの個性はこの生まれ持つ金色の片目。そして黒目をなぞるように三日月に湾曲した黒い模様だ。金色の瞳に乗る三日月模様は成長と共に曖昧だった輪郭をなぞり、次第に小さな黒い点へと分かれていった。


 ミーシャは褒めてくれるものの、片目だけの色違いは「魔物の目」と小馬鹿にされ、ルーディ本人も「不気味」だと思っていた。何か特別な力でもあれば話は別なのだが、生憎そんな力が宿っている気配はない。魔眼という特異な体質を持った人間もこの世界にはいるとルーディは聞いていたが、そんな特別なものではなさそうだ。ただ気味が悪いと言われる――そんな瞳。


「天におられる私達の神たちよ。御心が天に行われる通り、私のルーディにも加護をお与えください」


 数年続いたおまじないも今日が最後。

 心なしかいつもより、ミーシャの体が温かく感じる。


「愛してるわ、ルーディ」


「うん、ミーシャ姉さん。僕もだよ」


 涙で滲んだミーシャの大きな瞳を見据えながら、別れの訪れを感じていた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る