第33話 依頼1
神原の事務所に到着したのは、それから二十分後のことであった。そもそもこの事務所に足を運ぶ用事があったからこそ、ぼくはあの喫茶店に足を運んだ訳であるし、そうでなければわざわざ来ることもない。……そんなこと言ってしまうとマスターが悲しみそうだけれど、それはそれ。
神原の事務所はいつも通り足の踏み場もないぐらいゴミが置かれている――いや、訂正しよう。ゴミもあるけれど本や衣服も置かれている。投げっぱなし、とはこのことを言うのだろう。
「相変わらず神原の事務所は汚いったらありゃしない……」
こいつには掃除という概念がないのか。
一度、掃除とは何たるかを懇々と話していくべきではあるまいか。きっとこいつは掃除という単語そのものは知っていても、その意味までも理解していないのかもしれない。だから、こんな部屋になっているのだ。きっと、多分、メイビー。
「僕ちゃんを勝手に貶めないで欲しいものだね。というか、僕ちゃんだって掃除ぐらいするよ? 少しは見くびらないで欲しいものだね」
一度も見くびっていねえしどうやったら掃除してこうなるのか教えて欲しいものだ。
まさか掃除をしようとしたのにうっかりさんでゴミ袋をひっくり返しちまったんじゃないだろうな?
「僕ちゃんがそんなうっかりをする訳がないだろう。……ところでたーくん、一体何しに来たんだい? まさか僕ちゃんに文句を言うためだけに来たんじゃないだろうね。だとしたらあまりにも風変わりというか、流石にきみを軽蔑するよ」
「軽蔑、って……。流石にそんなこと言われるとは思いもしなかったよ。ぼくとしては別にそんなことを思っていないし、思っていたとしても表に出さないよ。それぐらい分かるだろう?」
それをわざわざ言うぼくもぼくだけれどね。
「ああ、そう言われればそうかもね」
それで納得するお前もお前だからな。
神原はマグカップを持ってくると、テーブルの上に置かれているポットからお湯を注いで、そこにインスタントコーヒーの粉を入れた。
「お前、本当にインスタントコーヒーが好きなのな……。美味しいか?」
「こうも飲んでいると慣れてしまうね。たとえ美味しかろうと美味しくなかろうと」
つまり美味しくねえってことかよ。
それでも飲もうとしているのは酔狂だな、全く……。というか、探偵はコーヒーを飲むのが当たり前みたいに思っていたりするのだろうか? 確かに探偵もののドラマを見ているとそういう場面は出てくるし、もしかしたらそれを狙っているのかもしれない。ステレオタイプとはこのことを言うのだろうね。
「きみは?」
「いや、要らないよ。そこまで散々と言っておいて、インスタントコーヒーを貰おうとするのはちょっと変わり者というかサイコパスの気があるだろうし……」
それとも、ぼくがサイコパスだと思われている、ってことか?
「え、違うのか?」
「違う……と思う。確証は持てないけれど。だって、サイコパス診断とか受けたことないし」
「一度受けてみたらどうだい。もしかしたらぶっちぎりでサイコパス認定されるかもしれないぜ?」
「いや、普通に考えてサイコパス認定されたいがために診断を受けるつもりはないよ……。それこそ百パーセントサイコパスに認定されちまうじゃないか」
サイコパスと話をしていると、自分もまたサイコパスになってしまうような――そんな感じはするけれどね。感染すると思うよ、サイコパスというのは。
「それじゃあ、ジュースはどうだい? こないだ、秋山から暑中見舞いが届いてね」
「こないだ、って……。出会ったばかりじゃねえかよ。それでも暑中見舞いってあげるものなのか?」
「そりゃあまあ、探偵仲間だからね。数少ない同士でもある。それならば、仲良くしておいて悪いことはあるまい。……まあ、暑中見舞いをこうやって丁寧に送ってくることはあんまりなかったのだけれどね。今までは確か……適当な旅のはがきを一枚送ってくるとか、そんな感じだったのだけれど」
「今年は?」
「ビールとジュースのセット」
「わーお」
普通に暑中見舞いじゃねえか。
「それなら貰おうかな。……ちなみに味は何から選べる?」
「オレンジもあればアップルもあるし、パイナップルもあればグレープフルーツもあるよ」
「選り取り見取りだな……。冷蔵庫の中身を見てから判断しようかな。ところで流石にそこまでいって、実は冷えてませんでした、って落ちじゃないだろうな?」
温いジュースはあんまり美味しくないぞ。
「いやいや、流石にそんなことはないよ。……多分ね」
多分ね、で逃げ道を探すんじゃないよ。
それで温いジュースしかなかったら、ぼくは文句を言うぞ。
冷蔵庫は神原の座る椅子のそばに置いてある。当然ではあるけれど、事務所の所長たる神原が使いやすいように家具家電が置かれているので、冷蔵庫や電子レンジは事務所の奥に固まっている。別にここまで固めなくても良い物を、などと思ってしまうことはあるけれど、神原の家だから別にいいや、と思ってしまう。
冷蔵庫を開けると、缶ジュースが十本ぐらい大量に入っていた。成る程、まだ一本も口を付けていない、という訳か。だったらそれはそれで有難いかな。多少引いたとはいえ、未だに辛さが口の中に残っている感覚がある。だったら、アップルジュースで口直しをしておくことにしよう。
アップルジュースの缶を取って、ぼくはソファに腰掛ける。ゴミ袋が置かれているが、直ぐにそれをどかす。流石にゴミと一緒のソファで座ってジュースを飲みたくはないからね。
「……ここに来た理由を聞いても良いかな?」
「ああ、そういえばここに来たのは……ジュースを飲みに来たんじゃないんだよな。ここは確かにクーラーも効いてジュースもあって快適な場所ではあるのだけれど……、大量のゴミさえ除けばね。ここで住めるのはホームレスぐらいだよ、全く。ちょっとは綺麗にする努力をした方が良いと思うよ?」
「僕ちゃんも努力している方なんだぜ。少しは理解して欲しいものだね……。ところで、ここに来た理由は遊びに来た訳ではない、と? だとすれば、やっぱり仕事の依頼かな?」
そりゃあ、そうだよ。
お前に仕事を依頼するために、わざわざぼくはここまで足を運んでいるんだ。感謝して欲しいぐらいだね。エージェントとして活動しているのも、かなり大変なんだ。今度エージェント料を改定してもらおうかな。三パーセントぐらい値上げしても良いんだぜ。無論、交渉してお互いに納得しないといけないのだけれどね、それこそ労使交渉みたいに。
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