第三章 繰り返しの幽霊

第32話 一週間後

 絶海の孤島での事件が起きてから一週間、ぼくはというもののそこまで日常に異変が起きた訳でもなく、普通の日常を送っていた。

 ただ、強いて言うならば味覚があまりにも変わっていたことぐらいか――当然と言えば当然なのだけれど、あの数日間で三大珍味をはじめとした高級食材のオンパレードを味わえば、誰だって味覚がおかしくなる。

 味覚を元に戻さないといけない。

 そういう訳でぼくは刺激を求めて、近所のカレー店に足を運んでいた。カウンターと小さなテーブルが数個しかない狭い店だが、味はそれなりに美味しいこともあってランチタイムともなれば多くの人でごった返している。

 けれども、ぼくは混雑が嫌だからこうやって時間をずらしてやってきている、という訳。


「はい、お待ち遠様」


 ぼくが注文したのは、辛さマックスのボルケイノ。このお店の辛さは数字で言うんじゃなくて、それに見合った名前で注文することになる。一番辛いのがボルケイノ、それからマグマ、スチーム、と下がっていく形。一番辛さが控えめなのはアメリカンだったかな。アメリカンコーヒーがコーヒーを水で薄めて冷ましていることから来ているらしい。台湾ラーメンも同じやり口だったと思うけれど、どっちが先なんだろうね?

 見た目からして明らかに辛そうなのは分かる。何故ならば、ルーが真っ赤だからだ。こんなに真っ赤なルーを見たことがあるだろうか? いや、ないね。反語表現を使いたくなってしまうぐらいには、真っ赤だ。カレールーというのは、大抵茶色だと思うのだけれど、何故ここまで真っ赤に出来るのだろうか。ターメリックは使っているはずだが……。

 後は匂いか。匂いもどう考えてもカレーの香りが消失している……。鼻を突く刺激臭、或いは唐辛子の香り。どうしてこんな物を注文してしまったのか、今は後悔している。

 けれども、味覚を元に戻すためには仕方ない――ぼくはそう思って、カレールーとご飯をスプーンで掬って、口の中に放り込んだ。

 眼前に、地獄が出現した。



 ◇◇◇



 ――というのはあまりにも言い過ぎなので修正するが、正確にはそこまでではなかった。我慢していた、といえばそれまでだけれど、辛さをここまで濃縮させてしまったらこれは最早痛覚と変わらない――そんなことを考えるぐらいだった。

 良くこんな物を提供出来るものだ、と思う。注文した人間が文句を言うのはどうかと思うけれど、本当にこれは作った人間は食べられる代物なのだろうか? きっとそうじゃない気がする。そうじゃないと思うんだよな。違うだろうか? 一度きちんとマスターと話をした方が良いかもしれないな。


「……お前さん、いつもそんなに辛い物を注文しちゃいないのにどうしたのかと思ったけれど、まさか辛さを克服した訳じゃねえのか?」


 ぼくの苦悶した表情を見かねてか、マスターはぼくに問いかけた。


「いや……大丈夫」

「全然大丈夫じゃねえよ。そのひねり出したような発言は、ちょっと心配になるな。……あー、水は飲まない方が良いぜ。水で流し込めるような感じがするかもしれねえけれど、それは大きな間違いで、実際はさらにヒリついてしまうっていう悪循環に陥っちまう。だから実際には――」


 そう言ってマスターは湯呑みをぼくの前に置いた。中からは湯気が出ている。まさかお湯……なのか?


「何だ、その驚いているような顔は。まさかお湯では駄目だと思っているのか? 逆に辛さが増してしまうんじゃないか、なんて思っていたりするか? だとしたら、そいつは大きな間違いだと言っておこう。水よりもお湯みたいな温かい飲み物や牛乳やヨーグルトなどの乳酸菌飲料が一番良いんだ。ラッシーがご希望かい? だったら、一杯分の料金は貰うがね。お湯だけなら、サービスにしてやるぞ」

「そういうところはちゃっかりしているんだよな……」


 ともかく、助言通りお湯を一口。熱々ではなく、人肌とまではいかないがちょっと温めになっているのが非常に有難い。

 飲んでみると……確かにちょっと和らいでいるような気がする。


「確かに……」

「ラッシーは飲むかい?」


 ラッシー推しだな、マスター。

 そんなに注文してもらいたいか。

 というか今飲んでしまうとカレーを食べきれる気がしないし、取り敢えずそれは食べ終わってから注文することにしようかな。最初はタンドリーチキンでジャブを繰り出しておくべきだったな。最初からこんな激辛カレーなんて食べられる訳がないだろうし。


「ラッシーは美味しいけれど、確かにその通りではあるかね。一度飲んでしまうとカレーと交互に食べていけばあっという間にラッシーはなくなってしまう。それぐらい魔力のある飲み物だよ。ラッシーというのはね……」

「あ、いや、結構です」


 ラッシーについての知識を延々と語られてしまっては、カレーを食べるタイミングがなくなってしまう。

 こうしてお湯という最強のパートナーを手に入れたぼくは、この激辛カレーを倒すべく再び戦いに挑むのだった――。



 ◇◇◇



 食べ終わるまでに、三十分の時間を要した。

 ラッシーを飲みながら、ぼくはマスターと簡単に会話を交わしていた。因みにラッシーはプレーンを飲んでいる。激辛カレーで口内がズタズタになっているので、ヨーグルトの優しい味は今とても相性が良い。もっと飲みたいところだけれど、これは流石に自分の胃と相談しないといけないかな。あと乳酸菌だから飲み過ぎると後でトイレに駆け込むことになりかねない。


「食べきれるとは思ってもみなかったよ。……そのラッシーは、別に金は払わなくて良いからさ。男意気、見せてもらったからな。あ、二杯目からはちゃんと正規の料金を支払ってもらうからねえ。それはそのつもりで頼むよ」


 何だか良く分からないけれど、ラッシーは支払わなくて良いのか……。だとしたらちょっとラッキーではあるかな。こんなカレーを食べるのは、正直罰ゲームを自ら望んで行ったって形になるのだろうけれど、それが良い方向に成功したというのならば有りだったかもしれない。きっとぼくの味覚もリセットされたことだろう――逆にこれでリセットされなければ何をすれば良いのか全く見当がつかない。絶食でもすれば良いだろうか?


「それにしても、どうしてこんな辛いカレーを食べようとしたんだ? 珍しいじゃないか。あの探偵の差し金かね?」

「まあ、遠からず近からず……といったところですかね」


 マスターも神原のことは知っている。

 というか、この店自体が神原の事務所から歩いて行ける距離にあるから、神原も良く足を運んでいるのだ。あんな事務所では炊事など出来やしないから。

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