第4話 ブラック・みさを
みさをが持って来たものは、個包装されたお菓子。
包装の中にはクリームの上下をパンで挟んだお菓子が入っていた。
「これって……マトリッツォ?」
パーカーに袖を通して、フードを被っていないみさをがプッと笑う。
「それを言うならマリトッツォ。近くの洋菓子店で見かけたから、買っとこって。最近見なくなってきたし」
マリトッツォとはブリオッシュと呼ばれるやわらかいパン生地にあふれんばかりの生クリームを挟んだ、イタリア発祥のお菓子である。正確にはマリトッツォという名前は、この菓子を婚約者に贈る習慣に由来しており、贈るのは男性から女性で、贈った人はイタリア語で夫を意味するマリートの俗称である「マリトッツォ」と呼ばれていた。
「マトリとかマリトとか、色々細かいよねぇ」
「女子は繊細なんです」
言って、みさをは淹れ直したホットのカモミールティーを口にした。
「……なんです?」
そして、小須戸の視線に気づいたのか、みさをも怪訝な顔をして問いかける。
「えと……、寒くないの?」
「うちは大丈夫です。大人の女性ですからね。こうして上着できちんと防寒してますから」
みさをは右手でパーカーの胸元をくいっとつまんで、その存在を小須戸に示す。
「ジッパー閉めてフードまで被らなきゃ、カエルのだってわからないデザインだから問題ありません」
「……風邪ひかないでよ」
みさをがそういうのだから仕方がない。小須戸はマリトッツォを食べながら気遣う発言をして、その場を取り繕う。
「ケンジくん」
みさをの呼びかけに顔を向けると、みさをの指が自分の顔に向かって伸びている。
小須戸も少し身を乗り出すと、みさをの指が小須戸の口元を拭う。
みさをは指先についている、マリトッツォのクリームをこれみよがしになめとった。
「ほんとにもう、うちがいないとダメなんやから」
言いながらみさを自身、わざとらしさにニヤニヤが隠せていない。
「ありがと」
さすがに色々と察した小須戸も笑って、みさをに感謝を伝えるのだった。
*****
休憩明けの議題は検査キットでの自己検査について。
「『要は、鼻腔検体であれば1回の検体でインフルエンザとコロナとできますので、もう思い切って、要するに自宅でやっていただいて、その結果だけわかっていれば陽性の方だけに薬だけ処方する形でまとめてやるであれば、すごくいいと思うんですけどね。』」
「『実際にやりましたよね、保健所とかセンターとかで。だけどなかなか集まってこないので、やっぱりなかなか自分の鼻にこう突っ込んで、というのが本当にできてるのかなという不安を覚えますけどね。我々はやっぱりしっかりと奥突っ込んでやりますので。』」
小須戸とみさを、互いの読み上げ。
「まーた、これですか」
「仕方ないよね」
「足りぬ足りぬは、工夫が足りぬ」
みさをはパーカーから指先だけ出した状態で、う~んと伸びをする。
「ああしろ、こうしろ。というのは現場を知らぬ人ばかり」
そして、みさをはげんなりする。
「だから、こうして会議をして話し合ってるわけだし」
いちいち反証してくる小須戸にみさをはムッとする。
「僕らもこうして、前みたく仕事でふたりの時間が持てたんじゃない」
「それは~……、そうなんですけどぉ」
それを言われるとみさをはどうしようもなくなり、指で机をクリクリするしかない。
「『やっぱり、皆保険制度をとっているわけですし、それこそみんな税金であったり保険料というのを払って国民皆保険というのを作ってるのにもかかわらず、行き先がないっていうのはやっぱりちょっと違うと思うんですよ。なので、今のコロナの扱いをインフルと同じように検査できないっていうんであれば、もう自己検査も含めた仕組みって作れないのかな。』」
小須戸の読み上げ。狙っているわけではないのだろうが、どこかみさをには引っかかる内容である。
「『インフルエンザにつきましては、すぐに検査をして発熱があればすぐ薬出したらもう1日2日で下がるわけですよね。それだけのしっかりした薬ができてるっていうのが、あるわけですよね。今それがないんです。』」
なので、みさをは反撃する。
「『点滴をするか、飲み薬もありますけどどんだけあるか4割かとか言われてますから、それがしっかりともう飲んだら1日2日に下がるんですという薬が出てきたらそれも当然そういう形になっていくと思うんですね。ただそれがないので、今そうなってることかなと。それでやはり高齢者に行ったときにやっぱり死亡に繋がっていくということがあるので、それがはっきりしたらもう全然5類で問題ないとは思うんですけど、そこはなかなかやっぱり専門家としてはだからそこが譲れないところがあるんじゃないかと思うんですけど。』」
みさをが読み上げている最中も、小須戸はノートパソコンのモニターを凝視している。業務に向かい合う真剣な横顔。
思わず、みさをは表情がほころんでしまう。きっと今の自分の顔は人には見せられない。
「『当初、未知のウイルスで非常に感染性が強いと、であればやっぱりこれは専門的な医療機関とか専門的な先生だけしか見れないから仕方ないんです、というのであれば分かるんですけど、2年経ってこの状況の中で、この通知が今も生きているというのは、医療界としては妥当だということなんですかね。僕は府民の立場からすると、いやもうちょっと同じように見てくれないかな、近いところとか、身近なところで見てくれないかなというふうになっていると思うんですけど』」
小須戸の知事の発言の読み上げ。
ちょっと声が違うのだが、それはまあ小須戸が真剣なのだから許す。許さざるを得ない。
みさをは返答を読み上げる。
「『今、かかりつけ医の制度化とかいろんなことに繋がっていっていますけども、結局それを診るということは、一類二類の感染症をもし診たとして、知らない間に罹って患者さんにまたうつしているということが起こる可能性があるわけですよね。そういう場合は阻却されるはずなんですね、これは絶対。だから別に患者さんにうつっていいんですよ、というのだったら僕らはなんぼでも診るわけです。でもそれが駄目だから絶対診ないようにしているんです。』」
結果として、身も蓋もないと自分で言った内容を自分で口にする事態になってしまった。
「『どこでも診療ができるんだ、どこでも入院できるんだといって、中小病院の狭い、ベッドの少ないところをたくさん作ってきました。全部民間に預けてきたんですね、国が。そのときに感染症という考え方は全くなかったんですよね。だからそれが今、完全にもう医療費の抑制とそれによって診れなくなってしまったというのが今の現状』」
結局、誰が責任を取るのか。国なのか、医療従事者なのか、それとも自分自身……自己責任となるのか。
「責任の押し付け合い、擦り付け合い……でええんやろか、これ」
「『非常事態みたいになってきたときに、自分で、リスクの高い高齢者の方とかは、かかりつけのクリニックに行く、と。若い世代がそうなったときは、もうそういうときは、オンラインとか、あるいは自分で検査してくださいという仕組みを作って、薬が処方されるなどの対応が必要なんじゃないかなと。じゃないとやっぱり不安になって救急車を呼んだりもすると思うのですよね。救急車を呼んだら救急隊員が大変だし、そりゃ救急病院も大変になります。特に土日に検査も少ないと。』」
「だったら黙ってワクチン打つなり、マスクして大人しくするなりしとけばええやん。さんざん好き勝手やって、なったらなったでなじった相手に助けてーって、ぎゃーすか騒ぐなんてみっともない」
みさをは吐き捨てた。
黒みさをの降臨。ブラック・みさを。
小須戸は心の中だけでそっとつぶやき、何かなだめられる発言が議事録に無いか、懸命にスクロールする。
『5類にされると、我々はやっぱり診ないといけません。やっぱり困った患者さんを診ないといけません。ただそれが本当に、高齢者とかハイリスクの人に広がらないのかというところを考えていただきたい。今国が悩んでいるのはそこだと僕は思います。』
医療従事者の発言が目にとまる。
これはダメだ。さらにみさをがヒートアップしてしまう。やっぱり弱い人が泣きを見るんやないですか! と炎を吐き散らさんばかりの在りし日の姿が想像できてしまう。
何か……、他に何か。良い感じに納得できて、良い感じに収まりそうな何か。
「『時間の問題がありますので、次に入院について、オール医療体制の入院ということについて、これも議論を深めていきたいと思います。』」
いちかばちか。苦しいのは承知の上で小須戸は読み上げた。
横目でみさをの様子をちらりと伺う。
「……しょうがありませんね」
みさをは後頭部をポリポリと掻きながら、気を取り直したようだった。小須戸は内心、胸をなでおろしたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます